第8話 妻 楓(2)
「シンちゃん、分かり易いからなぁ。その『忍法黙りの術』の時、結構顔で、もの言ってるんだよね、痛いとこ突くなーとか、そんなこと言われたってーとか、そんなの俺のせいじゃないもんとか」
台詞を言うたび、そんなことを言いそうな顔に変化させる。やはり痛いとこ突くなぁ。
いつも妻は、こんな内容を明るく茶化しながら、真剣に心配してくれる。言いたいのに言えないことをほじくり返して、なんとかしてくれようとする。
優柔不断な俺は、今まで自分で決めずに生きてきてしまった。出されたものを食べ、出された服を来て、親から言われた学校に入り、学校で勧められた職場に就いた。
こういう外食時でもメニューを決めるのが苦手だ。考えるのが嫌で、いつも娘が頼んだものと同じものにしている。
何食べようか、と聞くと、なんでもいいと答えてくる人が苦手だ。そういう人に限って、じゃあラーメンと言うと、昨日食べたと言い、焼肉と言うと、そう言う気分じゃないと言う。
彼女は違う。付き合っている時、何が食べたいかはっきり言う。優柔不断な俺には、それが楽だった。里穂が生まれた今では、母親譲りか、里穂も食べたい物を譲らないので、家族3人の時はフードコートが一番揉めない。
決断力が早く、行動力もある妻は、新しいことにどんどん挑戦する。保険外交員の前は化粧品の代理店に勤めていたが、女ばかりで、暇さえあればお互いの悪口しか言わないドロドロしたスタッフ同士の関係に嫌気がさして、辞める前日スタッフ全員に説教たれたらしい。その他、半年だったり、短い期間の仕事を含めれば、何度か転職している。
ここまで聞くと、ただの我儘な人に聞こえるだろうが、彼女なりのポリシーに則って行動しているし、ちゃんとキャリアアップもし続けている。
彼女が
そんな彼女は、子供の頃は父親のことで苦労したらしい。両親は彼女が中学生の時に離婚した。あまり父親のことは多くを語らない。母親、つまり俺の義母は、おっとりとした人柄の優しい人だ。そんな人が女手一つで育てるのは相当大変だったと思う。妻はそんな母親を守ってあげなければと思ってきた。
とにかくひどい父親だったらしい。会いたくないし、母にも会わせたくないと言っていた。結婚式にも呼ばなかったので、俺は義父とは会ったことはない。
そんな彼女に、今の仕事がつまらないからという単純な理由で辞めれないし、彼女はどのバイタリティがあるわけではないので、辞めたら辞めたで、仕事が見つからず妻に迷惑をかける。今まで苦労してきた妻に、苦労させることはできない。
元々つまらないと思っていた仕事なのだから、今更辞めるのもおかしい。
昨日の「殺し屋」の仕事に魅力を感じているわけではない。
一人で勝手に話を進める所長の澤村も、パソコンばかりいじってマクドナルドしか食わない男も、仕事中少女漫画ばかり読んでいる童顔のシングルマザーも、香水くさいブランド物で着飾ったナルシストも、俺に比べたら、何十倍も自由だ。
「ちょっと迷ってる仕事先があるんだよね」
無意識のうちに、口から出ていた。何言ってんだ俺。
でも、妻は珍しく自分の意見を言おうとしている俺に、興味津々に身を乗り出して聞いてくる。それで、それで。
「いや、転職はするつもりないんだけど」
「ダメよ、そんなにすぐに諦めちゃ」
「いや、現実無理な話なんだよ」
だって妻のポリシーは「他人を傷つけないこと」だ。妻は、他人を傷付ける人間は断固として許さない。苦労させる父親への反発だろうか。他人を傷つけるどころか、人を殺そうというのだから、そんな仕事なんか考えられない。
「新人の小林もやっと仕事覚えてきたけど、まだ一人じゃできないし、それに前にも話したけどパートのおばさんっていうトラブルメーカーもいるし。それを放って辞めるのは、やっぱり無理だな」
「ほら、いつもそうやって他人のせいにするー。その小林くんだって、そんだけシンちゃんが考えてあげてたって辞めたいとか勝手にやめてっちゃうんだよ。そのパートのおばさんだって、自分でみんなに迷惑かけてんのなんか気がついてないんだから。みんな自分事が一番で、シンちゃんのことなんて考えてないんだよ」
それはわかってる。でもそう言ったとしても、妻は全然わかってないと言うだろう。
「なんでそうやって、ちゃんと考えないで諦めんの。安定とか、家族のためとか、そういうのは関係ないんだから。給料なんて下がってもいいの。元々そんないい給料貰ってないんだし。要は、あなたがどっちの方が生き生きできるか」
ちょいちょい痛いところを突く。
「どっちが魅力的かがキーなの」
一人で勝手に話を進める所長の澤村も、パソコンばかりいじってマクドナルドしか食わない男も、仕事中少女漫画ばかり読んでいる童顔のシングルマザーも、香水くさいブランド物で着飾ったナルシストも、そして妻も、俺に比べたら、何百倍も魅力的だ。
いやー、ダメだ。あんな連中、妻と一緒にしてはダメだ。殺し屋だぞ。ロクな奴らじゃない。ただの探偵だったとしても、世間的にも胸張れる仕事ではない。
「アタシも里穂も、シンちゃんが楽しそうにしてくれてた方がいいんだよ」
妻は真剣に見つめてくる。里穂も心配そうな顔をして俺と妻の顔を交互に見る。そして俺を見つめ、意味がわかっているのかわかっていないのか、うんうん、と頷いてみせる里穂。俺にとってはこれだけで充分だった。
「でも、やっぱり、ないな」
彼女に口では勝てない。いつもうやむやにして終わらせてしまう。
「つまんない」
妻は口を尖らせた。
「パパ、つまんない」
娘の里穂も妻の真似をして口を尖らせた。
「パパつまんない罰として、アイス買って」
娘は眉間にしわを寄せ、フードコートのアイスパーラーを指差した。
「アイス買って」
今度は妻が娘の真似をした。
「しょうがないな」
俺は娘の頭を撫でて、片手で抱き上げた。まだ大丈夫だが、片手では少し大変なくらいな重さに成長していた。
「ちょっと、降ろして。もう子供じゃないんだから」
里穂が俺の腕の中でジタバタした。妻がそれを見て笑う。
「っていうか、里穂。アンタ子供でしょ」
里穂は半笑いで口を尖らせた。
この家族の笑顔を壊したくない。
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