しぼりだした素直

硝子匣

しぼりだした素直

 僕と彼女は暇さえあれば、二人で茶を嗜む。別に、優雅な趣味があるわけでも、ハイソな出自というわけでもない。いつの間にかそういうふうに習慣づいてしまっていたのだ。

「レポートは終わったの?」

 彼女は茶会の時は必ずジャスミンティーを出してくれる。強い、独特な香りが安物のカップから漂う。

「徹夜でなんとか。ところで、」

 口をつけて、香りと一緒にお茶を流し込む。やっぱり何度飲んでも、この強い香りには慣れない。だからちびちびと、他愛もないことを口にしながら減らしていく。こういうのを『お茶を濁す』というのだろうか。

 穏やかに笑う彼女は、カップを傾け聞き役に徹してくれている。普段からおしゃべりというわけではない彼女は、いつもそんなふうにしている。

「そうなんだ」

 彼女が相槌を打てば、僕は首肯してお茶を飲む。そうすると、沈黙がやってくる。

 お茶請けのバタークッキーに手を伸ばす。香りの強いお茶にこれはふさわしくないような気もするけど、僕はむしろお茶の風味を薄らいでくれるので好みだ。

「お代わりは?」

 空のカップを掲げて見せる彼女。ジャスミンの花の沈んだポットを見つめると、どうもあと一人分で終いのようだ。

「僕はいいよ」

 まだ半分は残っているそれを、ゆっくり傾ける。この分だと、彼女が飲み干すころには自分もカップを空けられるだろう。

「そう、じゃあ私がもらうね」

 いつものことだけど、彼女は意に介した風もなく残りのお茶をカップに注ぐ。僕が一杯しか飲まないことを彼女は知っているし、だから彼女が準備するのは三杯分だということも僕は知っている。


 ゆったりと、クラシックかジャズか、またはそれっぽいBGMを片手間に、文庫本のページを捲る。周りからは騒がしくない程度のおしゃべりがこぼれている。

 駅近くの喫茶店は、ランチタイムも終わりに近いせいかビジネスマンやOLよりも、有閑マダムたちの憩いの場になりつつある。こうしてみると、学生というのは本当に結構なご身分だと思う。

「お待たせ」

「うん、二十分くらいは待ったよ」

 彼女が特に悪びれもしないので、僕も無遠慮に返してみる。やはり彼女はなんともないようで、メニューに軽く目を通すと注文をしていた。

 僕もそれに合わせて二杯目のコーヒーを注文する

「先輩に呼び止められてたの」

 お冷の注がれたグラス、僕に出されたものは汗をかいているのに対し、彼女のそれは平然としている。

「先輩に」

 真っ先に浮かんだ人物、同じゼミの四年生。そこそこに付き合いの長い人だ。

「食事にでも誘われた?」

 そう告げる頃には、彼女のお冷も汗をかき始めていた。

「ゼミで飲み会でもしないかって」

「あいかわらず急だなあ、あ、コーヒーはこっちです」

 注文の品がテーブルに置かれる。彼女の前には、例に漏れずジャスミンティーだ。

「君に幹事を頼めないかって言われたの」

 急なご指名に、コーヒーを溢してしまいそうになる。何を考えてるんだろうか、あの人は。

「直接言ってくれればいいのに」

「あんまり会わないじゃない」

 やんわりと非難するような彼女は、カップを手にどこか別のところを眺めている。僕もあてどない視線を、どこか別のところに追いやりたい気分で、コーヒーに口をつける。たまには、ブラック以外で飲んでみようかと、砂糖に手を伸ばした。


 先輩と初めて会ったのは大学に入学してから。サークルを見学していたときに紹介をしてくれたのがその人だ。話を聞くと、彼とは同じ学科で、しかも同じ専攻を志望していたので、そのままなし崩し的に親しくなった。

