戦旗を駆ける

狐塚

第1話

プロローグ



 師匠との約束である2年が少し過ぎて、17歳になった俺は、ようやく旅立ちの日を迎えようとしていた。 寝具しかない殺風景な部屋の中を、刃のように細い三日月が、小さな窓から照らしている。明日の旅立ちに向け、俺は彼からもらった少し長い片手剣を、ただひたすら磨いていた。

 あの日から……親元を離れて、師匠の元で修行を初めた日から、俺を、絶望のどん底に叩き落としたあの日から、もう丸2年も経とうとしている。

 随分と長かったと感じるのに、あの日の記憶はまるで昨日のことように、痛烈なほど蘇って来ては、しつこいくらいに脳裏にまとわりついた。

 そんな不思議な感覚を覚えながらも、俺は剣を磨く手を止めることはなかった。差し込む月明かりに剣をかざして、研磨の出来具合を見ていると、ボロボロの木の扉の向こうから、痰の絡んだ咳と杖が床を叩く音が聴こえてくる。





「入るぞ」





 ゆっくりと扉が開く。はじめてその声を聞いた人は、きっと幽霊だと勘違いしてしまいそうなほど、彼は嗄れた声の持ち主だった。





「……師匠」

「ほっほっほ、やっぱりな。眠れないじゃろうと思ったよ」





 深い青色のローブを纏う枯れ木のように痩せ細った老人は、軽快な笑い声を上げると、床にどっかりと座っている俺を見下ろすように、ベッドに腰を下ろした。





「そりゃあ眠れませんよ」

「明日は約束の日じゃな」

「そうですね」

「お前がわしの弟子になって、もう2年も経ってしまったのか……時の流れとは速いものじゃ」

「……そうですね」





 返事に困った俺は、そんな当たり障りのない事しか言えなかった。師匠はそんな俺を見て微笑みながら、長く蓄えた白い髭を、ゆっくりと右手で撫でている。

 師匠とはこの2年間寝食を共にし、散々剣術や魔術の稽古を付けてもらった。だが、依然彼は謎に満ちていた。

 特に、その氷のようなアイスブルーの瞳を向けられると、まるで俺の思考回路を手にとってマジマジと見られているようで、とても胸がざわつくのだ。

 それが敵国からも恐れられ、『稀代の星読み』、『流星の魔術師』と呼ばれたも者の風格であるのかとも思ったのだが……最後の最後まで、俺にはただの変わった爺さんにしか見えなかった。





「師匠も夜更かしすると、体に障りますよ」

「なぁーに、そんなに心配せんでもよい。一丁前に気を使いおって」





 師匠は脇に置いていた杖を手に取ると、こちらに向かって振りかざした。

 先端に埋め込まれた青い宝玉のような石が、一度月明かりを反射してキラリと輝いた。するとそれはだんだんと淡い光を帯び始め、胡座をかいて座っていた俺を中心に、床に白い円形の魔法陣が浮かび上がる。





 そしてその陣からは、橙と緑の光がポツポツと出てきて、まるで生きた蛍のようにあたりを漂い始めた。

 光の粒は、ふわりふわりと俺の周りをゆっくりと旋回する。すると、一粒ずつ、俺の左胸に吸い込まれるように入っていった。俺はその幻想的な光景に暫く魅入られると同時に、光が入って行った左胸にほんのりと暖かみを感じ、右手をそこに当ててみる。まだ瞼の裏がチカチカと光を忘れられずにいる中、俺は師匠に呟くような声で聞いた。





「……今のは、占星魔術、ですよね」





 惚けている俺を見て、長老は小さく笑いながら、ゆっくりと首を縦に動かす。





「ああ、太陽と木星の力を少しな」

「星の加護、ということでしょうか?」

「さよう……お前の人生はこの2つの星、特に木星に強く支配されるじゃろうからのぉ。味方に付けておいてそんはない」





 師匠はそれ以上深く語る事なく、満足げに髭を撫でた。

 星の加護なんて、本来なら祭壇を用意し、その星へ捧げものをした後、三日三晩眠らずに祈り続けなければならない。 更に、それらは天体の位置や日付を考慮して行われるため、どんな一流の魔術師でも、魔術を発動させるだけで一苦労なはずなのだが……。

