第一章 ミリアムのソロ村③

 通用門を入ると、この辺りでは珍しい背の高い木が植えられた庭があって、その奥に二階建ての石造りの立派な屋敷が見えた。扉を開けた男は、ミリアムたちを緑豊かな庭を避けるように塀にそって案内した。後をついて行くと、前から大きな目の口髭をたくわえた恰幅のいい男が、村の青年団の若者を二人連れて歩いてきた。

「待ちかねたぞ。腰痛に効く魔法はないのかね」

 オルト婆に声をかけた口髭の男が、ロスアクアス家の現当主ディエノだ。

「それをかけつづけて何十年だよ。そろそろごまかしが効かなくなってきた。完治させるには人間をやめる魔法をかけるしかないとさ」

 ロバの上でオルト婆はにやりと笑った。

「もうほとんど人間じゃない気がするがね。こっちだ、来てくれ」

 ディエノはオルト婆と握手すると、自分が前に立ってオルト婆たちを導いた。

「憑かれた二人は8番坑道に閉じ込めてある。一人はだいぶ弱ってきたが、もう一人は奥のほうをうろついているようだ」

「手紙の通りというわけか。塩水はやってないだろうね?」

「だいぶ暴れたが、やってはいない。岩をなめれば少ししょっぱいかもしれんが」

 ソル村は塩で有名だった。大昔から村の奥にそびえるデオソル山に眠る岩塩を掘り、坑道から湧き出る塩水を谷の斜面に作られた塩田に流し込み、水分を蒸発させて塩を精製して、海から遠く離れたオルエンデスに貴重な塩分を提供していた。ただ、こうした塩田や岩塩が取れるところはソル村だけではなく、近くにも何か所かある。

 ソル村を有名にしているのは、ここにしかない「血晶岩塩」の存在だった。

「血晶岩塩」は文字通り血のように赤黒い岩塩で、ソル村の鉱山から僅かに採掘される貴重品だ。これを口に含むと、塩のきりりとした苦みとともにほのかな甘みと芳醇な旨味が口の中に広がり、塩だけとは思えない深い味わいを感じる。魔法に使う触媒としても優秀だ。しかも魔導の心得があるものが口にすると、体の底から新たな魔力が湧き出るのを感じ、塩気を我慢して量を増やせば、人によっては異境へと誘われ、出会った魔神と新たな魔法の契約を交わす者がいたという噂もあるので、魔導士にとっては垂涎の的となっていた。

 しかし、この血晶岩塩を扱えるのはロスアクアス家の人間だけだった。デオソル山のどこに鉱脈があるのかはロスアクアス家の者にしか明かされておらず、しかも、決まった仕様で取り扱わないと普通の塩になってしまうとか、帯びた魔力でとんでもないことが起こるとか言われていた。

 ソル村の岩塩鉱山は、一応村全体のもので、塩田は、それぞれ村人個人の持ち物となっているが、普通の岩塩とは比べ物にならない価値のある血晶岩塩を扱えるロスアクアス家に村が仕切られるのは当然のことだった。村人のほとんどが、ロスアクアス家の持てる富で雇われている鉱夫たちだった。

 そんな珍しいものを産出する山のせいか、たまにこの辺りでは”憑かれる”者が出る。

 憑かれた者は、塩や塩水を欲しがる。塩水を浴びるように飲んだり、塩田で泳ぎだしたりする。ただそれだけなのだが、塩が入って目は赤く血走り、大量の塩水で皮膚は荒れて崩れだし、内臓が壊れるほど飲めば死ぬ。塩水をやらないと息苦しそうに口をパクパクさせ、喉をかきむしりながら塩水を乞い、それ以外は受け付けずにやがて衰弱していく。山には塩の精霊がいて、その邪気を受けてしまうのだ──と、迷信深い鉱夫たちはささやいていた。

 憑き人を治すのは、元来「司祭」と呼ばれていたロスアクアス家出身の魔導士だったのだが、今はその役を担うロスアクアスの者はおらず、結果としてオルト婆が代わりを務める羽目になっていた。

