#1ー5
/
森の夜のことをサーマヴィーユは思い出していた。
彼女の氏族が暮らしていた領域では、日が沈むと星蛍の時間になる。夜にいざなわれて姿を現す、空に浮かぶ星がそのまま地に降りてきて、虫のかたちを成したのだとうたわれる生き物だ。
二百八十三年のあいだずっと――さっきオート相手には百歳以上サバを読んでしまったけれども――見つめ続けてきたその光が、むしょうに恋しくなった。街はあまりきれいなところではないと、サーマヴィーユは報告書に記すべきか悩んでいた。
「夜が暗くないぞ。ここでは星も月も、地の輝きにかき消されている」
サーマヴィーユが放った、思うままのつぶやきを拾ってオートが答えた。月の光は弱く、雲に飲み込まれて地上にまで届いていない。
「ここは昼間のほうが暗いって言われてるところだから」
「昼夜がひっくり返っているぞ……それに破廉恥だ」
近くの路地から、媚びた甘い声と荒い息遣いが聞こえる。ほんとうに破廉恥だ、と彼女はもう一度吐き捨てるようにして言った。足早に桃色の空気から離れようとして、正面から来る華々しい一団と鉢合わせた。兄の言うような肉が盛られた体や谷間が間近にあって、短い悲鳴をあげることになった。後ろでそれを見ていたオートが微笑ましそうにしているのが、ちょっと気に食わない。
夜見世通りとその近辺は、国に認可された歓楽街の一つだ。広い市街には、欲を発散させる場所は一つでは足りない。個人で行う分には行政の手は入らないが、それでははけ口として小さすぎるから、必然的にこのような場所が必要になった――そういうことをオートが説明した。
追剥通りを抜けてからここまで、子供盗賊団のモーニが忠告したようなことは起きていない。いつも通りの険悪さしかない、平常な夜見世の賑わいだった。
開けた、屋根付きの場所で賭博が行われる。サイコロやカードで一喜一憂があり、静まることはない。定番の酒氷から、干した果物、安結晶やモリァ売りなどわけのわからないものまでがさかんに声を張りあげている。
その博徒たち、あるいは道行く男たちのかたわらには、肩を出した、いかがわしい衣装の女たち(ときどき男もいる)が花となって客を寄せる。
夜にあってやたらと肌が白いのは、白粉を塗りたくっているからなのか、それとも血色がない動く死人――屍圏と呼ばれる中でも知性を保った者なのか、はたまた吸血鬼か。いずれにせよ、食い物になるのがどちらなのかわかったものではない。
欲望がそのまま形を成したような場所が、この夜見世通りだ。
そんな中にあって、ボロ服のひょろっとした男と、美人ではあるがしっかりと着込んだエルフは場違いもはなはだしい。客としても、男女の組み合わせとしても。
「見られているぞ」
「物珍しいだけじゃなくてか」
追剥通りで同じことを言っていたのをオートは覚えていたらしい。だが彼女は違うと首を振った。
「街に滞在するあいだ、ずっと向けられてきたのが珍奇の目だ。すっかり慣れてしまったその藪に隠れて、害する気配があるぞ」
珍獣を見る目を浴びるのがいやで、落ち着ける場所を見つけるまで彼女は宿を転々としていた。フードで耳を隠せば無難にやり過ごせたのかもしれないが、それはしなかった。したくはなかったのだ。己の体に恥じるところはないのに、隠さなければいけないのは道理に合わないと思ったからだ。
耳長の娘さん。長耳の。あるいはもっと直接的に、エルフ。
お返しに、おい人間とかおい牛と呼びかけてやりたくなったことも多々ある。そうしなかったのは、やってしまえば同じ存在まで身を落とすという思いと、街のヒトにも敬意を払うべき存在がいたからだ。
「それって、いかにもなにか探してますって感じの、ああいう奴?」
オートがちいさな動きで注意を向ける。サーマヴィーユも、まさしくああいうのだと答えた。
「ここで仕掛けてこないということは対応に自信があるんだろう。優先すべきことを間違えるんじゃないぞ、オート」
ポルインの屋敷は二人の歩く先、通りの突き当たりに泰然と建てられていた。通りの中央、喧騒からは少し遠のいた場所だ。
一目見れば、あの太った男が自己顕示欲の塊であることはすぐにわかった。土地自体はそう広くないが、威圧するように縦に積み建てられている。最上階が家主の部屋であることは間違いなかった。誰もかれも見下ろしたがる性分なのか、いっとう派手なのだ。
門周りにも悪魔や欲獣、みだらな女体像などと悪趣味な像が美的感覚もなく並べられて、そばを歩くだけでもうんざりさせる、近寄りがたい雰囲気があった。
「門番がいるぞ。一人だけだ」
「あんないかついのを、あの男が飼いならしてるってのか」
