第七章 精霊の国からの脱出②
ミリアムが縦穴を音をたてないよう慎重に下りていると、頭上でかすかに人間の悲鳴が聞こえた。ブランボとは別の男の哀れな断末魔。途端にミリアムの神経は恐怖で混乱し、統制の取れていた手足の動きはめちゃくちゃになった。ミリアムは落石のように転がり落ち、しこたま腰を打ち付けてなお、じたばたもがきながら横穴を進んだ。縦穴を離れると横穴は再び真っ暗闇になったが、前など見ていなかった。夢中で這い進み、頭や体を壁にぶつけ、痛みが恐怖を超えて脳に到達してやっと、ミリアムは我に返った。
『落ち着け。落ち着くんだ』
ククルトが繰り返し自分に語りかけていた。ミリアムは止まって後ろを窺った。
闇に変化はなく、自分の荒い息遣い以外何も聞こえなかった。気づかれなかったのか。それとも気づかれてファニの所に先回りされているとか。
『とにかくここから出ろ。広いところに出るんだ。そうすれば我が何とかする』
ククルトの言う通りにしようとしてもどうしたらいいのか分からず、ミリアムは動けなくなった。代わりに頭の中は渦の中に放り込まれたようにぐるぐるとかき乱れた。広いところなんてある? 縦穴の上、司祭やブランボのいるところ? だめだ、またやられてしまう。また目を覚ました時、あの血まみれの魔方陣の傍で縛られているのは自分かもしれない──ククルトがうなった。不満だが同意見らしい──ならばここに隠れていようか。ファニが誰かに話せば逃げ場はない。終わりだ。どうしよう。助けて誰か! 助けに来て!
脳裏に浮かぶのは自分を絶対助けてくれる人、オルト婆の顔だ。そしてレング先生。トリクシーもできるだけそうしてくれる。今頃みんなどうしているだろうか。オルト婆やトリクシーは自分のことを待ってくれているだろうか。それぞれの仕事をやりながら、もう帰ってくるかと話をしながら。先生は……先生は鳥の女王に捕らわれているんだった。ここの封印を解いて先生を返してもらわなければならないのだった。そのためにここに来たのだ。ロスアクアス家の司祭になろうとしてまで。でももう、そんな約盟どころではなくなった。封印とはなんのことなのか、遺鯤(イハラゴ)が封じられているあれのことか、それとも他にあるのか、それすら分からない。分かっているのは、このままだと生きて山から出られないということ。オルト婆や先生、トリクシーにも会えなくなるということ。自分一人の力では無理なことだったのだ。
後悔してもこのままではどうしようもないので、ミリアムはとにかく動くことにした。方向はファニのいる元の部屋。途中の閉まっている通風口の所で耳を澄ませば、様子が少しでも分かるかもしれない。
そこは来た時と同じような静けさだった。カーテンは開けられないので部屋は見られなかったが、騒ぎになっている感じではない。もう一つの通風口もそうだった。だんだん落ち着きを取り戻し、自分はまだ見つかっていない方にかけてもいい気がしてきた。儀式が終わるまではまだ時間がある。ファニの所に戻って一緒に考えてもいいはずだ。
暗闇の先に部屋の明かりを捉えた時にはさすがに不安が和らいで、思わず上体を起こして頭をぶつけてしまった。それでまた冷静になって、明かりまでそっと忍び寄り部屋をのぞいた。
ファニは出ていく前と同じように岩のベッドに座っていて、こちらに気づいてかすかに微笑んだ。
ミリアムもほっとして通風口から降りようと足を出した。
何者かにくるぶしを掴まれ、床まで引きずり落とされた。勢いで壁に頭をぶつけてしまい、視界に星が瞬いている間に胸ぐらをつかまれて起こされた。
「律儀に戻ってくるとはえらいえらい。そっち側は行き止まりだったってことかなあ。どうなんだ」
目の前に血走った大きな目を見開いて笑うカウロの顔があった。
「途中で引き返してきた。まだ先があったけど、ファニに帰るって言ったから」
カウロはまたミリアムを床に押し倒すと、ミリアムの足首に細いロープを結び付けた。隣の部屋で自身を縛っていたロープを一本につないだものだった。ミリアムは倒されたままファニを見た。ファニの笑顔は冷たく、スカートの下半分は這いまわったミリアムのボトムと同じようにこすれて汚れていた。ファニもただじっと待っていただけではなかったのだ。
「次は反対側だ」ロープを結び終わったカウロは通風口を指差した。「反対側の様子を見てこい」
「これ外して!」
ミリアムがロープの結び目にかけた手をカウロは乱暴にはたいた。
「時々引っ張るから同じ数だけ引っ張り返せ。何か見つけたら三回引け。ほどいたらあいつらを呼ぶからな」
「ロープが届くところまでしか行けないじゃない」
「いいから行ってこい!」
「ファニ!」