 結局そのサークルには入らなかったけれど、先輩とは付き合いを続けていた。

 そんな彼に紹介されたのがまたもや同じ学科、同じ専攻の彼女で、あとはよくある話だ。

「あ、この子が俺の恋人な。可愛いだろ」

 いわゆるドヤ顔でてらいもなく、恋人自慢をしてくれた。今思い出しても、腹の底になんともいえないものが広がる。

「……そうですね」

 ちょっと困ったように僕を見ている彼女と、呆れたように先輩を見ている僕。確か、その時も彼女はジャスミンティーを飲んでいた。

 それからも、彼女を含めて食事をしたり出かけたり、大学生らしい関係を続けていたのだ。


「ちょっと、お茶でもしない?」

 いつだったか、誘われてほいほい着いていったのが彼女の部屋で、そこで出されたのもジャスミンティーだった。

「良いの、部屋に上げても?」

 先輩の手前、彼女の部屋に入るのは憚られる。とはいえ、着いてきてしまったのだから仕方ないと、肩身を狭くしながらカップに手をつけた。

 強い香りだ。あまり好みじゃないなと、なかなか減らせなかったのを覚えている。

「おいしい?」

「……嫌いじゃ、ないかな」

 そう、と呟いた彼女は一人でお茶を楽しんでいた。


「久しぶりだよな、お前とサシで飲むのは」

 少しやつれたように見える先輩はとりあえずと、ジョッキを掲げた。僕もそれに倣い軽くぶつけ合う。

「そうですね」

 苦味と炭酸が全身を侵食していく感覚。これを旨いといえるほど、その時の僕は大人ではないようだった。今ではどうなのか、あんまり考えたくはない。

「はあ、もう嫌になるな」

 今日は先輩の愚痴に付き合うことになりそうだ。てきとうに注文した料理をつまみながら、勢いよくジョッキを空けていく先輩は、それなのによく喋っていた。僕もあまり人のことをいえないけれど、この人は相当なお喋りじゃないのだろうか。

「聞いてくれよ」

 聞いている。何度もそう返しそうになるほど、先輩の愚痴は続く。やれ教授がうるさいだの、どこそこの企業が気に食わないだの、はては政治経済を相手取り。

「――、でな、別れたんだよ」

 唐突だった。

「彼女と、ですか」

 尋ねるというより、確認作業。何となくそんな気はしていたのだ。最近忙しそうにしている先輩が、彼女と連絡を取り合っている様子はなく、三人で出かけることもなくなっていたからだ。

「お前たちのゼミが決まった矢先なんだけどな」

 まったくだ。これからまた三人、同じゼミで和気藹々とやっていく予定だったのに。この人はとんでもないことを言ってくれる。

 半分も減っていないジョッキを恐る恐る傾ける。苦い。

 ジョッキの重さで腕が震える。

「どうするんですか」

「大丈夫だ、喧嘩別れじゃないし」

ヘラヘラとしている先輩。僕が何もいえずにいると、だから、とそんな前置きで先輩は何でもなさそうに言ったのだ。

「お前に譲るよ」

と。

「そいつはどうも、余計なお世話をありがとうございます」

 多分そんなことを返した気がする。互いに酔っていたのだ、若かったのだ。胸倉を掴んで拳を握った。初めて、人を殴った。


「別れたの」

 知っている、とも呟かず僕はジャスミンティーを啜った。

 あれから、先輩とは気まずくて、今は彼女とも出来れば会いたくないのだが、そうもいかない。同じゼミにいれば必然的に顔を合わせざるをえない。

 幸いなのは、先輩が相変わらず忙しそうにしているので、滅多に会う機会がないことくらいだろうか。

「おいしい?」

 僕はだんまりと、カップを口につけるばかりだった。


 それからは、ちょくちょくと二人でお茶をする機会が増えた。彼女の部屋か喫茶店でのお茶会。

 砂糖を二杯、コーヒーに落としたところで彼女が口を開いた。

「もうすぐ卒業だし、良いんじゃないの?」

 確かにそうだけど、それならちゃんと祝いの席を準備したい。急に飲み会なんて、皆も困るだろうに。

「……なら三人で、飲もう」

 今は、それで十分だと思う。

「そうね、それでいいんじゃないかな」


「四年間なんてあっという間だ」

 そう言い残して卒業した先輩とは、ついぞ以前のようにはなれなかった。仕方ないと言い聞かせて、それでもやりきれないのは、未だに香りの強いお茶も、ビールも苦手だからかもしれない。

 まったくだ。本当にあっという間だったと思う。いろいろあったけど、思い返してみれば、センチメンタルに浸れるくらいには楽しかったのだ。

 自分が送られた側になって実感できる。

「考え事?」

 まあ、とあいまいに返す僕はカップを無意味に揺らしてみた。

 卒業式を目前に、彼女の部屋での茶会。

 いつもと変わらないそのお茶は、ふんわりと香りをたてている。

「もう、これで最後かな」

 何が、とは聞かない。

 彼女はカップを見つめている。お茶は半分も入っていないだろう。僕のカップは、相変わらずだ。

「言い忘れたことがあるんだ」

「何?」

 ポットにはまだジャスミンティーが茶花とともに残っていた。

 彼女は僕を見ている。いつもの穏やかな笑顔で。僕はカップを口に運ぶ。そして中身を一気に飲み干して、

「ジャスミンティーは、好きじゃないんだ」

 告げた。

「うん、知ってた」

 こうして、僕と彼女の最後の茶会は幕を閉じた。

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