第38話 引き継がれし911T

「お久しぶりじゃね?宮田さん」



 母屋みたいな木造りの建物の中。古い鉄製の暖炉がパチパチと暖かくて心地いい……鈍いオレンジ色の透明な管が光沢を放つ機械。これは何だ?隣でレコードが回ってるからオーディオの類か?歌のない演奏だけのジャズの音楽が包む大人な雰囲気だな?


 苦くて酸っぱいコーヒーをすすりながら談笑する旧知の仲らしいお歳も近そうな宮田さんと爺ちゃん。


 壁には古いポスターやステアリングなどがセンス良く飾られていて、書棚にはレコードやCD、車関係の本や雑誌が整然と並んでいる。私は興味深くキョロキョロとソファーやバーカウンターなどが備えられたなんと言うか?集会所?いやサロンとでも言うのだろうかそんなスペースを眺め回した。


 それにしても、この施設は一体?


 El paraíso = '樂園'


 そう名付けられたこの場所は、だいぶ以前…昭和の頃に別荘地として切り拓かれた山麓の景勝地。しかし開発業者が中途で倒産してしまい開墾の段階で頓挫、長い間放ったらかしで荒れた侭になっていたその跡地である。それから何十年かを経て、数年前に一線を退いた宮田さんが自身の隠居所も兼ねてこの地所を入手、設計整備した簡単に言えば'会員制ガレージハウスの集合体'みたいなものらしい。近くには渓流や沢もあり地元・近県の好事家/車好きが週末用の宿泊可能な"趣味部屋"として賃借する需要で現在敷地内にたった7棟しかなく(増設中)、ここに趣味車を置いている者、或いはここ迄ドライブがてら乗ってきて思う存分弄ったり、同好の士と語ったり宿泊する者それぞれであるが車を中心とした桃源郷の様なスペースは、既に多数の空き待ちを抱える程の活況なんだそう。


 私達が今居るのがそのメンバーが集えるラウンジと言う訳。此処は後々カフェとして一般にも解放したいと言う。更に驚いた事に、ゆくゆくは整備施設まで併設も目論んでいるらしく謂わばその名のとおり車趣味者の究極の'楽園'ってトコか?




 ……




「しかしなんでまた改めて点検や整備なんか?宮田さんのT、こまめに手ぇ入れとったから別段不具合なんぞなかろうも?」


「そうなんだがね。実はな、国松さん……」


 免許を取ったばかりの孫娘がえらくそのTとやらを気に入ってて、くれとまでは言わないが乗りたいのだそう。目に入れても痛くないほど可愛い孫の頼みとあらば!と言う訳で今回、に点検・整備をご依頼。言う事らしい。


「エアバックも付いてない旧車だろ?本当は心配なんだがねぇ。もういたく気に入ってしまってなじいじの911、コレじゃなきゃ絶対!なんだと。……まぁ墓場迄は持って行けんし引き継いで乗ってくれるんならこんな嬉しい事ないしね?この先免許返納も視野に入れれば其れもありかな?って。だからブレーキ系とか念入りに見といて欲しいんだ、国松さん。なんだったらよく効く930のとかに交換でもいい。あ、シートベルトも巻き上げの3点式のに替えといて欲しいんだが手に入るかね?」


「ベルトはなんぞ手に入るとは思うがの、ブレーキも。じゃがあのTはオリジナルじゃろ?手ぇ入れるの勿体ないと言えば勿体ないが……まぁ安全には代えれんか?」


「そんなビス一本までオリジナルにコレクターじゃないからね?構わんよ」


「……しかし今時のにしちゃあ珍しい、随分と物好きじゃのぉ?」


 と言って爺ちゃんは私の方をチラ、と見た。と言う事は旧いクルマなんだな?う〜ん、確かに私やシゲルコみたいなクチは超希少種と言えよう。しかし同じ可愛い孫娘なのに私は当然の如く2点式の侭って言うのもなんかな?と理不尽にも感じたがまぁ別にそれで構わんし余り深くは考えない事にした。



「ところで、お孫さんは……才子さんだったね? もあのタルガ乗ってるんだって?どうかね?古いポルシェは?」


「……へっ?へぇ、楽しいですよ。まだ2〜3ヶ月ですけど』


 急に振られたので江戸の町人みたいなヘンテコな返答になっちゃったよ、恥ずかしいので慌てて繕うように続けた。


「勿論、運転するのもそうですけど。あ、ほぼ2日にいっぺんくらい乗ってます。弄ったり、なにか……車通して友達と繋がって喋れるのもいいですね?」


「ほぉ、それは前途有望だ。なぁ?国松さん。……しかし運転し辛らくないかね?今の車と比べたら?うちの孫娘もそうなんだが」


「そうですね?教習車と比べちゃったら勿論アレですけど、自分で操ってる感がもう全然違いますね。でも私、ウチのポルシェしか知らないから、これが普通です」


「うんうん、そうかそうか」


 と頷いて少しだけ納得したかの様な宮田さんは爺ちゃんは顔を見合わせて笑った。まぁついこないだまで免許取ってもATとマニュアルの区別さえ、だったのが我ながらどの口が言ってるんだ? って感じだが、これが近頃は機械整備迄手を染め始めた私のまごう事なき今の心境、正直な本音であり進路に迄影響を及ぼしたある意味ってヤツなのだろうか?



 ……


 3人は母屋を出て寒い戸外へ。


 幾つかの同じ様なつくりの建物が点在している。最初に宮田さんが出てきた一棟に歩を進めると入って来た時ちょっと垣間見えたあの黒い車がガレージから顔を覗かせていた。近づくとそれが才子のと同じポルシェだとすぐ分かった。ヘッドライトは……厚ぼったい、シゲルコから'カエルのお目々'と揶揄されたアメリカ市場向けのものではなくノーマルのシュッとしたものである以外は前から見たら一緒の顔つき。



 '68年式 ポルシェ911Tは911として2世代目の"Aシリーズ"に分類される、エンジン出力も110psと他のバリエーションくらべれば比較的抑えられエンジン部品素材や内装もコストダウンされたが、空冷水平対向6気筒 2リッター(1,991cc)発動機が醸すパフォーマンスは911らしく最高速度205km/h、0-100㎞/h加速タイム9.5秒と十分以上な動力性能を発揮し、更にチューニングされレース車両のベースマシンとしても大いに活躍した。




 美しく深い艶のある黒いボディのクーペ……


 宮田さんの911Tは一瞥しただけで長い長い間、大切にされて来ただろう事が窺い知れる一台であった。

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