第六章 儀式①
ミリアムはトリクシーの駆る馬に乗ってロスアクアス家の屋敷の正門の前に来た。
「私よ。帰ったわ」
トリクシーが飾り気のない木組みの大きな門に向かって叫ぶと、脇の通用門ののぞき穴から見えていた皺に囲まれた目が引っ込み、正門の片側が薄く土煙を巻きながら内に開いていった。徐々に広くなる隙間にトリクシーが馬を滑らせるように入れると、すぐに門は閉められた。
門の内側には門を動かして息を荒げている目じりの皺の深い門番と、ディエノにそっくりなぎょろ目だが彼よりスマートで背の高いディエノの弟が待っていた。ミリアムは彼らにあった途端体が固くなって動悸が速くなってきた。
「ミリアムです。今帰りました」
馬から降りるのも忘れて頭を下げると、ディエノの弟はジッとこちらを睨んだが「馬をなおして二階の義姉のほうへ行け」と指示した。
「ディエノは今鉱山だ。女子供は掘っているときは鉱山には入れない決まりだ」
「わかったわ」
トリクシーは軽く返事をすると、馬の腹を軽く蹴ってそのまま庭を突っ切り、屋敷裏の馬小屋に行って馬を預けた。
本館の中は真昼の強い陽光を厚い壁で遮っているおかげで相変わらず陰気で冷たい雰囲気を漂わせていたが、二階の奥方の部屋まわりは漏れてくる女たちの甲高い笑い声があたりの空気の温度を若干温めていた。
ミリアムは扉の前に立つと、隣りのトリクシーの頷きに背中を押されて扉をそっと二回ノックした。
「あの、ミリアムです。帰ってきたのでごあいさつを……」
ミリアムが言い終わらないうちに扉の隙間から奥方の中年の侍女が顔を出した。侍女は二人を確認するとすぐに扉を大きく引いて「奥方様! ミリアムです!」と大声で叫んだ。
賑やかだった部屋は急に静かになり、十名ほどのロスアクアスの女たちが一斉にミリアムたちに注目した。
ディエノの奥方はいつものように他の女たちより一段派手にに装って目立っていたが、その時の主役は皆の中心に立っていたシエラだった。
シエラは上にサテンの白いブラウスにクリーム色の上質の厚手の生地に色とりどりの花の刺繍をほどこした上着を、下は重ねたペティコートでふんわり膨らませて上着と同じ布と刺繍がされたくるぶしほどの丈のスカートを着ていた。どうやら花嫁の衣装合わせのようだ。
ミリアムはこれまで村の結婚式を何回か見物したが、ここまで豪華な花嫁衣装はみたことがない。シエラはさぞ自慢げであろうと思ったが、彼女はなぜか表情が暗くうつむき加減で青ざめてすらいるようだった。
「やっと帰ってきたの」奥方はあきれたような声だった。「結婚式に間に合ってよかった。あなたにも手伝ってもらわないといけないからね」
「どんなことを手伝ったらいいでしょうか」
恐る恐るミリアムが尋ねると、奥方はさっと背をむけて言った。
「ブランボさんに聞いてちょうだい。あなたのことはあの人に任せてある」
侍女が扉を閉めようとしたので、ミリアムは急いで「ブランボさんはどちらに」と問うと、侍女は「鉱山か司祭の部屋でしょう」と言い放ってバタンと閉めた。
ミリアムとトリクシーは締め出しをくらったようになってしばらく呆然としていたが「鉱山に行っても入れてもらえなさそうね」「そうね」と話しあって気を取り直し、司祭の部屋に行ってみることにした。
司祭の部屋に降りて、両開きの木製の扉をミリアムがノックをしても中からは物音一つしなかった。トリクシーが扉を押すとすっと開く。鍵はかかっていなかった。
「いないならいないでここで待っていようよ。屋敷をふらふら歩くのもつかれるし。誰もいないのー?」
トリクシーはブランボを呼びながら部屋を歩き回った。
ミリアムも入って辺りを見回した。司祭の部屋に入ったのは魔法生物が暴れた時以来だ。室内の魔石燈は奥までずっと点いていた。扉近くのリビングから合わせ鏡の世界のように果てしなく本棚の並ぶ奥のほうまで明るかった。
家具は似たようなものが前と同じように配置されていて、ブランボが持ってきた長持も壁際に置いてあった。そばの大机には分厚い本が何冊も積み重なっている。椅子の前にはページをめくられたままの本もあった。
壁はあの時ガナンが直したままだが、続く二つの小部屋の入り口には元のような扉はつけられていなかった。奥の小部屋には扉の代わりに鉄格子がはめられ、一匹になった白い魔法生物がうずくまっていた。首元は鎖で壁につながれ寝息が微かに聞こえてきたが、ミリアムは無意識のうちに身構えていた。手前の小部屋には鉄格子もなく、大きな球根のような魔法生物の植わった鉢が丸見えになっていた。オルト婆の見立てが正しければガナンという名前らしい。
