第1章 大星山

第1節 運命の子

運命の子Ⅰ 最初の歯車が動くとき


「天狼王さま、我ら夫婦に授けられた子を、健やかに出産できるようお力をお貸しください。」


ここはユードニア大陸の北端にそびえる大星山。

その中腹にある高台で1人の女性が天に広がる夜空の中で一番の輝きを持つ星、大星天狼星に祈りを捧げている。




女性は祈りを終えると、ゆっくりと高台を降り集落の方向へと歩いてゆく。

女性のお腹は膨らみ、そこには新たな命が宿っていることが見て取れる。



暗い灰色の中に金色の混じる柔らかく長い髪に黒い瞳、そして高い鼻筋に狼の耳を持つ彼女は大星山を住処としている獣人の少数民族、天狼族てんろうぞくの一員である。

天狼族はその名の通り天狼王というかつて流星の麓より現れた一匹の伝説の狼からの血を引くとされる一族であり、彼らは大陸北端に位置し大陸最高峰である大星山の中腹という高所を住処にしている。


「タマ、おかえり!!」


そう呼びかけられ、祈りを捧げていた女性・タマモ・シリウスはわずかに微笑む。


「わざわざ毎日外まで向かいに来なくていいのに、キーンは心配性なのね。」


タマモはからかうように夫であり自分の身体に宿る新たな命の父親となる人物、キーン・シリウスに声を返す。


「君が身重なのに毎晩お祈りに行くだなんて言うからだよ。もう君一人の身体じゃないんだから気をつけなきゃいけないよ。」


そう言い自分を気にかけながら少し前を歩く夫の背中を眺め、タマモはとても暖かい気持ちに包まれる。

タマモは自分のお腹を優しく撫で、そこに宿る小さな我が子に思いを馳せながら夫婦の家路につくのだった。





「キーン、今回の下山隊にはお前も加わって欲しい。」


翌日の朝、天狼族のグランでありタマモの父親でもあるローズ・シリウスが訪ねてきて、キーンとタマモの二人に相談を持ち掛けた。


下山隊とは年に1度、生活に必要な物資を調達するために大星山を降りて、霧の森の先にあるフールの街へと向かう一団である。通常ならば経験を積ませるために天狼族の若い男性のみで構成されはずであるため、キーンは不本意そうな表情をする。



「長グラン、待って下さい。タマモは妊娠の身です。高々2週間程度の安全な旅ですが、私は夫としてタマモの傍に居てやりたいのですが。」


立ち上がり反論するキーンを宥め、ローズが続ける。


「新たな子が生まれれば子育てに必要なものが多かろう。我が子の使うものだ。自分の手で選んでくるといい。それにタマモの出産予定はあと一か月半先だ。出産までには十分時間がある。」


納得していないキーンを置いてローズはタマモに声をかける。


「タマモ、母さんがお前の顔を見たいといって表にいるから顔を出してやってくれ。」


タマモ少し躊躇うも、最後は頷いて表へと出てゆく。


ローズはタマモが部屋から出て行ったのを確認するとキーンに向き直る。


「キーン、お前さんの気持ちは痛いほど分かるが今回の相談には事情があるのだ。先帝陛下の崩御以来、近頃の帝国は獣人差別的な傾向がより強まっているそうだ。帝都では獣人が襲われることもあるそうじゃ。大星山の麓は帝国内でも辺境ゆえそのようなことはないだろうが、用心するに越したことはない。天狼族だけでなく大陸でも随一といわれる剣士のお前を頼りたいのだ。」


真剣なまなざしを向ける義父の視線を受けキーンは少し俯く。


「わかりました。」


しばらくの沈黙ののち、キーンは渋々ながらローズの頼みを承諾する。


「こんな時期に無理な頼みをしていまってすまない。だがこれで一安心だ。婿殿、ありがとう。」


ローズそう言ってキーンの肩に手をかけると、娘と妻のいる表へと出ていくのであった。1人残されたキーンは小さく溜息をつくのだった。





一週間後、下山隊出発の日を迎える。

隊員に選ばれた若者達は各々の家族との出発前のひとときを過ごしていた。


「体を冷やさないようにね。重いものも持たないように。あと、外に出て歩くのは程ほどにしないとだめだよ。実家にいる間は気を休めてね。」


キーンはというとこれから大星山を下山する自分の事はそっちのけでタマモの心配をしていた。そんな夫の姿にタマモは苦笑する。


「わかってるわよ。あなたこそ気を付けて行ってらっしゃいね、パパ。」


パパという言葉にキーンは驚いたように顔を上げタマモを見つめる。


「そうだね。必ず君と子供のもとへ帰るよ。」


そういってタマモを優しく抱きしめると誰に向けてでもなく呟く。


「ああ、いっそ今から下山隊への参加を断りたいくらいだ。」


それを聞いてタマモは本当ならば心の底からそうして欲しいと思いながらもキーンに言葉を返す。


「行かなければいけない理由があるんでしょう。あなたの無事を祈っているわ。でも、、なるべく早く帰ってきてね。」




キーンは抱擁を解くとタマモに微笑む。


「君は強いね。そして賢い。すでに立派な母親だよ。」


そう言うと「そろそろ出発だ」と下山隊の方へと名残惜しそうにしつつも踵を返し歩き出す。


遠ざかる背中を眺め、タマモの心にふと不安がよぎる。


「キーン。」


思わずキーンに呼びかけてしまう。


「君が僕の心配をするなんて珍しいね」


キーンはタマモの声に振り返りタマモにそう言うと、再びタマモのもとに駆け寄る。


「必ず君と子供のもとに帰るよ。これは約束だ。」


キーンはタマモの額にキスをし、下山隊の方へと駆け降りてゆく。

タマモは小さくなる夫の後ろ姿を眺める事しかできなかった。



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