第二章 エルテペの町⑤
ミリアムは町の郊外へ出た。ポーロ薬局のまわりは見張られてそうで帰れない。そこ以外で奴らが自分を探すとしたら街中だろうと思ったので、ほとぼりが冷めるまで外にいようと人目につかない裏道を用心しながら歩いてここまで来たのだった。
もしエルテペ警備隊に見つかったら、素直に今までのことを話して保護してもらおうと思っていたのだが、こういう時に限って会わないのである。残念なようなホッとしたような気持ちだった。
警備隊に保護されればひとまず安心だが、嘘をついて夜の街に出て行ったことが警備隊やルクレツィアさんやオルト婆にまで知られることになる。そうなれば、もう一人でエルテペには来られないかもしれない。それどころかポーロさんの所に薬を置いてもらえないことになるかも……そう考えると警備隊沙汰を避けられてよかったとも思った。ククルトもオルト婆の怒鳴り声は苦手なようだった。
ミリアムはポシェットから手のひらサイズのランタンを取り出してスイッチを入れた。オルト婆の貯めた魔力で光る輝石が入っている。
畑や一軒家がぽつぽつある町の外側は暗くて静かだった。家屋に近づけば中で後片付けをする音や何か話し合っている声が暖かく聞こえてくるが、出歩いている人は全くいなかった。すでに明かりが消えて静まり返っている家もあって、ミリアムはそのうちの一軒の窓の下にたたまれていた粗末な麻布の敷物をこっそり拝借した。帰ってきた時返すつもりだ。
毛長ヤギの毛で織られたミリアムの帽子や服は、それだけでも暖かいうえに寒さよけの模様が染め抜かれていた。しかし、それでもエルテペ郊外の吹きさらしの平原は頬を切るように冷たかった。
ミリアムは持ってきた麻布の敷物を頭から被って高原の刺すような風を避けながら街道を歩いた。ここでもこの時分に道を歩く人はミリアム以外誰もいない。あたりに人家がなくなってすっかりエルテペから出てしまってから、ミリアムは街の方へ振り向いた。
街の明かりで浮かび上がった建物群の上空に、前にオルト婆から教えてもらったファフロッキーズが鳥の大群のように渦をまいている。
「あんなにたくさんで、なにかあったのかな……」
大量のファフロッキーズが舞うときは、エルテペが本気を出してきた時だとオルト婆は言っていた。何があったかは想像もつかないが、町中がざわついているのは間違いない。騒ぎの中で呪具屋に捕まったら、いなくなったことになかなか気づいてもらえないかもしれない。
あれが収まってきたら、ひと段落ついたということだ。そうしたら一度町の様子を見に行こう──そう決めたミリアムは、街道から外れて、草原に鎮座していた大岩の裏側に腰を下ろした。街道からは見えないうえに町の様子はよく見える。ミリアムはランタンをしまい、岩と同化して見えるように茶色の麻布をかぶりなおした。不安と寒さで身震いがした。
時々何かが駆け抜けるように風が吹き、草原を揺らした。その度に緊張して辺りを見回すが、自分以外の生き物はいない。野ネズミどころか千疋皮のような妖物も見当たらなかった。オルト婆からもらったペンダントも手にとってみたが、もらった時のままなんの変化もない。顔を上げて、遠くの夜空に舞う黒い群を見続けたが、ひく様子は一向にない。時間を持て余したミリアムは、いつも当たり前に自分の中に存在する連れに、前から気になっていたことを聞いてみた。
『あのさ、鉱山の中で、”
『そうだったかな』
『どんな人なの? 私に関係ある人かな』
耳を澄ましても返事がなかなか聞こえてこなかったので、ミリアムはさらにたたみかけた。
『前にククルトが私の中に入ったのは、私を死なさないためだって言っていたね。その人がククルトを私の中に入れたのかな』
『人だと?……そんな次元の存在ではない。遥かな高みにおられる。いかなる言葉、物質、現象も、その方を表すことは出来ず、また許されていない……』