 やがて、さっきくぐった扉とは別の扉が見えてきて、女たちが何人か戸口にかたまってざわついていた。

「オルト婆が来た。もう大丈夫だぞ」

 ディエノが女たちに言葉をかけた。どうやら憑き人の家族らしい。ミリアムは安堵した女たちの顔を見て、憑かれたのが鉱夫の誰なのかがわかったが、その後ろを見ると思わず「うわ……」と呟いた。

 裏道でも走ってきたのか、村の通りで怒鳴っていた女が、ディエノの奥方とニコニコしながら話をしている。話をしているというより、女が奥方に噛みつきそうな勢いで一方的に喋りまくっているのだが。

 オルト婆も同じ気持ちだったらしく「なんであれに渡したかね。ちょっぴり良心が痛んでいるみたいだが」と、ディエノに囁いた。

「渡したのは別の男だ。ここのところ憑き人が多いんで、皆を不安にさせたくなかったんだが……仕方あるまい。鉱山のことは生活に響く」

 ディエノは女を一瞥した後、塀にある扉を開けた。そこからは谷へのジグザグの下り道になっていて、下をのぞくと、暗くなりかけた夕闇のなか、ごつごつした岩山に開けられた大穴の入り口で男たちが忙しそうに出たり入ったりしているのが見えた。

 ミリアムたちはロバが滑らないよう慎重に引きながら降りて行った。

 入り口につくと、たむろっていた鉱夫たちはミリアムたちに道を開けた。

 歴史ある鉱山の入り口は、大きめの荷馬車が一台通れるくらいの大きさで、魔石の灯篭が奥まで壁にかけられていて明るく照らしていた。真ん中にはトロッコ列車の線路が通っている。脇には、鉱山から出た岩塩の溶けた涌き水を塩田にまわす用水路が流れていた。

 ミリアムは歩きながら辺りをキョロキョロ見まわしていた。ソル村で育ったミリアムでも鉱山に入るのは初めてだったからだ。ミリアムとオルト婆が憑き人を祓ってきたのは、塩田や塩水で誘い込まれたロスアクアスの屋敷の中で、鉱山で憑き人を祓うのは初めてだった。しかも一度に二人も出たことはない。

 今回は本当に異例づくしだ。

 最近では二週間前に祓ったばかりで、その前はそれから三週間くらい前。

 これまで憑き人は、一年で一人、二人出るか出ないかの頻度だったから、ディエノや村の人間が不安は強いだろう。ミリアムは鉱夫達の落ち着かない表情を見て、初めて見る鉱山の中でも何か変わったところはないか、腰の剣を握りしめながら注目し始めた。

 オルト婆も辺りを見回して、むうぅと低くうなった。

「ちょっと止まっとくれ」

 オルト婆はロバから降りて、荷物をあさって薬の入った小袋を取り出した。

「これを坑道の礼拝堂で焚いとくれ。煙はほとんど出ないから穴の中でも大丈夫だよ」

 ディエノに促された青年団の一人が袋を受け取ると、穴の先の方へ走っていった。

「”場”がだいぶ乱れてるね。憑き人も影響を受けているだろう。急いで整えなければなるまい」

「急ぐのか。トロッコに乗っていくかね」

「ガタガタ揺れるんだろ。遠くないならロバでいくよ」オルト婆は再びロバに乗り直した。

 入り口が小さくなるほど進むと、天井の高い大広間に出た。そこにも青年団が十何人もいて、ミリアム達がくるとディエノに挨拶して脇に寄った。

 壁の明かりで広間を見渡すと、そこはなんでも岩を削って作られている場所だった。天井を支える太い柱、右側にある倉庫兼休憩室、左側の祭壇も岩塩を求めて掘り進めながら岩盤から削りだされたもののようだった。祭壇には岩塩を円柱状に彫ったデオソル山の御神体が祭られていて、その前で、さっきオルト婆から薬をもらった若者が、薬を皿に出して炊き上げている。鼻がスーッとする清涼感のある香りが鉱山に立ち込めていた。

