第三章 番外編トリクシーの仕事
トリクシーがエルテペから湖の別荘へ帰ってきたとき、イセルダは留守をしていた。
侍従長のエルザに聞いてみると、表向き住んでいることになっている首都郊外の屋敷に行っているとのことだった。
トリクシーは買ってきた薬やお茶を整理して、用途と保管場所に合わせてイセルダに仕えている魔導士ブランボや料理長やエルザ達に分けて回った。ファン商会に送る荷物は箱にまとめて送る手配をした。それが終わると、イセルダのお付きであるトリクシーにはやるべき仕事がなくなったので、屋敷中を回って、忙しそうなところの加勢をしたり、暇そうなイセルダ護衛役の騎士を捕まえて模擬試合をしたりして時間をつぶした。
そうこうして二週間ほど経ったある日、イセルダは帰ってきた。
首都郊外の屋敷と湖の別荘は、移動魔法陣でつながっている。その装置は別荘の玄関ホール脇の部屋に置かれていた。一見、人が立っても横になっても全身が写るくらいの大きな丸い鏡なのだが、赤い縁には魔法の文字がびっしりと刻みこまれ、よく見ると鏡面全体にも薄く魔法の紋様が浮き出ている。並みの魔導士の力量ではこれほどの魔法陣は描けない。また、描けたとしてもその魔法を恒常的に維持できる装置──すなわち、普通の魔法陣は描いて魔力を注いだ一度だけ移動すれば、苦労して描いた魔法陣は消えてしまうものなのだが、それを消さずに形を保っておいて、次回からは魔力でスイッチを入れるだけですぐに移動ができてしまうもの──というとても便利な道具を作るには、それ相当の材料を集めなければならず、これもまた時間と労力が要る。その手間を惜しむならば金で材料を集めなければならない。イセルダは、魔導士としての力量もそれを簡単に作れる財力も持っていた。
トリクシーは一度だけイセルダと一緒にその装置を通ったことがある。屋敷からこの別荘に移動したときで、イセルダ様が手をかざせば鏡面が輝きだし、そこをくぐればあっという間に別の部屋だった。まるで部屋から部屋へドアを開けて通るような簡単さだった。そして、イセルダが装置のある部屋の扉を開けると、扉に付けられた鐘が貴音で鳴り、それを聞いた別荘のドアマンがラッパを吹いて、別荘中に主の帰還を知らせるのだった。
今日は屋敷の主人がそろそろ帰って来る頃だというので、朝から屋敷中がそわそわしていた。トリクシーも調度品を拭く手伝いをしながら、鐘の音が聞こえないかずっと耳をすませていた。鐘からはだいぶ離れているが、自分の聴力ならラッパの前に音色を捉えられるはずだ。
お昼もだいぶ過ぎたころ、カランカランと鐘が鳴り、ドアマンがラッパを口に持っていったが、トリクシーだけはラッパが鳴り響く前には玄関ホールの方に走り出していた。
「おかえりなさいませ、イセルダ様」
トリクシーは部屋から出てきたばかりのイセルダに頭を下げて挨拶した。他の者たちはラッパを聞いて自分の持ち場からやっと出てきたばかりだ。
イセルダは赤いドレスに首から幅広の金の紐を下げて、その紐と左手であの魔石の卵を抱えていた。装置のある部屋からは荷物を持った従者が次々と出てくる。
「トリクシー、エルテペは楽しかった?」
イセルダは微笑みながらニコニコ顔で立っているトリクシーに話しかけた。
「はい。薬もお茶もたくさん買ってきました」
「そう。あとでまたお茶を入れてちょうだい。あなたが新しく仕入れてきた中で選んだものでいいわ」
「はい。楽しみにしててください」
イセルダは数人の従者を従えて自分の部屋へ進んでいった。
トリクシーは厨房で白磁のお茶セットを借りると、エルテペから買ってきたお茶の一種類を選び、ブルーベリーの乗ったチーズケーキも用意してもらった。そして他の使用人とおしゃべりをしながらおやつの時間を待ち、侍従長のエルザからイセルダの様子を聞いて、イセルダの用事が済んだ頃合いを見計らって、お茶とケーキをワゴンで運び入れたのだった。
イセルダはゆったりした部屋着に着替えて、プライベートルームのベランダにテーブルと椅子を出して休んでいた。丁度そこは木陰に入っていて、気持ちの良い涼風を感じることができた。膝には相変わらず白い卵が乗っている。
「イセルダ様、お疲れさまでした」
「いろいろと来客があったから遅くなったわ。どんなお茶があったの?」
「今回はリラックス効果の高いお茶だそうですよ。これは私も飲むのは初めてで……あ、薄緑色ですね。これくらいの濃さでいいのかな」
「とりあえず飲んでみましょう。あなたも早くお座りなさい」
二人は淹れたてのハーブティーの香りをかいで一口飲んだ。すーっと鼻を通るような涼やかな香りにいくつものハーブが折り重なったような複雑な味わい。体の中に高原の花畑が広がるような──イセルダとトリクシーは顔を見合わせてにっこり笑いあった。
「これはまだたくさん飲めるのよね。ケーキだけじゃ足りないわ。あそこのクッキーを取ってきて」
