ミアタナン

青山八百

#0 溺没+出立




 記録開始と聞こえた。男の声だ。目を開く。


「ゼントヤ研究学院、第三百五十一番研究室より。再開する」


 青。

 青い液体の向こうに声の主がいた。自分の体を動かすことができない。指先すらも。液体の中にいることはわかった。息をしているのかもあいまいなままだ。


 自分――『それ』は、自分が誰なのかもわからない状態だった。

 記憶を探ろうとして、探るべき場所が欠けていることに気づいた。探り方もわからなかった。思い出を探す、という動作のやり方を忘れていた。


「施術は完了した。実験の第一段階、対象からの記憶抽出は完了。青い結晶状の物質として凝固した。今後これを記憶結晶と呼称する。間違いなく世界ではじめての快挙だ……。目に近づけると自動で過去を投影しだす。……これにはまったく陳腐な記憶しか入っていないのだが。商業価値もありそうだ。それを考えるのは私ではないが」


 ケチをつけられているのが『それ』自身の記憶だと気づいた。

 それを見せてくれ――いや、返してくれ。

 声は出ない。口すら動かない。

 青の向こうにあるのはきっと青い肌だと思った。魚人だ。魚であり人であるもの。男の独白は熱を帯びながらも続いていく。背ビレが規則的に揺れる。それはだんだん早く、小刻みになっていった。


「この記憶結晶には美しさがある。本能がそう感じさせてくると言うべきか。そう詳しくはないが、戯曲や劇において……のみならず、およその物語において、記憶の喪失というものは、しばしば痛みを伴うものとして描写される。四肢や臓器を失うことよりも生存に関与しない事柄であるはずなのに。場合によってはそれ以上に。たかが恋人の記憶が、己の腕の一本より高い価値を保有しているとは考えられないが。ともあれ、結晶体の美的な構築こそ、ヒト種にとって、記憶というものが特別視されてきた理由となり得るのかもしれない」


 どうだっていい。返してくれ。

 記憶を失っても思考はできるようだった。だが『それ』は、どうして思考ができるのかということがわからないでいた。


「続いて第二段階に移る。さる関係……取り繕っても仕方ないな、ここには私しかいない。スプルドグルフトとの黒い繋がりを通じて取り寄せた、脳食いと呼ばれる生物だ。これに、先ほど抽出したばかりの記憶結晶体を与えることにする」


 ――やめろ。

 体は動かないままだ。『それ』は眼前に悪夢をつきつけられているようだった。


「どうだ、うまいか? うん、喜んでいるようだ。この鳴き方は喜色を表しているはずだ。……おや」


 男が鼻をつまんだ。脳食いと呼ばれた小さな生物が小刻みに震えていた。

 音。それから湯気。


「排便したようだ。うぅん、とても臭いぞこれは。結晶体らしきものが欠色した粉になって出てきている。サンプルを保管しておく必要がある。……しかし想定通りの結果だ、やはり脳食いが食しているのは脳そのものではなく、その内部に蓄えられた情報だ。それを食べて生存する生物がいる以上、ヒトの情報は抽出が可能であり、エネルギーの一種であると仮定できる! 結晶を結晶たらしめていたのは、記憶というものの目視できない力場だ! よしっよし!」


 わかったところでなんだというのか。

『それ』が憤っても、誰にも伝わらない。

 やがて鼻歌まじりに糞便を片付ける男の目が、動けないままの『それ』を見つめる。研究資料になった糞便を見つめるよりも冷たいまなざしで。

『それ』は悟った。使い捨てられて廃棄される。体は相変わらず動かないが、視界だけが傾いた。

 入れられた筒が傾いている。

 体が動くようになったので反転させる。薄暗い天井からちょうど半回転すると、見えるのは水流だ。機械やよくわからない生物が流れていく。その流れの中に捨てられるのだ。


「筒を開放する」


 青い液とともに体が投げ出された。

 皮膚からしみ込んでくるような冷たい水。どこにつながっているのかもわからない、深く流れ続ける水路を沈む。浮き上がろうにも、まだ体は動かない。そのまま視界が暗くなる。

 凝った意匠の歯車を見たのが最後だった。







 同日。森と草原とのあわいに、一組の兄妹がいた。


「ゆくのか――森の外へ。思い通りになることなど、少ないどころかまるでないだろうに」


 双子の兄であるノールスィーユに問われて、サーマヴィーユははっきりと頷いた。


「ええ。その役目があると耳にしたときから、ずっと待ち望んでいたので」


 タルモー=スケィル大森林は、エルフ、熊、精霊、獣人、ツリーフォークや狼など……世界のあらゆる生命の原点と呼ぶべき豊潤な土壌を保ち続ける、自然の楽園だ。

 森にある生命は、森の中でめぐり、次へと転環する。大森林の外へ足を踏み出さないままに一生を終えることも珍しくなかった。


 それは、他の生物と比べても長い寿命を持つエルフであっても変わらない。

 双子の兄妹の祖先には、出たヒトは一人たりともいなかった。それでもサーマヴィーユは外の世界へのあこがれを保ち続けた。どこからその情熱が来るのかは本人ですらわからなかった。ただ幼いころに森の外というものを知ってから、心の熱は冷めることなく続いていた。


「であれば……私は将来、子供に言って聞かせることになるだろうな。お前の叔母は、自らの運命を切り開くことを厭わなかったのだと」

「兄上――」サーマヴィーユはうつむいた。厳しいことであっても、言うべきであればはっきりと言わねば伝わらない。「叔母はやめてほしい。なにかこう、言葉だけで百歳は老けた気分になるぞ。だいいち兄上こそ、嫁をもらわねば子供はできません。それなのに叔母がどうのと」

「すまなかった――本当にやめてくれ。言葉が針つぶてのように痛い。耐えきれないんだ」

「であればまず、偏った好みをどうにかしないと。食物はなんでも分け隔てなく食べられるのに。女性の話となるとてんでだめで。やれ乳は大きいほうがいい、ふとももはむっちりでなければならぬ、己より年上がいい、できればやさしく抱き留めてくれる経験のない未亡人がいいなどと世迷い事ばかり。空を昇って星の一つを手にするより難しい」


 エルフは身軽で、身体に余分な肉がつきにくい種族だ。弓の使い手も多いから、胸当てで押さえつけられないほどに胸が育ってしまうことは少ない。細身の種族なのだ。肉っぽくはならないのだ。

 それは男女の区別なく、双子の兄妹も変わらない。性癖まで似なくてよかったと彼女はつねづね思っている。


「祖先よ。愚かなる我が性癖を許したまえ。されど、乳尻がでかくて年上っぽい嫁を求める我が心を鎮めること誰にもあたわず――」


 森のはじまりから、一度も変わったことのない祈りと許しの印が切られる。こんなことを許せと言われても、祖霊だって困ってしまうだろうとサーマヴィーユは思った。

 彼女の兄は、古老たちからは並ぶことなき剣の使い手、流麗剣とむずがゆい名を頂いている。同世代からは金糸の髪の君、エルフいちの美貌ともてはやされる。妹からすれば、頼りにはなるがどうにも抜けたところのある、そんな評価の男だ。

 そんなノールスィーユは、本来ならば嫁を選びたい放題の立場のはずだった。それが、乳だのふとももだのと、どうにもならぬ好みだけで阻害されているのは、瑕疵どころの騒ぎではない。不名誉なことだ。同い年の中は、もう所帯どころか子供すら持っているというのに。

 ――所帯。こども。そういうのってかわいいのよ、ああサーマヴィーユ、あなたはまだだったわねごめんなさい。でもあなたほど器量がよければ、それこそ一の氏族の方々が見初めることだってあるからまだ大丈夫よっ。そういうなぐさめって、ぜんぶ上から降ってくるものだぞ……。


 サーマヴィーユは、今年で二百八十三歳になる。そろそろ寄り添う相手を見つけたほうがいいのでは、と親戚から心配される年頃だ。

 エルフの婚姻は、他の種族と大きく異なっている。

 氏族が最優先に奉仕すべき共同体である。お互いの氏族に一人ずつ子供を残すためにも子供は二人以上生むことが望ましいとされてきた。一人目の子はより伝統の強い氏族に、二人目はもう片方に。そうしたくないのなら同じ氏族の中で婚姻を結ぶべきであり、双子の両親もそうしていた。血が滞るという理由で、千年に一度ほどしか許されない方法だったが。エルフにとっての千年は、街で暮らす短命な種族にとっての二世代ほどだと、時の年輪の重みを自負する彼らだ。

 縁を持ちかけられるたびに、サーマヴィーユは兄より先にするわけにはと断ってきた。年功序列もまた、森の、長命な種族が形成する社会によく見られる傾向だった。それが言い訳でしかないことは、彼女自身がよくわかっていたが。

 どうにもそういうことがしっくりこない性分なのだ。いずれは子を持つ身となるはずなのに。

 蜜の髪とほめそやされる、とろけるようにすべらかな金髪。しみや傷のない、月の光でみがかれた肌。兄曰くの乳がふとももが……とは異なる、細身として整った身体。自慢はないが、誇りに思っている肉体だ。偉大なる祖先から、連綿と受け継いできた器なのだから。


「ふふ。兄妹揃って、しばしであるとはいえ、別れの日に肉付きの話をするとは」

「肉のことを語っているのは兄上だけですが」

「なにを言う。お前も好きだろう、肉は」

「食べるのが、です」


 ノールスィーユが笑った。

 彼の言うように、下世話な肉の話ばかりしていたからか。タリア鴉が鳴いて、あきれたように黄麻樹の枝から飛び立った。葉が兄妹の間に舞う。

 サーマヴィーユは、気持ちを切り替えてこれから向かう先を見た。森の浅いところだから、だんだんと背の低くなっていく草原の先には街が見える。


 十年に一度、森の民は街にヒトをやり、月がその顔化粧を一通り変えるまでの間の期間と定めて、見聞を深める使者を派遣する。選ばれた彼女には、街を見て回り、どのような社会になっているのかを探る役割がある。必ずひと月後の夜までに戻るという誓いを立ててから森を発つのだ。

 使い慣れた弓を二張、路銀は森中からかき集められたものを懐に、保存のきく干し果物を一束と書きつけの道具。重量の大半を占めるのは矢筒とその中身だ。


「では。達者で」

「辛くなったら戻ってこいとは言わん。やり遂げろ。祖に恥じる行いをするな」


 兄のノールスィーユはエルフ武人の鏡とうたわれる男だった。厳しい言葉だが、言葉の裏にある思いやりは読み取れた。

 嫁や跡継ぎのことになると途端に言葉が弱くなるが、それも愛嬌だと妹としては思う。性癖だけはどうにも擁護できないが。


「フレアヴィーユから連なる祖霊に誓って、必ず」


 サーマヴィーユは歩き出した。兄が見送ることなく森の深い場所へと戻っていくのがわかった。兄上らしいと彼女は笑った。




 草原には踏み固められた道があったので、彼女はそれを下っていくことにした。遠くには家畜となった牛が草を食んでいる。羊飼いのよく通る声を、鋭い聴覚がとらえた。

 ――以前より街が近くなっている。

 幼いころから、森の端まで走っていって街を眺めることのあったサーマヴィーユだから気づけることだった。さっそく指導者に報告しなければならない事項が出てきた。

 大森林の指導者の位に座すのは、永遠謳いのドルイド、フリマイラだ。

 彼女はたぐいまれな智慧でもって、街の民たちの王と不可侵の協定を結んでいたはずだった。それでも街の拡大は止まっていない。草原はその緑を少しずつ削られている。智慧があっても、ヒトの欲を押しとどめることはできないらしかった。


 街のあちこちで白い煙がたちのぼっている。火が当たり前のように生活に息づいているということに、知ってはいたがやはり驚いた。レンガ造りの家屋からはいままでにかいだことのない、食欲をそそる匂いがただよっていた。

 しばらく、刺激の洪水に慣れるために立ち止まらなくてはいけなかった。街には静けさというものがないのだ。香りも喧騒も色彩も、なにもかもがさわがしい。

 だが嫌ではなかった。そういうものがあるはずの森の外の世界こそを、サーマヴィーユは望んでいたのだから。

 聴覚と嗅覚を抑えることに慣れて、また歩き出す。もうすぐ街に入るというところで、背中を向けた看板を見つけた。

 ――森の民ではなく、街に住む民に向けてのものか。

 表に回ってみる。字は古賢たちから習っていたので読めたが、表現が砕けていた。そういうところでも、森と街には差異がある。


“この先タルモー=スケィル大森林。

 命知らずでなければ森に足を踏み入れるな。

 小枝を一本折れば、引き換えに腕一本を折るのが森の民。”


「失敬な。腕の一本などと……せいぜいが小指くらいだぞ」

「えっ」


 看板に近いの家の子供が、そのサーマヴィーユの発言を聞いていた。

 これほど小さい子供を見たのはいつ以来だろうか、たしか百年ほど前の、別の氏族に渡された娘以来だ、歳をとったなぁ。……いや、まだ若いぞ、私。得意ではなかったが、そんな自己暗示をかけた。

 そんな益体のないことを考える彼女の前で、子供はかわいそうなくらいに震えている。

 子供は嫌いではなかった。エルフの子供は数が少ないうえに、すぐ育ってしまうから、あまり接する機会がなかったが。わがまま放題で理不尽に泣きわめいてモノを壊す暴君ぷりも、すがすがしいくらいに自分を貫いているからだ。思い通りにならないことに明確な拒絶を突きつけることを、彼女はしたことがなかった。

 第一印象が大事だ。そのことを心に、にこりと笑ってみせた。だいぶぎこちなかった。


「……ねーちゃ、みみながい。エルフさん?」

「うん、そうだぞ」


 あっさり肯定されて子供は漏らした。

 手には斧、近くには割られた薪が小山になっている。なるほどと彼女は察した。毎日このあたりで遊んで、いつもこの看板を見ているのだろう。文言通りなら、小指どころか、頭から割られる所業だ。


「安心するといい、掟は森の中だけだから。その木も女神タルモーの恩寵ではないようだし、問題はないぞ。気にせずに続けてほしい」


 森と街は違うことくらいはわかっているサーマヴィーユだ。調理をする、暖を取る、明かりで照らす――そういったことのすべてに、街では火を用いる。そうやって森と人生を切り開いてきたのが、人間をはじめとする街の種族たちだ。


「もし、これが森の木だったら。おいらどうなってたのさ」


 彼女はうつくしく微笑んで、子供にしてはきれいに割れているたきつけを指さした。それから子供を。

 無言。

 分かりにくかっただろうかと、もう一度たきつけ、それから斧、そして子供。おまけに手振りもつけて。

 そういうことだ。

 子供は今度こそ失神した。不本意な結果ではあるが、掟について嘘をつくわけにはいかない。

 日差しが強い。このまま寝かせておくのはよろしくないと判断した彼女は、魔術を込めた一本の矢を取り出し、地面に突き刺す。

 呪文などは必要なかった。土は彼女が望んでいることを知っているのだ。

 森の息遣いが矢じりから生まれる。それは緑色の魔力だ。すぐ土から太い蔓草――多蛇蔦という、魔力による変異を起こしやすい種――エルフの友、生活にとても重宝する植物が這いでて、エルフの意志に従う。子供の上にカーテンが張られた。即席の日差し避けだ。

 ――これでよし。私はまず、宿を見つけるところからはじめないといけない。

 月がもう一度同じ顔になるまで、ここで暮らしていくことになる。

 それ以上長くなることはないだろうが。限られた時間を、できるだけ有意義に使おうと心に決めていた。まずはおいしいもの探しだ。


 あらゆる種族による混沌が凝縮した街。首都ミアタナンで。




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