 大広間の奥は暗くてよく見えないが、いくつかのトンネルに分かれていて、トロッコのレールはトンネルの一つの奥に続いていた。

 オルト婆は広間の真ん中にまでロバを進めると、口の中で何かを唱えながら、杖で空中に魔法の円陣を書いていた。

「カウロ! カウロ! どうだ、様子は」

 ディエノが奥に向かって呼びかけた。

 奥のトンネルの一つからカンテラの灯が揺れながら近づいてきた。

「おう! 親父。連れて来たんだな」

 返事が聞こえて、昼間の仲間を三人連れたカウロが現れた。仲間はつるはしや山刀を持っているが、カウロはベルトに片手剣をさしていた。

「相変わらずだよ。テオは戸の傍にいるけど、ドルトは見当たらない。さっき水をやったら、テオは飲み干してたけど」

「オルト、こっちだ」

 ディエノがカウロのいる坑道にオルト婆を呼び寄せた。

 ミリアムもオルト婆について行った。

 オルト婆はカウロたちを見ると、ロバの上で腰に手を当てて彼らに言った。

「この山はずいぶんと荒れとるが、あんたたちが何か禁忌を犯したんじゃないかね。ここで酒盛りをするとか、女といちゃつくとか」

 ディエノがぎろりと息子をにらんだ。

「してねえよ!鉱山が神聖な場所だってことは、ガキのころから頭に叩き込まれてるよ!」

 カウロは血相を変えて首を振った。

「とにかくなんとかしてくれ。このままじゃ、みんなここで働く気をなくしてしまう」

 ディエノがオルト婆に懇願した。

 オルト婆がロバから降りた。

「ミリィ、行くよ。あんたたちも何人かついてきて、この荷物は誰か担いできておくれ」

 明かりを持った若者を先頭に、オルト婆とミリアム、カウロたちは、大人がなんとか三人並んで進めるくらいの幅で少し下り気味の坑道に入っていった。

 坑道は少し湿っぽく、水がぽたぽた落ちる音がどこからか響いていた。先の方には小さく明かりが見える。途中は鉄格子に阻まれたより狭い穴に枝分かれしていて、ミリアムは通るたびに覗いてみたが、暗くて何も見えなかった。

