第10話 happy birthday



 自分に向ける社員たちの眼が痛くて、何も考えずに飛び出してしまった。大の大人が周りの目をはばからず大声で泣く光景もおぞましく、その原因が自分であることの罪悪感、その場に留まっているのは限界だった。


「キレる」ということに無縁だった。たまには頭にくることは人並みにあったが、少し時間を置けば、たいていの怒りなんかすぐ治るものだ。怒りとは、たいてい大きい声や暴力で、自分の意思を押し付けるものだと思っていた。元々価値観の違う他人となんか、うまくいくわけはないし、自分の意思を押し付けたところで理解してもらえるはずがなく、どちらかが折れるしか収束は迎えられない、と思っていた。だから、いつも自分から折れることにしていた。その後、その相手とは距離を置くことにしていた。それが冷静な大人の判断だと信じていた。


 その俺がキレた。周りも驚いただろうが、自分自身が一番びっくりしている。怒涛の如く色んな言葉が、途中で噛んだりせずに出てくるもんだと、他人のことのように感心した。

 羞恥心、罪悪感、嫌悪感、色んな感情の中、爽快感も感じた。

 言いたいことを言えない自分が、他人の目を気にせず相手を罵倒して、体の奥に詰まっていたものが全部出し切ったというか、体感としてもなぜか体が軽くなった気がした。


 そうは言っても、今更会社に戻り、何事もなかったようにできるはずもなく、なにせ「キレた」のが人生で初めての経験なので、この後の対処の仕方がわからない。


 気がつくと地下鉄に乗っていた。

 スマホを見ると、小林から14回も着信があり、LINEも来ていた。


(すみません。僕のせいで。戻ってきてください。とにかく電話ください)


 今更戻ってもバツが悪い。LINEで返事をした。


(お前が悪いわけじゃないから大丈夫。俺はもう会社辞めようと思う)


 すぐ返信があった。


(あんなババアのことで、浅野さんが辞めないでください。さっき僕も頭来てて、辞めるって言いましたけど、俺辞めないんで、浅野さんもこんなことで辞めないでください)


 なんて返したらいいか、わからない。

 東京メトロは池袋方面に向かって揺れている。

 俺は小林への返信はせず、代わりに妻にLINEした。大まかな内容を伝え、仕事を辞めたくなった、と打った。


 これで妻に怒られれば、気がすむだろう。会社では、俺が妻に尻を引かれていることはみんなが知っていることだから、「いやー、妻に怒られちゃいましたよ」なんて言えば、会社に戻る理由ができるかな、と他力本願な自分が顔を出した。


 数分して妻からの返信。


(やったー。すごいよ、シンちゃん)


 続いて、なんかのキャラクターの犬が、クラッカーを鳴らして紙吹雪が舞っているスタンプが送られてきた。


 なぜか「happy birthday」と書かれたスタンプだった。妻の選ぶスタンプは、いつも謎だ。


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