第17話 爺ちゃんの奥の手。前編

 そして空が更に少し高くなった頃。私は晴れて免許(AT限定だけど…)を取得した。



 '晴れて'とは言ったけどモヤモヤしたもの=マニュアル車は運転出来ない=ウチのポルシェも運転不可と言う現実……は残った。限定解除するにはちょっとばかり費用も嵩んだので爺ちゃんとも相談して取り敢えず一旦は置いておく事にした。この時の爺ちゃんはどこか?余り深刻そうな感じでもなく逆に何か思う所ある感じで「ま、最初暫くはオートマもええんやないかい?」みたいな調子だった。


 私は……


「ウチのポルシェ乗れないやん……」な喉元まで出掛かった一言を飲み込んだ。


 消沈。一旦は新しい目眩く世界が目前に広がったんだけど、だから私は今日もこの空の下をこうして虚ろに自転車を漕いでいる。


「ただいまぁ……」


 爺ちゃんにそう告げると工場の奥のポルシェに触れに行く事もなく、またあの目標を失った暗鬱な日々が戻ってきたかの様に私は部屋に直行した。爺ちゃんと言えばこの頃、仕事が立て込んでるのか日が暮れてからも奥で作業をしてる様子で夕飯も私がこしらえる事が多かった。


 そんなある日の金曜日の夕食どきのこと。


「才子や、日曜は勉強忙しいかの?」


「ん?別に……」


 我ながら素っ気ない返事が、視線をTVの相変わらずくだらない番組に置いたまま口をついて出た。


「ほうか。じゃ、ちょっとクルマ練習に行くとするかの?」


「え?だって……」


「オートマ車じゃ」


 なに?新しい(中古)車でも私の為に用意してくれたの?それともお客さんの修理完了車を?……まぁそれは流石にあり得ないか?てか爺ちゃんの修理工場に入庫してくる古い車達は大概マニュアルでしょ?


「ほりゃあれじゃ?折角、免許取っても乗れないんじゃ運転も忘れてしまうじゃろ?」


「そりゃそうやけど……」


 多分、軽か何かの乗り易い車を私の為にどっかから借りてくれたに違いない。感謝しなきゃね?……と、その時は余り深く考えず話は終わった。しかし別段小躍りしなかった理由(わけ)は、いつの間にか免許を取った事は'単に運転する事'やゆくゆく就職に有利だからとかそんな為なんかではなく、何故かウチにある可愛いポルシェ=選択肢なく偶々ウチに居たから、古かろうが何だろうがそんなのは関係ない。それは一目惚れの様な……只々純粋な感性のシンクロに尽きる= のハンドルを自分で握って羽の生えた鳥のように自由に何処迄でも行けるだろう事、それこそが全てだったから。それが叶わない今ではあまり意味もない。



 翌日の土曜日。週末のこの日は大概、修理を依頼したお客さん以外にも有能なメカニックである爺ちゃんを慕って訪れる人達も多いから応対やなんやでいつもの半分も仕事にならない。来訪者のおじさん達も出来るだけ手を止めさせない様に気遣う人もいればそうでない人も居る。しかし流石に開店時間からはまだ来客はない。


 'あまり意味もない'……とは言え、それでもやっぱり明日練習する車がどんな車なのかちょっと気にもなってたので、週末寝起きのボサボサの頭とTシャツ/ショーツ姿のまま古い木枠のガラス引き戸をカラカラと開けて工場の方に降りてみる。と、丁度その時、シャララララ!とけたたましい音を響かせて一台のグレーの勇ましい車が工場の前に停まった。


「あ、ポルシェ!」


 まん丸いつぶらな瞳とそのシルエットでわかる。しかしとても同じ車種とは思えない大きな羽根が後ろについていて、飛び出した前顎の様なバンパー、何か凄くボリューミーでグラマラスな肢体は一回り程大きく感じられた。扉を開けて出てきたおじさんファッション誌の中から飛び出してきたかの様な教科書通りなイデタチの赤いドライビングシューズ履いて帽子被ったキザな感じのおじさんは、奥で屈み込んだ爺ちゃんの姿を視認すると、


