アラクノフォビア
硝子匣
アラクノフォビア
私には小さなころから好きな人がいます。何年も一途に思い続けた、純愛なのです。きっと珍しくもないことなのですが、ちょっとだけ普通と違うことは、私が好きになったのが女の子で、つまり同性。禁断の愛、です。うふふ、ちょっとかっこつけてみました。
こういうことは思春期によくある勘違いだとか、大人はそう言いますが、知ったことじゃありません。ただ、私には好きな人がいるという事実だけが真実なのです。
ところで、私はクモが嫌いです。足が八本、糸で巣を作りエサを絡め獲る、節足動物門鋏角亜門クモ綱クモ目の、クモです。昔から、それこそさっきの好きな女の子と同じくらい昔から、クモが嫌いなのです。
クモが嫌いなのは別に不思議なことではないと思います。だって、私の友達には虫が嫌いな子なんていっぱいいるのですから。
でも、私はほかの人と違って、クモがただ嫌いなだけではありません。
私はクモに嫉妬しているのです。
昔、といっても私が小学校一年生のころですが、ある日私は一人で町を散歩していたのです。
小学生になった私は毎日が楽しくて仕方なく、もう何も恐れるものなどないほど浮かれていました。
その日はとても天気が良くて、それ以上に私は晴れがましい気持ちで歩き回ったのです。そして、普段はあまり近づかない、古くからある住宅地の、雑木林にまで足を伸ばしていました。
けして高くはない、山の裾野に広がるそこは、奥に行けば行くほど鬱蒼としていて、お日様の日差しが差し込まなくなるのです。とっても不気味です。
それでも、当時の私は何を思ったのか雑木林へと意気揚々、侵入したのです。
雑木林はそれまでの晴れ空とは打って変わって、どんよりとした景色が広がります。木々が風に揺れて、湿った空気の匂いがしていた……と思います。だって、昔のことなので、周りのことなんていちいち覚えてはいません。
とにかく私は薄暗い林の中へと進んでいったのです。深く深く、進んで行けば行くほど、私の気分も暗く暗く落ちていきました。
後悔、当時はそんな言葉は知りませんでしたが、私は確かに後悔していました。
『あれ?』
だから、早く帰っておやつでも食べて宿題をしよう、そう思って私は引き返そうとしました。なのにどうしてでしょう、まっすぐ歩いてきたはずなのに、帰り道がわからないのです。きっと同じような景色が続いていたから、ちょっとずつ道がずれていたことに気付かなかったのでしょう。
とにかく、私は雑木林の中で迷ってしまったのです。
あんなに楽しそうだったのが嘘みたいに、そのときにはもう泣き出しそうなくらいに不安で、実際に私は涙目になっていたと思います。
独りきりで棒立ちです。洒落にならない状況です。今では笑い話ですけどね。
さて、そんな私は何を思ったのか今よりも小さい手をぎゅっと握り締めて、走り出しました。はあはあと、息を切らしながら全速力で、ただまっすぐ走りました。もしかしたら逃げ出したかったのかもしれません。どうしようもないほどに不安で悲しくて寂しい、その場所から、陽のあたる明るい場所へ行きたくて。
私は走りました。おんなじような景色をわき目に。
目には少しだけ涙が浮かんでいて、その景色もまともに見えてはいなかったのですが。
そうして、結局私は足を止めてしまいました。もちろん、体力がもたなかったということもありますが、一番の理由は、足止めを食らってしまったことです。
『うぁっ……はあはあ、いやっ!』
それはクモの巣でした。
木と木の間に広々と張られた、うっすらとひかるねばねばした、白い糸。
気持ち悪くて、私は無我夢中で巣を払いました。払っても払っても、巣はまだそこにあるかのように思えて、何度も何度も腕を振り回していました。
脆い、簡単に振りほどけるようなクモの巣も、そのときの私にとっては怖くて仕方がなかったのです。それこそ、まるでクモの巣に捕らえられた蝶にでもなったようで。
『はあはあ……ううっ、うわぁぁぁ……』
ついには泣き出してしまいました。
『うぅ、ぐす……あ、れ?』
涙を拭おうとして、どうやら私は拳を握り締めたままだということに気付きました。きっと緊張が臨海突破をしていたのかもしれません……ん?臨海?あ、臨界ですね。
そして、恐る恐る、ゆっくりと手を広げました。右手に違和感を覚えながら。
すると、
『っ! うげぇぇぇっ……い、いやぁぁぁっ!』
私の右手には中途半端に潰れたクモがいたのです。胴が崩れて、汚い体液をこぼして。今思い出しても鳥肌モノ、トラウマです。
そうして、その日の記憶は一旦途絶えます。最後に見たのは、壊れかけのクモと、湿った腐葉土の上に、給食だったものが撒き散らされている姿だけです。
気付くと、私は道端で女の子に泣きついていました。白いワンピースが可愛らしい、私のお友達に抱きついていたのです。
どうやって雑木林から抜け出したのか全然記憶にありません。ただ、傍にいる彼女が安心をくれました。私にはそれだけで十分でした。
たまたま通りがかっただけの彼女が、事情も何もわからないはずなのに、それでも黙って私を抱きしめてくれていたのです。暖かくて嬉しくて、私は涙が止まりませんでした。偶然居合わせただけの彼女が、私には救世主に見えたのです。いいえ、天使のほうが可愛らしいのでそちらにしましょう。
きっと、私はそのとき彼女に恋をしたのです。
そして、同時にクモが憎らしくなったのです。
「……クモなんて」
嫌いです。
そして今、掃除中、校舎のすぐ傍にある木々と植え込み、その一角にクモの巣とその主であろうクモを見つけてしまいました。
苦々しい記憶を辿りながら私は、手に持った箒を落とし、クモへと手を伸ばしました。
「ねえ、どうしたの?」
と、少し離れたところからから声をかけられ、びくりと、向き直りました。そこには、私が恋する彼女が立っています。
「もう、掃除終わったでしょ」
「ええ、ただここにクモの巣があったので」
ほんとに、と声を高くし、彼女は笑顔で近づいてきます。私は右手を握り締め、左手で巣を指差しました。
「クモは?」
「いませんでしたよ」
「そんなぁ」
「残念でした」
本当に残念そうな彼女を見ていると、私はどうしてももやもやとしてくるのです。
そんなもやもやしたものが不愉快で、だから私は、右手を強く握り締めるのです。
やっぱりクモなんて、大嫌いです。
アラクノフォビア 硝子匣 @glass_02
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