「お菓子が足りないんだったら、もっと用意いたしましょうか?」
「あのクッキーがいいの。こっそり食べるからおいしいのよ。エルテペでは、なにか面白いことはなかったの?」
トリクシーはファン商会の仕事のことは伏せて、宿屋で警備隊に踏み込まれた顛末を話して聞かせた。バロネットが正体のことで突っ込まれてしどろもどろになる度に、先にチョークスリーパーを決めたトリクシーが袖をまくって睨みつけ、隊員を怯えさせて追究をかわしたりしたのだった。
今日のイセルダは機嫌がいいようだった。聞きながら肩を震わせてクスクス笑い、クッキーが喉に詰まりそうになってお茶で流し込んでいた。トリクシーが話し終わると、今度はイセルダも話し始めた。
「あなたのおしゃべりは無限ね。だから、この辺で私の話も聞いてちょうだい」
イセルダがテーブルに置いてあったベルを振ってチリンチリンと鳴らすと、ドアが開いてメイド服の女性が一人入ってきた。
「あれを持ってきてちょうだい」
メイドは一礼して部屋から出ると、すぐに赤い布がかけられた人間の頭ほどの塊が乗ったワゴンを押してきた。メイドはワゴンをテーブルの横につけた。
イセルダが布をさっと取り上げた。
赤黒いが透明感のある正方形がいくつも重なったような鉱物が出てきた。
トリクシーは思わず鉱物を凝視した。色合いが血肉を連想させて異様なものを感じたからだ。
「イセルダ様、これはなんですか?」
「これは『血晶岩塩』よ』
「これが! あの……」
ネイラのお土産リストに載っていたが、これだけは手に入らなかった。魔導士なら皆欲しがる触媒だが、小粒でも市場にはなかなか出回らない希少品━━トリクシーは薬屋のロメオからそう説明された。
「食べてみる?」
イセルダは手で鉱物の角を引っかいて、できた砂つぶの様なかけらをトリクシーの口に入れてやった。一瞬強い塩っぱさが舌を痺れさせたが、不思議なうま味と甘さが広がり……トリクシーはめまいを感じた。
「面白い味がするでしょう。こんな小さなかけらでもどこかに引き込まれていきそうな気がする。塩だけじゃない、様々な元素が含まれていて、そのハーモニーが奇跡を生み出すの。それが血晶岩塩という触媒よ。こんな大きな塊、私も初めて見たわ」
「どうしたんですか? こんなもの」
トリクシーはぼーっとして霞がかかりそうになった頭を振った。
「お客がね、お土産として持ってきてくれたの。この塩が採れる村の長老さんたち。さすがは産出地ね。そこの村では村を守る魔導士である”司祭”が新しく生まれるらしいわ。その司祭を教授してほしいとお願いされたのよ。前の司祭が亡くなって空位が長くて、誰も司祭の作法を知らないし、残っている書物の読み方もわからない。まともな魔導士がいないそうよ。こんな見事な宝物をもらって、断るわけにはいかないわ」
「じゃあ、イセルダ様がその村にお出向きになられるんですね」
「いいえ、私は行かない。私が辺境の村に行くと、お祭りみたいな騒ぎになるんですもの。しばらく滞在しないといけない用事でもあるから、弟子か知り合いの魔導士に行ってもらうわ」
まともな魔導士──トリクシーはミリアムの話を思い出した。この岩塩をくれた村はミリィが住んでいる所の近くではないか。だとすれば、このお茶を作ったミリィのおばあちゃんがいるはずだが。
「イセルダ様。この薬膳茶を作った魔導士が、そのあたりにいるはずだと思うのですが……」
「そうだったわね。あなたのお友達のおばあちゃんだったわね。その方にも会ってみたいのだけれど……トリクシー、私の代わりに会ってこない?」
「え? 私がですか?」
イセルダがいたずらっぽく笑った。
「ネイラには私から話しておくわ。あなたが会って思ったことを私に話してちょうだい。お友達もいるんでしょう? 魔導士同士って、会うと何かと面倒なのよ。今捕まえているあの男みたいになったら困るじゃない。うまくいけば、ネイラにも血晶岩塩を持って帰れるかもよ」
「それは、いいですけれど……」
「私は大丈夫よ。おしゃべりの相手は、エルザかバロネットにでも頼もうかしら? 決まりね。支度をしなさい。一緒に行く魔導士は今から決めるわ」
ミリィに会えるのは嬉しい。それは嬉しいが、エルザはともかくバロネットにお茶会の相手が務まるだろうか──トリクシーは心配になったが、イセルダはクッキーをほおばりながら何かを考えている。
「イセルダ様。いいものが手に入って、本当によかったですね」
楽しそうなイセルダを見て、トリクシーもクッキーをほおばりながら言った。
「ええ、本当。長く気掛かりだったことも、これで収まるような気がするわ。頼んだわよ。面白い話をお願いね」
イセルダは美しい微笑みを見せた。
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