ミリアムは恐る恐るガナンに近づいた。鉢にはレングの剣も刺さっていた。ミリアムは剣を引き抜いて腰にさすと、ガナンのぷっくり脹れた茶色い面をそっと撫でてみた。初めてガナンに触ったときよりかさついている気がする。
ミリアムは下げていた鞄から栄養剤の瓶を取り出しふたを取ると、尖っている瓶の先を鉢の土に挿した。さらりとした緑色の液体がじんわり土に吸い込まれていく。
「なにしているの」
トリクシーが小部屋に入ってきた。
「おばあちゃんがお礼をしておけって言っていたから」
「やっぱりこれがガナンなの?」
トリクシーも魔法生物の表面をつんつんとつついた。
「おばあさんは部屋中に枝をはりめぐらせて、あちこちに口があってしゃべるっていっていたけどなぁ……」
バリバリと何かが破ける音が聞こえ、二人はガナンを見上げた。
固く窄んでいた頭頂部の皮がゆるんで外側にめくれ、筋の入った細い茎がするすると伸びていった。それはすぐに天井を突き、横に這いながら細長い葉が互い違いに生えて、葉の付け根にはトウモロコシに似た紡錘形の固い実が次々となった。六つ生った実は順番に大きくなっていく。熟れて皮に裂け目がはしると赤い果肉がのぞいた。その肉に皺がはしると、実は身をよじって皺を擦り合い、くぐもった声を発した。
『今から113年2ヶ月21日前にオルトが私にこの配合成分を与えた』
『この配合は113年2ヶ月25日前にピサロがオルトに教えたものだ』
『記録の時刻は問われない限り省略せよとピサロに言われている』
『あの石を持ってきた者には奉仕するようにともピサロに言われている』
『奉仕として、今から3日後にミリアムが私の体を剣で開くことを告げる』
『それをここにいる者以外に知られると約盟が果たされない』
約盟──と聞いて、ミリアムは体が凍ったように硬直した。横でトリクシーは「ガナンなのは間違いなさそうだけど……」とつぶやいたきり言葉を失った。
熟れすぎて果肉に張りがなくなってきた実は声を出せなくなり、生った順番にしぼんで枯れていく。
「そこで何をしているか!」
気がつくと入り口に分厚い古書を抱えたブランボが立っていた。ブランボは部屋の様子に目を丸くした。
「これはどうしたことだ。この魔法生物になにをした」
「どこにいたの。ちゃんと一声かけて入ったからね」
トリクシーが横目でにらんだが、ブランボは頭上のガナンの枝に夢中で、暗色のローブを翻し天井を見上げながら二人の横に並んだ。
しぼんだ実が床にぼとぼと落ちた。ブランボはかがんでその一つを拾った。
「これのせいか」
ブランボは栄養剤の瓶も引き抜いてさっさと小部屋を出たので、二人はあわてて後を追いかけた。
「それはおばあちゃんにもらった薬です。おばあちゃんが枯れかけているんじゃないかって」
「そうよ。勝手に持っていくんじゃない。今までどこにいたか聞いているでしょ!」
ブランボはうるさそうに返事をした。
「部屋の奥で本をあさっていたのだ。声が聞こえてすぐ行こうとしたが……あの魔法生物はこの部屋の時空を少々操れるらしい」
ブランボは枯れた木の実を机上に置き、戸棚からシャーレを取り出すと瓶の栄養剤を数滴たらした。そして片手をかざして呪文を唱えた。
シャーレの液体が発泡した。ぶくぶく泡立ったあと数種類の粉末と結晶に分解された。
ブランボは単眼のキズミを眼窩にはめ、焦点を合わせながらシャーレをしばらく眺めまわした。
ミリアムとトリクシーはブランボの気が済むのをその場で待っているしかなかった。
ようやくブランボが顔をあげると、トリクシーが鼻息も荒く「なにか悪いものでも入っていましたか」と尋ねた。
「いや」ブランボは悔しそうに歯ぎしりをした。「この多くの鉱物質の強化、配合は……マンドラゴラやイモリなどの灰をただ混ぜて術をかけたものではないな」
「おばあさんはその黒焼きを他のものと一緒に土に混ぜて、そこから育てた薬草や木の皮から抽出した液体に魔法をかけていますが」
ミリアムが答えた。
「ふむ。自ら手間をかけ時間をかけて作り上げた素材を使っているのだな。よい薬魔導士だ」
ブランボはミリアムの方を向いた。
「よかったら、その魔導士が治療したところもみてみたいものだが」
