2-5:イシアの魔法力
しばらく無心で軽食の準備をしていると、誰かが階上から降りてくる足音が聞こえてきた。
厨房の扉が開かれ、洒落っ気のある髪紐が目に付いた。イシアだった。
「いい匂いですね。とりあえず淡い期待でもしてましょうか」
「もう少しでできる。何か用か?」
「水をもらおうかと思って」
エゼルは振り返る。
彼女は
「なあ、お前たちが
「ぷは。マクリエがファーリャ、ヴァーテがアゼイ、私がラムリです。そんなことも覚えていないのですか?」
「そう言うな。お前たち好き嫌いが激しいから、覚えるのも大変なんだよ。それにしても、イシアはそういう方面に詳しいな」
「ごく、ごく……。別にどうということはないですよ」
「あれか、昔誰かに習っていたのか?」
「覚えてないです。それにそういう質問、私はあまり好きじゃない。……ごく」
出逢った頃からそうだったが、このイシアという少女、一見おっとりとして包容力があるように見えても、実のところ人付き合いが苦手なのだ。
三人揃っているときは『三姉妹の長女』然とした態度を取るものの、こうして一人になるとどこか壁を作る癖がある。
こうした性格が、彼女の喪われた記憶と関係しているかどうかは定かではない。エゼルにわかっているのは、彼女が根っこのところにおいて頑固で心の内をなかなか見せないということだった。
「ちょっと
ぽつりとイシアはつぶやいた。水瓶に手をかざし、詠唱を口にする。
「――冷えて――」
たった一言。
水面に波紋が広がったかと思うと、みるみる内に表面に
慌てたイシアは集中を解く。同じように短い言葉をつぶやくと氷はあっという間に溶けて、元の水に戻った。
それを水杓ですくって口に入れた彼女は、何とも微妙な表情を浮かべる。
「余計温くなってる……。おかしいな。このぐらいなら大丈夫と思ったのに」
どこかのぼせたようにつぶやく彼女の後ろ姿を、エゼルはじっと見つめていた。
彼女が先ほど使用した魔法は水属性。水を操り氷に変えるものだ。
人間が扱う魔法属性は四種類。火、空、土、そして水。
このうち空は火の上位属性、水は土の上位属性で、その扱いには高い適性と練度が必要となる。
まして、たった一言の詠唱で水属性魔法を発動させる人間となるとかなり
同じような芸当が可能な人間をもし挙げるとすれば――まっさきにエゼルが思い浮かべるのはあの僭王リザである。彼女の魔法力は上位属性を苦もなく扱うほど絶大なものだった。
三乙女のうち魔法と言えばヴァーテだが、単純な魔法力だけで比較するとイシアの方が力は上だ。
特に定型句も使わず、限りなく単語に近い詠唱で魔法が発動できるというのは際立った長所と言える。
が、逆に致命的な欠点も持っていた。まともに扱える魔法が何一つないのである。
イシアの場合、定型句を使用するとなぜか魔法は発動せず、ならば自分の好きに詠唱をすると今度は制御ができなくなる。高い魔法力が宝の持ち腐れとなっているのだ。
本人もその自覚はあるのか、普段は滅多に魔法を使おうとしない。
それなのに、今回に限っては
エゼルは表情を引き締めた。
「イシア」
「ごく……ぷは。はい?」
「服を脱げ」
――水杓が凄まじい速度で飛んできた。
尾を引く気持ちいい音を立てて、エゼルの額に直撃する。
「叫びますよ壊しますよ脅しますよ? いいんですか?」
「落ち着け。別にどうこうしようってわけじゃない」
「ゼルさん普段メチャクチャにされてますから、ここで私に仕返しをしようとしているのですね? そうですね? 何と言う人でしょう。とりあえず人として退化したらどうですか? そうすれば私たちも心おきなく下僕扱いができるでしょう」
「お前のその罵倒文句には時々感心する」
心からそうつぶやく。
彼はイシアの前に立つと、怪訝そうな、戸惑った表情を浮かべる彼女の手を取る。
見た目ではわからない微かな震えを手に感じて、エゼルは声を潜めた。
「どこをやられた?」
「……え?」
「誤魔化しても駄目だ。お前、今立っているのも辛いんじゃないか?」
そう問いかけると彼女は首を横に振った。
「何をいきなり。それを私の裸が見たい言い訳にするなんて、男が小さすぎですよ」
「これに見覚えがあるだろ」
彼女の言葉を聞き流し、エゼルは道具袋から布に包んだ短剣を取り出し机の上に置く。
刃渡り六寸強(約二十センチメートル)、どこにでもあるような鉄製の短剣にも関わらず、イシアの目が見開かれる。
「それは……拾ってきたのですか? まったく物好きですねこの下僕は」
一瞬言葉を詰まらせるが、彼女は澄ました顔で肩をすくめた。
エゼルは厨房の入口を振り返り、他に誰も降りてくる気配がないことを確かめた。
「あのなイシア。辛いときは素直にそう言ってくれ」
「だから違うと」
「少なくとも僕に言うだけなら、マクリエたちに心配はかけないだろ?」
イシアは口をつぐんだ。しばらく何か言おうと口元を細かく動かしていたが、結局彼女は頷いた。上目遣いにエゼルを見る。
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