ククルトの声はうっとりと夢見心地で、遠くに想い馳せているようだった。
『そうか。神様なんだ』
あっさり納得したミリアムを、ククルトは珍しく嘲笑した。
『同志の血族とはいえ、この次元でのそれらと一緒にされると、怒りを通り越して憐れみを感じる』
『ま、間違ってたかな。難しくて、よくわからないんだけど……』
『ご覧、ミリアム。この広き空を。その御方は、遥か遠くにおられながら、すぐ傍にもおられるのだ。宿敵に封じられてなおそのお力は銀河を超え、この時空に普く行き渡る。身の程をわきまえずお力に触れんとして魔導を極めようとする不埒な輩も、正しく扉を開けられれば多少の恩恵を受けられるであろう……その卑しき命と引き換えに……』
薄ら笑いを浮かべながら語るククルトの言葉を、ミリアムはあごを膝にのせて遠くの夜空を眺めながら黙って聞いていた。
『我らはそなたへ連なる者たちとの契約に基づき現れたが、その契約は果たせず、そなたを死の淵に追いやってしまった。我らとそなたの血族は、その尊き存在の御方に仕える同志であった。同じ忠義を尽くす同志の期待を裏切るということは、その御方への忠誠に背くことだ。うろたえた我は自分の失敗を埋めるために、そなたと同化することにのぞんだが、それでは我の失敗は取り返せぬと、あの男が言うたのだ』
『血族って、私のお母さんやお父さん?』
『そういうことになるな』
ミリアムは遠くをみつめたまま、ふーんとうなった。
『別にどうでもいいけれど。今までそんなに詳しく話してくれなかったね。ちょっとこんがらがっているけど』
『そなたが大きくなったと思ってな。我の力に、たとえ万分の一の微力であったとしても、高熱のみで耐えられたのだから』
『でも、このままだと、どっちみち一緒になっちゃうんでしょ。私でもないククルトでもないものになるんでしょう?』
前に先生は、蝶のさなぎに例えていた──こいつら、葉っぱを食べていたころの記憶を持っていると思うか? 薄皮の包みの中で、体をほとんど再構築しているんだ。あるのは本能のみだ。葉っぱの味なんていう要らぬ記憶なんて残していないよ。出てきてから使うもの、必要なこと、それだけを持って、破って出てくるんだ──。
『可能性がある、と言っていたがな。我の記憶では。ミリアム、やはりあの男は探さねばならん。我の真心を、今一度、あの方にささげるのだ。汚名を返上したい。契約を遂行するのだ』
『契約って?』
『そなたたち血族の、この世の末々までの継続と繁栄』
急にミリアムは左手に重量を感じた。ククルトとつながっている黒い左手が、何かを持っているような気配。
なんだろうと手元を見て、思わずあっと声を上げた。
「赤ちゃん!?」
左腕にもたれかかるように、薄い布にくるまれた赤ん坊がいた。
慌てて両手で抱きなおそうとするが、できなかった。赤ん坊の体を通り抜けてしまう。現実にあるものではないようだ。
『我の記憶が漏れてしまった。封印がゆるんできているな……』
ククルトが呟いた。
赤ん坊は小さく、青白く、呼吸も浅かった。
──なんてこった! お乳をやることも知らないとは。死にかけじゃないか。
頭の中に聞き覚えのある声が聞こえる。先生だ。
赤ん坊の頭に大きな人の手が置かれた。小さい頭を優しくなでる。
──お前が理解できるように説明するとだな……お前の契約を完璧に遂行するには、ただお前と同化して生きながらえるだけではだめだな。お前と違って、この生き物は個々の力のみでその尊き存在に仕えているのではないんだ。その存在を感じ力を注ぐための祭式、伝承、言語……今まで培ってきた血族の生活様式全体で仕えている。その赤ん坊は、人間の世界に返しな。お前と同化して違う生き物になっちまったら、血族の様式を受け継ぐことは難しい。うまく育てば、この子の子孫なんかがこの世に散らばった血族のかけらを拾い集めてのちの世に伝えてくれるだろうよ。施術が間に合えばいいけどね……。