「おやっさん、お久しぶり!」


「おうおう、土井さん久し振りじゃの、今日は悪いの〜!」


 爺ちゃんは汗を拭いながら、「グットタイミングじゃ」と呟いて冷たいお茶を頼むよと丁度降りてきた私の方へ振り向いて言った。私は再びガラス引き戸の向こう側に戻って台所で冷たい麦茶に氷を入れてお盆で持ってってご挨拶を、そのままその場で少し聞き耳を立てながらグレーのポルシェをちらと眺めることにした。一気に飲み干した爺ちゃんのグラスの麦茶の氷がカランと涼しげな音を立てる。


「で、どうだい?その後SCの調子は?」


「お陰様で頗るいいよ!お役に立てるのなら光栄至極。SCも本望だよ!」


 エスシーって?相変わらず知らない専門用語……でもちょっとばかしポルシェに興味を抱く様になってからそんな単語も少し知りたい衝動に駆られる様になった……が散りばめられた土井さんとの他愛もない挨拶と会話が続いた後、おもむろに爺ちゃんは私の方を振り向いて言った。


「今日は午前中暫く臨時休業じゃ! 早速頼むわ土井さん。才子やちょっと30分ばかし付き合え!」


「え?」


 ボサボサ頭のTシャツショーツ姿は唐突な一言に訳がわからない。どう言うこと?練習は明日よね?しかもお客さんのポルシェ(いかつい)、もしかしてコレ?ちょっとドキドキするけどAT限定免許の私は運転できないでしょ?


 それよりこんなカッコのまま?の方が女子高生には随分気まずかったが、爺ちゃんはそそくさと作業用のツナギを脱いで手を洗ってガラガラとシャッターを閉めた。そして「ちょっくら失礼するよ!」と座席を倒し自分は狭い後席に乗り込んで有無を言わさず助手席に私を促した。


「ちょっ?爺ちゃん?」


「ええから早う乗れ」


 土井さんはニコニコしながら運転席に収まった。乗り込む際キザな帽子が屋根にとん!っと当たって後ろにずれて、夏の陽射しに見事な瞬間の反射リフレクト。訳がわからないまま助手席に座った私、菜々緒ほどではないがすらりと綺麗な……テニスで鍛えた健康的に灼けた無防備な素足がショーツから伸びる。太腿も露わなその姿を一瞥した土井はシートベルト装着を促して、呟いた。


「こんなピチピチのお嬢さん隣に……光栄だねぇ!おやっさん。はっはっは!」


「あほたれ、孫じゃろが」


 思わず頬が染まる。


「じゃ、才子ちゃん行こうか?」


 何がなんだかわからないまま、混乱する私を余所に土井さんはキーを捻ってエンジンを掛けた。キュキュルキュル……ブオーム!とSCは一発で力強く目覚めた。同じポルシェでもウチのコとは随分違うな?と具体的にどうこう説明はつかないがそう感じた。すると即座に爺ちゃんが切りだした。


「才子や、よう見とれ!土井さんの右手じゃ、そして車の挙動」


 慌てて視線を隣席の中年男のテカテカ黒光する革製ノブに乗った右手に落とす。爺ちゃんは、私に土井さんの運転でミッション操作方法を見て覚えさす作戦なのかしら?土井さんはクイっと右上の方へシフトを動かした。アクセルを少し合わせてやるとウワン!とひと唸りしてスウッ……とスムースにポルシェは動き出した。


「え?だってコレ、ウチのと同じマニュアルでしょ?私ダメやん?」


 すると後席に向かって振り返った私に爺ちゃんはニヤリとしてボソッと呟いた……



「シュポルトマチックじゃ」




 しゅ?しゅぽ?何?……また訳わからない単語が出てきた。

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