 明かりの所に着くと、二人の男が待っていた。すぐ隣りの壁には、大きい木の板が何枚か押し付けられていた。そこから、かすかにカリカリと板をひっかく音がする。

「どうだ。様子は」

 カウロが二人に聞いた。

「変わらないよ。テオがそこにいる」

 カウロは板をずらして、カンテラの明かりを近づけさせて中の様子を覗いた。

「よし、はずせ」

 板が全部わきに外された。

 すると、さっき通った坑道と同じように鉄格子の戸が現れて、戸の内側には年老いた鉱夫が力なく座り込んでいた。

「坊っちゃん……塩気が足りねえよ……」

 テオの顔色は青白く、声はかすれて呼吸は浅かった。

「息ができねえ……もう死んじまう……」

「そんなことはない。もう大丈夫だよ」

 オルト婆が前に出た。

 オルトは手を格子に通してテオの額に当てると「いあ。うるむ、ある、たとぅ……」と小さい声で唱え始めた。

「夢よ主のもとで覚めよ。入れ替わったこの者の時をもどしたまえ……」

 テオが目を閉じてはぁーっと深く息をつき、顔に血色が戻ってきた。

 おおーと若者たちがどよめいて、張りつめていた空気が安堵のものに変わっていった。

「よし、テオを運ぼう」

 カウロの指示で鉄格子を外そうとした時だった。

「お待ち」

 オルトが鋭く言い放った。

『ミリィ』人前では静かにしているミリアムの中の竜が声をかけた。『いるぞ』

「いあ!」

 オルトが杖を振るった。

 杖から出た光球が、格子戸を通り抜け、その奥を照らした。

 空中に小さな太陽のように浮かぶ光の向こうに、やせた男の姿が浮かび上がった。

「ドルトだ!」

 若者の誰かが叫んだ。

「早く開けてくれ!」

 テオが格子戸にしがみついた。

「とらえろ!」

 オルトがもう一度杖を振った。光球がはじけ飛び、細かい粒になって男にとびかかった。

 だが、男は壁を蹴って飛び上がり、素早く光をかわすと、テオの襟をつかんで奥に引き戻した。

「うわぁ!」「おばあちゃん!」

 体を引きながら若者達とミリアムは悲鳴を上げた。

 カンテラの明かりで、テオの顔をベロリとなめるドルトが見えた。

「ねいっ!」

 再びオルトが光を放った。

 光球はまっすぐドルトに飛んでいったがかわされ、ドルトは叫ぶテオを持ったまま踵を返して走っていった。

「どうした!」

 広間で待つディエノの声が聞こえた。

「テオが、ドルトにさらわれちまった!」

 カウロが答えた。

「なんだって!」

 オルトがカウロたちに言った。

「さあ、お前たち。今こそ悪童の見せどころだよ。ドルトを追うんだ!」

「ええー!」

「持ってるエモノはかざりかい? ドルトを追い詰めて足を止めるだけでいいから!」

 オルトはまた杖を振るった。今度は小さい光球がたくさん現れて、ドルトが走って行った穴の奥へ一列に並んだ。辺りが昼のように明るくなった。

「くそっ!行くぞ」

 カウロが号令をかけた。

 格子戸が開けられ、青年団の若者達が次々にドルトの後を追いかけて行った。

「ミリィ、おいで」

 ミリアムはオルト婆の傍に寄った。

「お前はあいつらの後をついて行って、ドルトが追い詰められて動かなくなったら、この剣を抜いて『オルトに道を示したまえ』と唱えるんだ。剣にお願いするように言うんだよ」

 オルトはミリアムの腰の剣の柄を握った。さやの中で抜き身が青白く輝くのがわかった。

「私は年老いてあいつらの動きについていけない。”場”が悪くて索敵の術もうまく通らない。だから、私の代わりについて行ってドルトの場所を教えておくれ。奴の動きさえ止めれば、私が助けてみせるから」

「わかった。おばあちゃん、待っててね」

 オルト婆は走り出そうとしたミリアムの腕を今一度捕まえた。

「無茶をするんじゃないよ。お前はあいつらより小さいんだし、女の子なんだから。ついていくだけだよ」

「わかってるよ。おばあちゃん」

 ミリアムが頷いてみせると、オルト婆は腕を離した。

 ミリアムは鉄格子の戸をくぐって、光に照らされた穴の奥へ走って行った。

 オルト婆の後ろに、広場にいたディエノが、自ら明かりを持って来ていた。

「一体どうなっているんだ。ドルトは。カウロたちは?」

「ドルトを追わせている」

「大丈夫なのか」

「さあね」

 オルト婆はそっけなく返事をすると、自らも格子戸をくぐって、胡坐をかいた。

 オルト婆を中心に魔術の紋様で彩られた円陣が現れた。

「そういや、ドルトって奴は、あんたやカウロに顔だちが似てるね」

「ドルトの母親は、私の叔母なんだ。鉱夫と結婚して家を出たが」

「ロスアクアスの人間かい。いい憑かれっぷりだよ」

 オルトは穴の奥を見つめたまま、ふんっと鼻をならした。

「もし、あんたたちがもう少しここで稼ぎたいと思うんだったら、早めに”司祭”をたてることをお勧めするよ。あんたたちはよその者に家の秘儀を明かさないだろうからね。それがわからない以上、どんな魔導士も後手後手の手段しかとれないよ」

「司祭か……誰に任せたらいいんだ……」

「それを考えるのは後にして。そこの荷物からさっきの薬と同じのを出して、そこで焚いとくれ。香りが奥に届くように。少しでも奴の動きを鈍くしないと、ドルトはテオを食っちまうかもよ」

「なんだって! おい! 誰か手伝ってくれ!」

 ディエノは慌てて地べたに置かれた荷物をあさりだした。 

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