「いいですよ」
ミリアムはオルト婆が褒められて気分が少し高揚していた。
ミリアムはブランボが大机の下から出した丸椅子に座り、もう一つの椅子に座ったブランボと向かい合った。左の袖をまくって黒く変質した左腕を突き出すと、まるで肩の付け根が異次元の窓になっていて、そこに巣食う怪物がこちらの世界の何かを捕まえようとしているかのようだ。魔導士ブランボは未知の知識に触れる歓喜に体を武者震いさせながらミリアムの黒い手を捕まえ、その腕に這うオルト婆の筆触を太い指でなぞった。
奇しくもミリアムもブランボを観察することになった。もともと初対面の人が苦手なうえにブランボがいかつい顔貌をしているのでこれまでまともに目を合わせていなかったのだが、今は目を離すと相手が腕をむさぼり食いそうな勢いだ。
なんとなくレング先生より若そうだと思っていたが、顔や手の肌艶は良く、その通りのようだ。赤茶色の頭髪をいい香りのする油で後ろに軽くなでつけ、爪も先まできれいに手入れがしてあった。先生の髪はよくはねていて、痩せて関節の目立つ手は肌理が荒く爪先や甘皮がささくれだっていた。でも、その手でこのゆがんだ手を柔らかい宝物をくるむかのようにそっと握ってくれるので、実はこの腕はどこかの王家の出自だという
「いつからこうなのだ?」
唐突にブランボが尋ねた。
「赤ちゃんの頃からです」
「生まれた時はどうだったのだ。両親から遺伝したのか」
「両親は知りません。先生に拾われた時からこうだったのです」
「先生?」
「レングという魔導士です。その人が私をおばあちゃんに預けたんです」
ミリアムは横で心配そうに見守っているトリクシーの方を向いた。
「先生は『空から落ちてきた』っていうのよ」
「へえ、そうなんだあ」
トリクシーの顔は半信半疑という風だ。
ブランボはローブの袖で覆われた左腕をさすりながらうーむと唸った。袖口から魔紋の刺青の端がちらりとのぞいた。自分と同じものかとミリアムは注視したが、そこから先は見えない。
「憑りついているものとはなんなのか。少し動いているようだが、人面疽のように話したりするのかね」
「よくわかりません」
ミリアムは首を横に振って黙った。中のククルトが自分のことを尋ねたと知って顔をしかめ身を縮めたからだ。ククルトの感情はミリアムにもよく伝わるので自分のものと同じように大事にしていた。
幸いブランボはそれ以上詳しく訊こうとはしなかった。まだ物足りなさそうだったが、ミリアムの手を離し、丸めていた背を伸ばして「よろしい」と言った。
「予定通りミリアムには花嫁の世話係として鉱山の祭祀場まで同行してもらう。気分が悪くなったら言いたまえ。今度は私が対処しよう」
「はい」
「お前にはこれが届いている」
ブランボは脇のポケットから一通の封書を出してトリクシーに渡した。
「イセルダ様からだ。薬作りのことを気にかけている。お前はこれを急がせろ」
トリクシーは手紙を読んでため息をついた。「しょうがないな」
ミリアムとトリクシーは一旦荷物を置きにトリクシーが泊っている部屋へ向かった。ミリアムは歩きながらあのガナンの言葉はなんだったのか考えた。特になぜ約盟のことを知っていたのか気になったが、正解らしいことを何も思いつかなかった。トリクシーも曇った顔をして彼女にしては珍しく口が動かさないので、同じことを考えているようだった。
でも、黙っていたのは部屋に着くまでだった。
「ミリィ、ヤクメイって……あの、演劇の役柄の名前……のことか……な」
ミリアムは頬が緩んで笑い声が出そうになったが、慌てて首をかしげて大げさに困った表情を作ってみせた。トリクシーは大きく深呼吸をした。
「とりあえず先に進むか。無理はしちゃだめだよ」
「うん。おばあちゃんによろしくね」
部屋を出た二人は軽く手を振り、それぞれの持ち場へ足を運んだ。トリクシーは馬小屋へ。薬作りの打ち合わせでもう一度オルト婆のところへ行くために。
ミリアムは再び司祭の部屋だ。結婚式の準備をするブランボの手伝いがある。頼りがいのある温もりからは離れがたかったが仕事の邪魔はしたくないし、それにちょっとククルトが拗ねていた。彼女にまた会う夕方までククルトの相手をしたほうがよさそうだ。仕事をしながらそれをやるのはけっこう忙しい。
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