『我が心よ、静まり整い給え……』
ククルトが唱えると、声や赤子の姿が消えた。
だが、まだ手に余韻が残っている。
ミリアムは、赤ん坊の重さとその頭を撫でられたぬくもりが残る自分の手を胸の上で握りしめた。
『昔、なにがあったかはわからないけれど、私は、本当のこの世界でククルトに会いたい。ククルトと一緒に遊びたいと思っていたんだ。おばあちゃんにも会わせたいな……』
ククルトはまた笑ったが、今度は心から楽しそうな微笑みだった。
『そうだな。我も久々に飛びたい。乗せてあげよう。そして、至高の存在を感じて欲しい』
ミリアムもクスクス笑った。
『うんと高く、遠くまで飛んでね』
この山よりも高く飛んだら、どんなところがあるだろう──ミリアムは夜空を見上げた。しばらく細かった月はまた丸みを帯びてきて夜の山岳地帯を照らしていたが、まだ光は満月よりうんと弱く、もう隠れようともしていた。
だが、生まれてから広い山々を見続けたミリアムの目は、遠くの夜空をよぎる小さな影を捉えた。
ミリアムは麻布を振り払って立ち上がると、その影に向かって走り出した。
『待て、ミリアム! オルトは近づくなと言った!』
ミリアムはククルトの声を無視して走り続けた。暗くて躓きそうになりながら、道でも草原でも構わず真っすぐその影の方へ走った。
こんな夜に空を飛ぶものなんて限られている。あの影は大きい。でも、コンドルじゃない。コンドルじゃないとすれば、なんだ。
『近づくなと言われたろう、オルトに!』
『でも女王様ならお礼言いたい。先生のこと知っているかもしれないし!寒いし暇だし!』
『ミリアム! 我、怒られたくない!』
「鳥の王、鳥の王。山の神がお呼びだ……」
つい、いつものまじないが口に出た。でも、これは追い払うときの文言だ。「コンドルを呼び寄せる呪文なんて知らない。なんて言えばいいの」
『我は知らんからな。知ってたって教えんぞ』
「待って! 待ってください!」
ミリアムは叫んだ。
ミリアムは懸命に走ったが、空の影は全く大きくならなかった。どんなに走っても、夜空の向こうを飛び続けていた。
ミリアムはついに足を止めた。肩を大きく揺らして、喉を切りそうなくらい冷たい空気を吸った。何度も何度も。
影はすぐ見えなくなった。
がっくりと膝が落ちた。周りより少し低くなっている草むらだった。まだ影が消えた方から視線を外さなかったが、どんなに見通そうとしても駄目だった。
『何してるのだ、まったく……』
『だって、先生探すんでしょう。もうなんにだって聞いてみていいじゃない』
『悪いものだったらどうするんだ』
『悪いものだったら、私のことを助けないよ』
『さっきのことを忘れたのか。呪具屋に目をつけられたばかりではないか』
ミリアムは黙ってその場に寝転がった。
『もう少し考えてから行動してくれ。我も怒られてしまうではないか』
『だったら、さっさと出て行ってよ』
『できればそうしている。あの男め……責任取ってくれ』
ミリアムは草むらに突っ伏した。体の上を風が抜けていく。体が火照っているから寒さは吹っ飛んでしまったが、 自分でも何してるんだろうと思う──こんなに町から離れてしまって……ファフロッキーズも見えやしない。
しかし、今度は地面からの振動に気がついた。微かだが、四つ足の規則的な歩調が複数響いてくる。すぐに風に乗って小さく馬の足音が聞こえてきた。
ミリアムは慌てて低い姿勢のまま、もっと草丈の高い所まではって行き、身を沈めて周りの様子を伺った。
ここからだと丘陵の向こう側で見えないが、ミリアムが走って横切った道を何人かが馬で進んでいるようだった。振動と音は道なりに進んでまた遠ざかっていく。ミリアムがやってきたところ、エルテペの方向だ。