大型の獣のような気配だった。戦闘の訓練もしていないオートからすれば、それは近づけば食い散らかされるということに他ならない。それでも、自分のすべきことをやりとげるためには進むしかない……そういう覚悟をサーマヴィーユは見て取った。
自らを語るべき言葉、祖先、記憶すら持たないまま、他人のことを思いやれるこの細い男に、敬意を払うべきだと彼女は思う。本人に面と向かって言っても、きっと「ドリマンダのためじゃなくて……自分のよりよい暮らしのためだよ」とかなんとか、そっぽを向くのだろう。
そういう光景を想像するだけで、街にも光はあるのだと感じることができる。
だが、いま考えるべきは二人の前に立ちはだかった白髪男についてだ。
サーマヴィーユは唇を舐める。気が張っていることを自覚する。剣を持った兄に並ぶ使い手だとこれまでの経験が告げてくる。ドリマンダの家の前で蹴散らした人間たちとは違う、掛け値なしの強敵だ。
巨躯の門番は寸鉄すら身に帯びていない。暗器の類もない。素肌に、乱暴になめした毛皮を羽織っているだけだ。だが、袖のない着衣から伸びた両腕がやけに黒い。腐葉土をさらに濃くしたような、生命の終わりを感じさせる黒だ。
お互いの言葉が届く距離まで近づく。相当に体を使うことはわかった。おそらくは相手も同じことを察したのだろう。
肉のついたままの骨を噛み砕き、呑み込んでから。巨漢がにやりと笑う。
「俺ぁゾドンだ。お前は?」
「オート。ポルインに用があるんだ」
露骨な舌打ち。くちゃくちゃと口の中に残っていた肉が音を立てる。
「ヒョロガリはどうでもいいんだ。こっちの興味はな、エルフの女、お前だけだよ」
「そういう態度の相手に与える言葉は一つだけだぞ。さっさとどけ」
「そういうのは好みだ。さあ、やろうか」
男――ゾドンが構えを取る。その所作だけで威圧感がいやます。生粋の魔術使いであり、そして格闘家だとわかる。足元から黒い瘴気。疫病や悪意に関連した、生命の循環を妨げる魔力だ。
サーマヴィーユが用いる、植物を生育する魔術とは相性が抜群に悪い。体技と魔術、どちらにも注意しなければならないと、彼女は戒めた。
弓を抜く前に距離を詰められ、仕留められてしまいそうだった。気づいた相手が、腕を組み、どうぞとばかりに肩をすくめてみせる。
「サヴィ」
「うん、私は大丈夫だ」
いままでに呼ばれたことのないあだ名。
そのものの名前を縮めることは、森の民には考えられないことだった。名付けられたものはそれ自体が意味を持ち、特別であるのだから。あだ名だって一つの特別じゃないかと思っていたが、口にはできずにいた。ここでならそういう目で見てくる者はいない。
流麗剣、瑠麗弓などとこっぱずかしいふたつ名ではなく。かわいらしさを残した愛称というものに、彼女はあこがれていたのだ。
「はじまったらすぐに走れ。ここから助けはないけど、うまくやるんだぞ」
それだけの相手だとオートにも理解できたのだろう。頷いた。
「ふんっ、走る必要なんてない。おれはここで見てるからなっ」
ポルインが、門から顔を出した。驚かせようとした表情が、すぐ不機嫌そうに変わる。二人が思い通りの驚きを見せなかったからだ。
追剥通りでの一軒の後からにせよ、中年の男が門の陰でこそこそと待ち続けていたのかと思うと、なんだかやるせなくなるサーマヴィーユだ。意気がちょっと失せてしまった。
「価値のある宝石を持ってきたんだ、あの奉仕機械と……ムゥと交換してほしい」
「持ってきた、持ってきたな。だがおれの手に渡ってハイどうぞと交換してるわけじゃないだろっゴミカス。ここでこのゾドン先生が、お前たちから宝石を奪ってしまえば、それは交換にはならないっ」
「ポルイン、あんたがシャツを一人で着るよりは簡単な話だな、それは」
一発で沸点を突破したポルインをよそに、ゾドンは肩を揺らして上機嫌だった。
「言うなぁヒョロガリ、面白いぞ。ゴミカスって呼んだほうがいいかぁ?」
「どっちでもいいさ。ムゥはどこだよ」
「もう壊したさ」
「嘘だな」
「どう思おうが自由さ。もう会うことはねえ」
「もう会ってる」
オートが肩をすくめてみせた。
奉仕機械が最上階の窓辺に立っているのがサーマヴィーユからよく見えた。そこからこのやりとりを見ていることはすぐわかった。
「償うためにおれは来たぞ!」
蔓草で背中にくくりつけた短弓ケラメイアを手に取る。矢の不足はない。撃つことができるかは別だったが。ゾドンが再び構えを取る。余裕からか、距離を詰めてくることはなかった。
「やらせるものかよっそんなこと! ゾドン先生お願いしますよ。直轄の賭け闘技場、その無敗の王者である理由を見せていただきます、へっへ!」
「応よ。女エルフさえ抑えりゃどうにでもなるしな。報酬は弾めよ」