ファニは表情を変えずに眺めているだけだった。ミリアムはカウロをしばらく睨んでいたが、カウロもファニも表情を変えない。時間も惜しかった。ミリアムはだるい体を起こして、仕方なく通風口によじのぼった。なかなか体が持ち上がらないので、カウロにおしりを押される羽目になった。
右を向くと、カウロのいた小部屋の通風口の格子が何者かに破られていた。そこから離れれば真っ暗な中を手探りで進むことになったが、だんだん焦げ臭くなることと先が左へ大きく曲がっていることが左側と違っていた。料理をしているような匂いではなく、オルト婆が薬を作っている匂いに少し似ていた。
時々右足の革のロープが引っ張られる──3回、1回、2回。そのたびに足を動かしてロープを引かなければならないのが煩わしかった。ただでも足が痛いのに。ミリアムは何度か叫びたい衝動にかられた。
穴に沿って左に曲がると、こそこそと話し声が聞こえはじめ、やがて熱い空気が噴き出す管にぶつかった。煙突のようだ。煙突はミリアムが来た方向に大きく口を開け、道をふさいでいた。ミリアムは直に熱い空気があたらないよう体の向きを変えて、煙突の奥から聞こえてくる音に耳をかたむけた。声はカイエン人の言葉で、ごりごりと石臼で粉を挽くような音も混ざっている。
『なんて言っているか分かる?』ミリアムはククルトに訊ねた。
『訛りがひどいな。司祭の言葉は古よりほとんど変わっていなかったが……花嫁がいいとかどうとか……』
急に甲高い声がして話し声が止んだ。純度の高い金属をかち合わせるような声が続けざまに何か叫ぶと、熱い空気は止まり、元いたカイエン人たちはぶくぶく泡を吹くような声を出しながら遠ざかっていった。
『可聴域ギリギリの奴はまだ司祭の言葉に近いな。火をやめろ。向こうを手伝え。さっさとしろ……とな。火ではなくて薬かもしれん』
それ以上先には煙突が邪魔で行けなかった。おまけに小さいものがたくさんかさかさと這いまわる音もする。煙突も頭を入れるのがやっとの大きさなのでそこから降りるのも無理。ミリアムは力いっぱいロープを引っ張った。するとするするとロープが巻かれていき、ミリアムは引きずられながら元いた部屋まで戻された。
子ヤギが産まれるようにずるりと穴から出てきたミリアムを見てカウロは笑った。
「なんだ墨がついてるじゃないか。何かあったのか?」
「煙突があって、そこから先に進めなくなってる。煙突も狭くて入れない」
「それだけか。なんか声がした気がしたぞ」
「聞こえてたんだ。でもカイエン人の言葉なんて分からないし、部屋も覗けなかった」
カウロは少し考えてから上着を脱いでシャツとズボンだけになると、荷物をあさってポケットにいろいろ詰めはじめた。
「何する気よ」
ファニが顔を引きつらせながら訊ねた。
「やっぱり反対側へ逃げるんだよ。煙突があるってことは、どっか外に煙を出すところがあるんだ。俺たちを煙攻めにする気じゃなければな。俺は化け物と仲良くなるのはごめんだ。祭りだの家だの知ったこっちゃねえよ」
ミリアムも自分の肩掛けかばんを下げて剣と魔法の杖を腰に付けた。一時でも早くここを出るにはカウロの推測に賭けるしかないと思った。
ファニは身支度をする二人を見ておろおろしていたが、カウロが穴を登ろうとすると「うまくいくのよね。きっとうまくいくのよね」とつぶやきながら花嫁衣裳のスカートをかなぐり捨て、自分の荷物から取り出したズボンをはいた。
ミリアムは穴に入る前に試してみたいと思っていたことがあった。ミリアムももう真っ暗闇はごめんだった。カバンからカンテラを取り出し、中の魔石をじっと見つめ力を込めた。何度も遭遇したブランボが魔石燈の火を操るシーンを思い出す。魔石の中にオルト婆から習った基本的な火の紋が眠っている。それを揺らせば熱が生まれて魔力を燃料に焔が点る。揺らす息吹は呪文で作れる。ブランボが魔石に火を入れる時、火を大きくしたり小さくしたりするときに何度もつぶやいた言葉、オルト婆が火を使う時と同じものがあった。
ミリアムが記憶をなぞって発した音は、火の紋と共鳴して小さな明りを灯した。驚くファニをしり目にミリアムは通風口の中に入った。続けてファニも上がってきた。
「よこせよ」とカンテラに手を伸ばしてきたカウロの手をミリアムは自身がされたように強く払った。
「行ってよ、先に。誰かが出口にいて、トンネルから急に明かりがさしたらびっくりするじゃないの」
カウロ、ミリアム、ファニの順に穴を這い進んだ。
縦穴の近くまで来た時、ミリアムは「止まって」と小さく声をかけた。
「そこの割れ目で体を伸ばせるけど、上が遺鯤(イハラゴ)様のいる大きな部屋につながっているよ。さっきはここから引き返してきたの。そこで今ブランボと司祭が何か儀式をしている。静かに通り過ぎたほうがいい」
「でも体がもたない。ちょっとだけ寄るぞ」
三人はそっと割れ目を登って体のあらゆる関節をできるだけ伸ばしたりほぐしたりして痛みを取ろうとした。一番上になったカウロは気が気でないようで、数分で降りるよう足で促した。
先に降りたのはファニだったが、ファニもミリアムも後ろに下がっていったので、再びカウロを先頭にして移動を始めた。体の痛みはほとんど消えず、痛みを超えて苦しくなっていたが恐怖が三人を動かしていた。
だが、そんなに長く耐えなくてもよかった。再出発してすぐトンネルが少し蛇行すると、前から空気が吹き抜けるような風鳴りが聞こえて、はるか前方に丸い薄明りを捉えたのだ。
ミリアムはカンテラの前を裾で覆い明りが前から見えないようにしてカウロをつついた。カウロが緊張でこわばりながら慎重に前進し、先に広がる空間にそっと頭を出して外を伺う。
カウロが白い歯を光らせて二人を手招きした。
「俺の思った通りだ」
穴の先は漏斗のように広がっていたので、カウロが横に寄ると、ミリアムとファニが並んで外を見ることができた。
ミリアム達が通ってきた横穴は、より太く大きな洞穴につながっていた。洞穴はでこぼこの壁の所々から割って出た卵塔の根に生る血晶岩塩の淡い光に照らされていて、水音の響く下の闇から光も吸い込まれる暗黒の天井へ斜め上に続いていた。ミリアムがカンテラを突き出し強い光であたりを照らすと、ミリアム達が通ってきたような横穴が周囲にいくつも口を開けているのがわかった。水や汚物が流れ落ちている横穴が多く、異様な臭気が風に乗って下から上へ飛ばされていた。
「ここからどうするの? ねえ。上に行くの? 下に行くの?」
ファニの焦る声が洞穴に響き、残る二人は黙って顔を見合わせていた。どの顔も疲労困憊していた。ミリアムは新しい洞窟の内部を見回してみたものの、脳内に霞がかかったように現実味がなくて、これという考えが何も出てこない。
カウロも袖や裾を引っぱるファニの手をうるさそうに振り払いながら洞窟内を眺めていたが、急にびくっと縮こまり、横穴の壁に体を押し付けた。唖然としているミリアムにカウロは斜め上を指さしてみせた。
指の先にある横穴にこちらを窺う二つの目があった。
咄嗟にミリアムとファニは後ろに逃げようとして、二人同時に動いて穴に詰まってしまった。そのままじっとしていると、向こうが身を乗り出してきた。カイエン人だった。骨の形が浮き出るほど痩せていて皿のような眼の奥で残った生命力が光っている。カイエン人は首周りのだらりと下がった皮を震わせ、泡をぶくぶく吹くような言葉を発した。
『ククルト』
『ひどく訛っていてわからん。子ども? 導き? 腹?……』
「おい」じっとカイエン人の声を聞いていたカウロが二人を呼んだ。「何か食べ物はないか。あいつ腹が減っているんだ」
ミリアムは首を振った。ファニは震えながら懐から飴玉を数個取り出し、カウロに差し出した。それをカウロは全部握ると、そのうちの一個をカイエン人めがけて投げた。カイエン人は枯れ枝のような手でそれを掴むと、包み紙ごと大きな口の中に放り込んだ。バリバリと飴をかみ砕き、ごくりと飲み込むと嬉しそうに目を細める。すると、他の穴からも次々に痩せたカイエン人が顔を出してきた。カウロは出てきたカイエン人へ残りの飴玉を全て投げると、開いた両手を振ってもう何も持っていないことを伝えようとした。ミリアムも同じように手を振ってみせた。
飴玉を受け取れなかったカイエン人は穴の奥に引っ込んでいったが、飴玉を食べることができたカイエン人たちは一斉に同じ方向を見つめた。ミリアム達からみて向かいの右斜め下の穴──壁の凸凹を足場にすればなんとか移動できそうな所にある。
「あれか? あれでいいんだな」
カウロがその穴を指してカイエン人に訊ねたが、カイエン人たちは何か言うこともなく全員奥に消えていってしまった。
他に道を決める手がかりはないので、三人は慎重に壁を伝ってカイエン人が示した穴に移った。
その穴は緩やかな上り坂になっていたので、手足を壁に突っぱねるように進まなければならなかった。その壁には強烈に生臭い汚れがこびりつき、しかも少しずつ狭くなっていく。カウロは悪態をつき続け、ファニはすすり泣き、ミリアムは絶望感に押しつぶされて本当に発狂しそうだった。
「ここに出口がある!」
蓋つきの横穴を見つけて小さく叫んだカウロが救世主に思えたほどだった。三人は外の様子を窺うのもそこそこに、急いでその穴から外へ出た。そこは網や大きな籠がたくさん置かれてある狭い部屋で、真ん中には人が寝転べるくらいの革の敷物が敷いてあったが、幸い誰もいなかった。三人は籠や山と積まれた網のすき間に身を隠した。
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