こんな夜中に移動……明日のバザー目当てだろうか。怪しい……自分も怪しまれそうだが。こんな感じで会いたくない。早く行ってくれないかな──ミリアムは耳と大地に接した体に神経を集中させながらじっとしていた。
ところが、一頭分ほど振動が近づいてくる。
ミリアムはそっと頭を上げて草陰からその方向をうかがった。
離れた小高い丘の上に馬に乗った人影が現れた。ローブのフードを深くかぶり、軽装のどこにでもいる旅人のようだったが、手綱と一緒に魔石の光る長い杖を握っている。
魔導士だなとミリアムは思い、ククルトもそう見立てた。
魔導士は周りを見渡し、目で足元の何かを追っているようだった。
ミリアムもよく見ると、どうも自分が走って草を踏んだり地面をけったりしたところがうっすら残っているようだ。通ってきたミリアムだから何となくわかるくらいの僅かな跡だが、魔導士には見えているようだった。猟師のように追うことに長けた者は足跡ですぐに分かるらしい。いつ、なにが通ったかも、全て。
『魔法での探索はオルトの加護でかわせるが、目視はかわせんぞ』
『わかってる。大きいうさぎとか野犬だと思ってくれないかな』
ミリアムは低い姿勢で夜陰と草の陰に隠れながらその場から離れた。
ドドッドド……と他の馬が駆けてくる音が聞こえた。いったん魔導士のいる丘で止まったようだったが、再びゆっくり進みだした。こっちに向かってくる。
ミリアムは別の岩陰に隠れた。ベルトを外して即席の投石紐を作った。投石紐は野犬などから身を守るために放牧しながら腕を磨いていた。これなら腕に自信がある。手ごろな石を拾い、剣も傍らに置いて、そっと様子をうかがった。
馬に乗った軽装の者が五人、ふらふらと辺りを見回しながらやってくる。こいつらは足跡を追えていないようだ。魔導士ほど夜目が利かないらしいが、確実に近づいてくる。
もちろん自分を探しに来たエルテペ警備隊などではない。ただ気になっているだけかな、と良く考えようとしても、場の緊張感が否定する。この状況で、素性の知れない相手の良心を信じるのは危険だ。
ミリアムは自分の後方に灌木から始まる森を見つけていたが、そこまではまだだいぶ距離がある。
『猟師にも迷子を捜す善人にも見えぬ。今日は不注意の日だ』
『ごめん。このままやり過ごせないかな』
『闇にまぎれていればなんとかなるかもな』
『もしもの時は、力をかして』
『複数を相手にしての力で、そなたの体がもつかどうか。その場に倒れられたら元も子もない。切り札と考えよ……』
急に辺りが明るくなった。
空に小さな太陽のような光が浮かんでいる。丘の魔導士が放った照明体だ。
『このままでは見つかる。手加減無用。言い訳はあとでしろ!』
ミリアムは岩から飛び出し、地面を踏みしめ頭の上で投石紐を振り回した。
高速で飛んだ石が乗り手の頭にぶち当たった。男が一人どっと落ちる。
すかさず第二投──今度は馬の頭だった。
『人に当てんか』
『いつもの紐じゃない』
飛んでくる方向に気づいた残りが馬にムチ打ち駆けてくる。
ミリアムも駆けだした。剣を携え、後ろの森に向かって。
追ってくる男たちがいろいろ叫んでいる。下卑たひどい言葉だ。
ミリアムは必死で走った。
キイーンと耳鳴りがして、魔力の高まりを感じた。大きな輪ができて、自分を囲っている。
『捕縛陣だ。外に出ろ!』
夢中で走った。輪も同じ速度で動いている。みるみる内径を狭まってきた。
ミリアムは走りながら剣を抜いた。
「お願い! 切れて!」
抜き身の模様に念を込めた。
剣を振り、迫ってきた輪を切る。金輪を切ったような感覚だった。
止まらず走り続ける。再び捕縛陣が現れた。捕らえようと縮まる輪、もう一度切る。
輪は破片となって流れ、鈍い手ごたえが残った。
捕縛陣のスペースを開けていた後続が、スピードを上げてきた。
ミリアムは森めがけてひたすら走った。
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