 それを、己の魔力のみを使ってやってのけるのだ。こんな力技が出来るのは、この国で師匠だけだろう。





「魔力使い過ぎて、干からびても知りませんよ」

「何を言っておる。魔力とは、すなわち生き物の魂の源、生命力のことじゃ。わしは今年で300歳じゃぞ?そんなもの有り余っておるわい」





 師匠はそう言って、今度は杖を2回、コンコンと床に軽く打ち付ける。すると、俺の目の前にまた白い紋様が現れる。

 そこからこぼれ落ちた何かに、反射的に右手を伸ばした。

 床に落とさずに済んでホッとした後、右手に掴んだ、冷たくて硬いそれを見る。真ん中に独特の窪みがある丸い金属にチェーンが通った、ペンダントのようなものだった。





「何ですか?これ」

「わしからのプレゼントじゃ」

「プレゼント……」

「わしはなくても良いのじゃが、お前にとっては、きっとあった方が便利だからのぅ」

「何に使うんです?」

「ほっほっほ。その時になればわかる」





 師匠はそう言って、軽やかな笑い声をあげた。

 回答になっていない回答に、俺は呆れた。いつもこうやってはぐらかすんだ、この人は。




「全くいつもいつも……ちゃんと教えてくださいよ、って……」





 下を向いて溜息をついた瞬間、俺の頬をそよ風が撫でた。ハッと思い顔を跳ね上げた時にはもう遅く、師匠は跡形もなくかき消えていた。まるで、最初からそこにいなかったかのように。

 すぐ隣にある師匠の部屋をのぞいてみたのだが、彼はすでにベッドに潜り込み、スヤスヤと寝息を立てていた。狸寝入りかも知れない……というか、絶対そうなのだが、無理に起こしたところ質問には真面目に答えないので、俺はそのまま扉を閉めた。

 これはきっと、彼なりの別れの餞別なのだろう。年の割には何事も子供のように楽しんだり、若者のように粋な事をしたりする彼にとってはほんのささやかな物なのかもしれないが、彼が自ら渡して来たのだ。ただのガラクタではないはずだ。

 そのまま自室に帰ろうと思ったのだが、俺の足は自分の部屋に戻ることはなく、ふらふらと外へ繋がる扉の前へ向かっていた。特別な理由はない、ただ風に当たりたくなっただけだ。

 薄暗い湿気で腐りかかった廊下を進んでいく。天井や廊下のあちこちからはみ出ている木々の根っこに寄生した、黄緑色に光るコケと、蛍のように飛び交う柔らかい光を灯り代わりに、俺は外へ繋がる扉の近くまでやってきた。

 取手に手をかけると、夜の風が、体中を気持ち良く撫でながら通り過ぎて行く。

 紺碧の空に浮かぶ三日月の青白い光は、眼下に広がる森を照らし、その更に向こうにある寝静まった俺の村を、まるで見せ付けるように浮き出させている。

 ここに来るまではなんとも思ってなかったのに、今ではこの景色と空気が何よりも好きだった。

 見慣れたこの景色とも、森の奥深くにある巨木に、無造作に置いたように建てつけてあるこの危なっかしいツリーハウスとも、明日でお別れだ。

 家に絡みついたツタに上手くつま先を引っ掛けて、少し下の方にある太い枝まで行くと、そこに座り込む。

 首にかけていた、"彼女"の形見である、ただの紐に通されている、花緑青の石がぶら下がった首飾りを取り出す。月明かりをキラキラと反射するそれを紐から外して、ポケットに入れていた、貰ったばかりのペンダントに付け替えた。





「……よし」





 少しの間、それを空にかざして眺めた後、俺はまたペンダントを首にかけて、視線から隠すように服の中にしまう。そしてペンダントの石たちを、布の上から包み込むように握りしめた。





 ……ずっと、ずっと待っていた。





 まだスタートラインにすら立っていないのに、胸の昂りは冷めるはなく。

 頭の中を永遠と巡っていたのは、2年前の、まさに人生最悪と言って相応しい、あの時の記憶だった。

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戦旗を駆ける 狐塚 @tanukinn

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