「それはもちろんっ。私が揃えられる、最上級の女と酒、食事を用意させていただきます」
サーマヴィーユはオートを見た。
彼は頷いた。知っている、あれは強い、自分もやることをやる――さまざまな意味が読み取れた。ゾドンは誰を気にすることなく、堂々としたたたずまいを崩さない。強さの背骨がしっかりしていると彼女は確信する。戦い、勝ち続けてきたことが自信なのだ。
「ここぁ闘技場じゃねえしな。銅鑼の代わりにこのコインが地面に落ちたらにしようや。勝てば得られる、負ければ失う」
「そんなっ先生っ」
「勝つからいいんだよ俺は。あんたはどうだい、エルフ」
「それでいいぞ、人間」
「なるほどなぁ。そんな呼ばれ方されたのははじめてだ」
大きく、柔らかさのない指から、無造作にコインが弾かれる。
集中のためか、彼女にはその裏表の絵柄まではっきりと見えた。片面にはガヴ王家の紋章。もう一方にはいくえにも重なる光と、街の神の教え――聖句と呼ばれるもの。読み方は一度だけ聞いていた。
“すべての行いを神が見つめている。”
コインが落ちる。
サーマヴィーユはまず矢を人差し指で打ち上げた。二本目を取り出す前に、ゾドンが己の間合いに入ってきていた。早く、しかも踏み込みが深い。打撃を放たれる前に後ろに大きく跳ぶ。そうして稼いだ距離もすぐに詰められる。体が大きいだけではなく、その利点を把握して使いこなしている男だ。
拳を弓で受けることはできなかった。常とは異なり、腐食の魔力が木を、肉を腐らせるからだ。同じように受け流しも紙一重もいけない。サーマヴィーユの得意とすることが封じられた格好になっていた。
指で上げた矢が落ちる。
弓で撃つことでただ体を通して使う以上の力を発揮する、一体型の魔術をサーマヴィーユは好んでいる。矢だけでは少し強度が弱くなるが、不意打ちには適している。減衰したとはいえ、魔力を浴びた多蛇蔦は大人の男を拘束するだけの力は持っている。彼女の意思によって用途や角度を自在に変えるそれが、背後からゾドンを追いかける。
それが男の背中に追いつく寸前を見計らってエルフは仕掛けた。空気ごと腐らせていく拳を大きくかわすと、丸太のような腕をつかんだ。手のひらに火花が散ったような感触。長く触れていれば爛れることになる。体内の魔力を手に集中させて中和する。一方的な戦いを楽しんでいた顔が、苦痛にゆがむ。
その一瞬を逃がさずにサーマヴィーユは宙を舞った。相手の腕を起点に体を持ち上げ、片腕で逆立ちをする。ゾドンの腕が引き戻される。バランスを崩した彼女に、空いた片腕が手刀で薙ぎ払ってくる。もう一度中和をする。
男の腕から指先だけで飛び上がって、狙うのは頭だ。肉付きのいいとはお世辞にも言えないエルフの体重では、体に打ち込んでも効果が薄いことくらいは承知していた。お互いに。
巨体に追いつき絡んだ蔓草が腐り落ちる。
それでも半秒の自由を得た森の民が、体勢を入れ替えながら敵の頭へとかかとを落とす。腐れをまとった腕が、蔦を振り払ってそれを迎える。足に魔力をつぎこみ、強引に一撃を見舞った。反動を用いて浮き上がり、空中でケラメイアを用いて一射。狙いは腹。巨漢の手がそれを防いだ。背中の蔓の一部をほどき、ナーリアと矢の一本を落ちる力に従わせる。蔓草が数本地面から伸びてそれらを絡め、射の構えを取る。サーマヴィーユの指の動きに合わせて矢が放たれる。
あやまたず命中。腹に突き刺さる。
だがゾドンは崩れ落ちなかった。動揺がない。
矢を抜くこともなく迫る。体から血は落ちない。矢じりだけが腐れて落ちた。オートから聞いた屍圏の特徴と合致する。すでに死んでいるからこそ、これ以上死なない者どもだ。
悪手だったことをサーマヴィーユは認めた。内臓か頭、つまりは一般の急所に当ててしまえば勝ちだと踏んでいたのだ。体をひねって蹴りを繰り出すが、それは効果が薄い――もっと言えばやけの一発だということは、誰よりも彼女が噛みしめていた。ゾドンの頬をかすめるだけで終わる。肌色の下から青白さが現れる。化粧だった。
いくつもの偽りを差し込まれてきていたことを悟った。
兄を相手にさんざん味わってきた気配が近づいていた。敗北の気配。
野蛮な外見をしているが、ゾドンは戦闘の巧者だった。理を知り、一方的に触れられるという有利を生かして一つずつ勝利へと進む堅実さを持つ。そして自身が屍圏であるということを隠して、決定的な隙を作る狡猾さも。
蹴りの二段目も順当に受けられ、魔力が拮抗する。黒と緑、二色の霧状光が散る。食い勝ったのは死と腐食の色だった。木靴が握りしめられる。意識すら揺さぶられる速度が体に加わる。
サーマヴィーユが落ちる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます