斜陽にキスをして

逆立ちパスタ

斜陽にキスをして

 公園のベンチに腰掛けて、ポケットからライターを取り出す。百円で買った安物は、何度か火花を散らしてからやっと火を灯した。その火を咥えた煙草の先に近付けて少し吸い込む。フィルターを通して煙の苦い味が口の中に広がった。細い紙の筒を右手の人差し指と中指でそっと挟みこんで息を吐き出す。大して美味くない。私の白い呼気は、陽が短い夕暮れの空に溶けずに目の前に漂っている。


 ***


「ねえさやちゃん。何か悩んでるでしょ」


 ひろはカップに入ったホットココアをスプーンでかき混ぜながら事も無げに言った。溶け残ったホイップクリームをつつきながら顔を上げて私をじっと見てくる。


「別に。何もない」

「本当に? さやちゃんがそんな顔する時って大体何かあるじゃない」


 そんな顔ってどんな顔だろう。頬に手を当ててみるけれど分からずに、首を傾げる。


「そっちこそどうなのよ。わざわざ話がしたいってひろが呼び出したんでしょ。珍しい」


 話をごまかすように、目の前に置かれている珈琲を一口すすった。苦みが舌の横に広がって、香ばしい匂いが鼻を抜けた。


「うん。ちょっと聞いてほしくて」

「どうしたの」

「うーん」


 ココアを何度も何度もかき混ぜて、唸りながらも、ひろは話を切り出そうとしない。言いにくいことがある時の癖だ。こうなってはこちらが促さなければ話が進まない。


「仕事? それとも彼氏?」

「彼氏」

「前言ってた束縛? 最近は落ち着いてきたんじゃなかったっけ。また戻ったの?」

「違うの。まぁお風呂入ってる時に携帯見るのは結局やめてくれなかったんだけど、そうじゃなくて」


 ひろはスプーンから手を離して私を見た。そこで私は、ようやく彼女の左手の薬指を見慣れない銀細工が飾っているのに気が付いた。


「あのね、けい君が結婚しようって言ってくれたの」


 私は、言葉が出なかった。ひろがどこか遠くに行ってしまうような気がしたけれど、彼女の幸せそうな表情を見てそれを口にすることはできなかった。


「そっか。前から結婚したいって言ってたもんね。良かったじゃん」

「うん。この前の三周年記念でディナー食べに行った時にこれもらったの」


 見て、と差し出された手には、ひろによく似合うピンクダイヤが輝いていた。ひろが好きな石だ。以前私が彼女の誕生日に贈ったブレスレットと同じ種類の石が、磨き上げられた銀に収められている。


「きれいだね。とっても」

「でしょ? 私もすごいお気に入りなの」

「ピンクダイヤにしたんだ。けいさんもちゃんと覚えてたんだね」

「前からずっとこの石が好きって言ってたから」


 愛おしそうに指輪を撫でるひろを見て、私は見たこともない彼女の恋人に酷い嫌悪感を抱いていた。

 私のたった一人の大切な友達。辛い時はお互いに支えあって、傷ついて、喧嘩もして、もうすぐ十年になる。そんな私のひろを、たった三年でかすめ取っていく男が憎かった。私にはひろしかいないのに、どうして奪っていくの。そう思わずにはいられない。


「結婚式には、呼んでね」

「……もちろん。お金ないから式挙げるのは当分先になるだろうけど、さやちゃんには親友としてスピーチしてもらうから」


 そう言いながらココアを飲むひろの笑顔が眩しくて、私も真似をするように珈琲に口を付けた。少し冷めてしまったからか、さっきよりも苦くて酸っぱい、嫌いな味がした。


 それぞれ珈琲とココアをもう一杯飲み干すくらいに長話をして、私たちは喫茶店を後にした。もう日はすっかり暮れていて、空を見上げればオリオン座が目に付く。


「さやちゃん。ちょっと煙草吸ってもいい?」

「いいよ」


 公園の片隅に設置された薄汚れた灰皿は、私たちが来るまで誰にも使われていなかったらしい。中を見ると吸殻は入っていなかった。


「さやちゃんも吸う?」

「じゃあ、もらおうかな」


 どうぞ、と差し出された箱から煙草を引き抜いて口に咥える。ひろが、慣れた手つきで着火したライターを近づけてきたので、その赤い火の先で煙草を炙った。しばらく私たちは無言だった。何も言わずに、ただ煙を吸ったり吐いたりしていた。

 先に口を開いたのはひろだった。


「さやちゃんは、私が結婚するって言ったら怒ると思ってた」

「なんで」

「だって、さやちゃんずっとけい君と付き合うの反対してたじゃん。三年間ずっと」

「バツイチで束縛が激しい年の差彼氏とか絶対やめた方がいいよってやつ? それは今でも変わってないよ」

「でも、今日結婚するって言っても怒らなかったね」

「そりゃあ、ひろが幸せならいいもん。けいさんと結婚してこれからひろが幸せになれるなら私は反対しないよ」


 でもひろが泣く事があったら容赦しないよ、なんて冗談めかして言うと、ひろは少し笑った。ひろの煙草のフィルターには、彼女のピンク色のグロスがうっすらとついていた。


「さやちゃんは、彼氏とうまくいってる?」

「よく分かんない。最近はあんまり連絡来ないし」

「そっかあ」

「そっちは? まだ束縛酷いんでしょ」

「うん。もう連絡先はほとんど消されちゃった。俺と結婚するのに他の人の連絡先なんていらないだろって」


 ぼんやりと冬の大三角形を眺めて、ひろは煙を吐いた。その横顔からは何も読み取れなくて、私は胸の奥から生温くて苦しい塊を吐き出したくなった。


「ちょっと横暴じゃない、それ。やりすぎだよ」

「でもけい君が言うから。嫌われたくないし」

「けいさんは別に自分の持ってる連絡先は消さないんでしょ?」

「うん。けい君は仕事用だからいいんだって」

「そんなのってないよ」


 感情が高ぶって大きくなった私の声を制すように、ひろが人差し指を私の唇に寄せた。距離が近づいた彼女は、困ったように眉を寄せながら笑っている。


「ダメだよ、さやちゃん。ご近所迷惑になっちゃう」

「……どうして、ひろはそれで我慢できるの」

「好きな人の為だから。さやちゃんも、彼氏さんの為なら何でもできるでしょ?」

「私はひろみたいに強くないよ。嫌なことは嫌だって言っちゃうもん」

「嘘つき。だってさっきまでさやちゃん、私が幸せなら結婚に反対しないって言ってたじゃない」

「それは、私にとってひろが大事だから」

「おんなじだよ。さやちゃん、それは私がけい君の為に我慢してるのと同じ」


 ひろは、そういって煙草をもみ消すと私に抱き着いてきた。突然のことに反応できず、私が持っていた吸いかけの煙草はあっけなく地面に落ちた。


「あのね、私さやちゃんのこと大好き。どの友達よりも大事。一番付き合いが長くて、ずっと私のそばにいてくれた。さやちゃんが私に依存してるのも気が付いてたし、それでもいいなって思ってた」

「ひろ、何言ってるの」

「でもね、このままじゃやっぱり駄目なんだよ、さやちゃん」


 そう言って、ひろの顔が近付いて、唇が少し動いて、私たちの距離は零になった。


 柔らかくて、暖かい。私は頭の隅でそんな調子はずれなことを思うしかなかった。ココアの匂いと、煙草の煙と、ひろの匂いがする。私のリップとひろの少しはがれたピンクのグロスが唇の上で混ざっている。一瞬の出来事だった。


 互いの間に空間ができても、私の頭はすぐに動いてはくれなかった。そうしている間にも、ひろは言葉を続けてしまう。


「けい君がね、さやちゃんと会わないでくれって言ったの。私とさやちゃんが仲良くしてるのが嫌なんだって」

「まって、ひろ」

「さやちゃんと離れ離れになるのは嫌だけど、でもけい君が言ったから」

「ひろ」

「だからね、これはお別れのキス。さやちゃんが私の事一生忘れませんようにっておまじない」


 じゃあさようなら、さやちゃん。

 そう言ったひろが最後に見せたのは、今までで一番きれいな笑顔だった。


 ***


 それからというもの、ひろとの連絡手段は一切なくなった。電話をかけても番号が変わってしまったようで繋がらない。以前遊びに行った記憶を頼りに家まで行ってみてもそこはもぬけの殻で、彼女がいた痕跡はメールの履歴と写真しかもう残っていない。変化と言えば、私が吸っている煙草の銘柄がひろとお揃いになったことくらいだ。


 肺まで吸った煙を吐き出して、唇に左手で触れる。あの時のひろのキスが、まだ唇に残っているような気がするからだ。


 ひろは、あのキスをおまじないだと言った。自分を忘れないように掛けたのだと。私は煙草の紫煙を燻らせながら、おまじない、と口の中で呟いた。そんな迷信じみたもの信じていないひろがそんなこと言うなんて、いよいよ私の知っている彼女はいなくなってしまったのだろうか。


「おまじないって怖いよね。さやちゃん、漢字でどう書くか知ってる? お呪い、だよ」


 春の喫茶店で笑っていたひろの声が遠いところから聞こえた気がした。私はあの時、なんて返事をしたんだったっけ。


 ひろとの思い出は挙げればキリがないほどあったのに、その十年はこんなにあっさり終わってしまった。これから先、二人が年をとっても、いつものように笑ってくだらないおしゃべりに興じている未来を漠然と描いていた私がバカみたいだ。


 でも、ひろはもうどこにもいない。私に残されているのは彼女が置いていったおまじないの記憶と、お揃いにした煙草の匂いだけだ。


 頬の上を静かに流れる涙は、外気に触れて一瞬で冷たく肌を刺した。唇を尖らせて煙を吐き出し、沈みゆく夕日にキスをしても、もうあの暖かさは戻ってこない。私は煙と涙で枯れた声で大好きだったあの子の名前を呼んだ。

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