第36話 ボアアップ!

 ツナギに着替え軍手装着、前髪が下りてこない様にカチューシャでおさえて…っと。よっしゃ! 目蓋はまだちょっと腫れぼったくて愛車の如しだが、気合いは充分! その日の夕刻、私は作業場に居た。



 戻ってきたヒートエクスジェンジャーは、穴が完璧に塞がれ綺麗に修復されており塗装も相俟って内側の灼けた赤錆びを除けば新品の様なその見事な職人技に才子は感心した。


 台の上には幾つかの部品が入ったパッキンケース…


「どうじゃった?914は?」


「う〜ん、なんかね?違うんだ……。うちのコは線が細いって言うか?似たようなスペックかもだけどあっちが断然力強いな?安定感も凄い」


「うんうん、そうじゃの?間違っとらん。流石にリアエンジンとミドシップの差はどうにもならんが……ヒーターも勿論じゃが折角下ろしたからちょっとその辺も含めていぢってみるかの?」


 そう、下ろしたあの日以来、手解きを授りながらコツコツとミッション連結を外し、'網々'=WEBER キャブレター、'オズの魔法使いの案山子の頭'= H-FILTER バイパスオイルフィルター 。そして古い車にはちょっと派手なお色目のBOSCH製のイグニッションコイルなんかが付いてるシュラウドカバーとかどんどん外して行って、爺ちゃんに支えて貰いながらエンジンをぐゎしっ!と鷲掴みにして回転できるのに固定したりして…


 一通り手が入ってるからあの'毒ガス事件'以外、不具合に遭遇した事はないけど、今回のミッションは'網々'…いや、WEBERの冬用調整/ジェット交換、そしてもう少し馬力上げる為のボアアップ(?)だそう。ふむ?…キャブは冬だと気温が下がって酸素濃度が濃くなって混合気は薄くなるからとか、随分デリケートなんやな?と思った。ボアアップはピストン/シリンダー交換する事によって…1,582ccから1,750ccまで排気量と共に文字通りパワーアップするらしい。数字上はシゲルコの914のそれを凌駕するが、はて?



 ……


 黙々と作業を続けているとお腹がぐぅう…と鳴る。


 壁の時計に目を遣ると「えっ? もう8時過ぎやん?」ぜんぜん気付かんかった! そりゃあお腹も空く筈だ。こんなに何かに集中し文字通り時の経つのも忘れ……なんていつ以来の事やろう? 爺ちゃんはあれこれ指示したり私の'仕事'をチェックしたりしながら黙々と集中してる私を咎める事なく何も言わず一銭にもならない作業を一緒に続けてくれた。


 タペットカバーを開けたから軍手は茶褐色の油や煤汚れ、錆びなんかが沁みていて外した後の才子の陽灼けはしてはいるがまだ白く透明な指にまで及んだ。



「今日はもうこれくらいにして、ラーメンでも食べに行くかの?」


 ……


 無愛想な旦那さんと日本語喋れないけど兎角明るいおばちゃんの中国人ご夫婦が営む街の中華屋さん'駅前飯店'のカウンター……駅はないが駅前飯店。昭和の頃に都会の方で創業した時は、急行の止まらない小さな私鉄駅前だったからこの屋号。以来こっちに移ってきて時代/年号を跨いでも変わらずらしい。


 ぞぞぞぞぞ! っとラーメンを啜りながら、祖父と孫娘は隣同士。



「才子や、来週は三者面談じゃの? 儂、背広着てった方がええかの?」


「いいよ、いいよ、そんなん……普通のカッコで。何ならツナギでもOKだ! 」


「ほうか? ……なんか緊張するの?」


「ははは、大丈夫だよ。」


「……ところで、その、大学の志望校。進路はもう決まったんかいの?」


 爺ちゃんの箸が止まった。


 昼間のこと=菜々緒式プライマルスクリーム・セラピーの特効もあってか?もう腹括ってここらで決めなきゃならんのは判ってるから。その面談の事もあるしやはりもうここはぶっちゃけて爺ちゃんの意見も訊いてみよう! と、幾つかの県内そして東京の候補校がある事とその特徴、志望動機なんか。そして今日迄なかなか決め切れなかった理由。菜々緒とシゲルコに吐露した暗黙のタブーだったの心情、そして私はなにより爺ちゃんと一緒に居たいって事なんかを切と訴えた。



「なんじゃ?そんな事悩んどったんのかいの? 才子はまだこどもじゃのう〜?」


 拍子抜けに、爺ちゃんはいともあっけらかんと言って笑った。


 疑り深い私は、きっと爺ちゃんの事だから私の進路を妨げない様に気を遣ってなんともないフリをしてるのではないか? と表情……真意を窺うべく、箸を止め気付かれん様に横から覗き込んでみたが、どうやら目は斜め上辺りには泳いでないみたいだ。


「そりゃあのぉ……そう言うて貰えて、一緒に暮らせれば爺ちゃんにはこんな嬉しいし事ないし、事実この何年かあれ以来 苦労なかったと言えば嘘んなる……が、才子と過ごしてほんに楽しかったでの」


 うぐぅ、こうこられるとやっぱり弱い。昼間 枯れた筈の塩水の井戸もまたじわじわと水位を上げてきた。


「けどの、才子が来るまで爺ちゃんはず〜っと独りじゃったし……」



「!」



「……それがまた元に戻るだけの事じゃ、こん歳になったら時間も早う巻き戻るて。そう言うてくれるのは……うむ、正直ほんに嬉しくはあるしもう本望じゃがの。そもそも、どんだけ離れとったって爺ちゃんと才子は家族じゃろ?この世でたった2人っきりのな。何処にったって繋がっとる、それでええんでないか?」



「だから才子は才子の好きにすりゃあええ」


 ……と爺ちゃんはいつもの台詞をまた繰り返して焼飯を追加した。おかみさんが復唱する『炒饭一个チャオファンイ〜ガ〜!』




 もうこれ以上、大切なものを失くすことばかり恐れてしがみついている、そしてそれを訂のいい逃げ口上にしてしまってないか? シゲルコがふと投げ掛けた

"さえちゃんはほんとうに大学行きたいの?"って単純な問いも、シゲルコが商業高校に進学した時から就職を決めてたのと同様に、そしてこの県立普通高校に通う大多数と同様にどっかの大学に進学する流れを疑った事さえなく只、当たり前の既定路線と思ってた。


 大卒の履歴。


 無論、きっちりとした将来のビジョンを持って国公立を始め専門課程に進む者達と比べれば、前述のその私の志望動機なんて有ってない様な随分あやふやで取ってつけた様なもの。まさに菜々緒のいう"偏差値の堅いところ"の"企業の蟻の兵隊養成の猶予期間"以外の何ものでもない。


 その貰った猶予期間で何かを見つけ、踏み出せるならそれでいい。きっとそうなるのだろう。しかし、その2年後か4年後また同じことを繰り返すのなら……


 私はどうしたい?



 私は!



 ……



 翌週、緊張してカチコチの爺ちゃんを交え担任/進路指導の先生にも臆する事なく私は自分の言葉で希望進路・志望校を述べ、無事に三者面談を終えた。











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