第6話 マクドナルドと香水の匂い
「うちの社はね、マックとミントみたいに、定時がある月給制の社員と、時間は自由な歩合制の社員がいるの。ミーちゃんみたいに、子供がいる人は保育園の迎えにも間に合うし、ちゃんと子育てと仕事が両立できるような体制をとってるの。いい会社でしょ」
ミントは、マックと俺のアイスミントティーのおかわりを持ってきてくれた。そしてまた自分の席について漫画を読み始める。定時で帰れるとかいって、ただ漫画読んでるだけじゃないか。
「マックなんかはね、自分の手で人を殺したくないから、内勤にしてあげてるんだよ」
マックはポテトを頬張った口で反論する。
「べつに実際自分の手を汚さなくても、PC使って殺せますよ。この間だって、対象者にネットでの
「ありゃー、たまたまだろ。対象者が、気が小さい奴だったから成功しただけだ。ちまちま、ネットで悪口打ち込んでる方がよっぽど効率悪いだろ」
「人って、
彼の言う通り、案外脆い。どんな大きな不幸よりも、小さい嫌なことの積み重ねが、表面張力で保っていたコップの水が溢れるように、じわじわと溜まったものが一気に弾けてしまうと、簡単に絶望してしまう。
例えば、澤村の言うことを全部信じるとして、ミントと呼ばれる彼女は、DVに苦しみ夫を殺したが、彼女自身はこうして生きている。大きな不幸は、それに立ち向かおうと夫を殺すという対処法が明確にある。
しかし、その自殺した対象者という人は、小さいことの積み重ねが、なにも対処できないことだと、絶望するしかないのかもしれない。
自分に置き換えてみる。
満足いかない給料、サービス残業、休日出勤、迷惑なパートのババアの対処、などなど。考えることが面倒になることが、絶望に繋がる。妻と娘がいなければ、俺も絶望してしまうほど弱い。
「それなのに所長は、現場に出てる奴の方が評価高いんですよね」
「そりゃそうだろ。他人がやりたくないこと、他人がやれないことに対価を払う。当たり前だろ」
「僕だって、ハッキングだとか、他の人がやれない技術があるじゃないですか」
「お前のはアレだろ、相手のメール調べて、悪口書いて、バーカ、バーカ、バーカとか書いてりゃいいんだろ」
「バーカ、なんて入れたことないですよ。誹謗中傷するのには、ちゃんと言葉のセンスってもんがあるんですから」
彼は彼なりのポリシーを持ってやっているのかもしれない。
それにしても他人が食っているマクドナルドの匂いを嗅ぐというのは、けっして心地よいものではない。自分が食べているときは、あんなに美味そうな匂いだと思うのに、他人の食べているポテトの油の匂いは少し気分が悪くなってくるから不思議だ。下の喫茶店で満腹になっているせいもあるかもしれない。
その油の匂いに、また何か別の種類の、これまた強烈な匂いが、ぶつかってきた。頭の奥をほじくり返されているようなキツイ匂いだ。
入り口に長身の男が立っている。
体のラインに沿うようなピッタリとしたタイトなスーツ。限りなく黒に近い紺色のスーツに、眩しいくらいの真っ白なシャツ。パンツの裾はきっちり
間違いない、彼が『ジバンシイ』だ。
マックは鼻を摘み、澤村は手元にあった雑誌で空を仰ぐ。
「臭え、臭え。またお前、香水バンバンつけてきやがって」
「所長こそ、相変わらずダサいアロハですね。夏でも冬で年中アロハじゃないですか。それ、似合ってないですよ」
ジバンシイの口答えにも、澤村はいちいち、
「何度も言わせるな。俺は『Mr.ブラック』だ」
と答えていた。
俺は、ジバンシイ(俺の予想、多分合ってる)と目が合った。
「新人?」
いや、と否定しようとしたが、それより先に澤村が言った。
「そうだ、ジバンシイ。彼を新人研修で、現場連れてって見学させてやれ」
また否定しようとしたが、今度はジバンシイに遮られた。
「嫌ですよ、新人なんて。足手まといになるだけだ。それに.........」
ジバンシイが接近してくる。ポテトの油の匂いをかき消すほど強い匂いに、鼻が曲がりそうだ。
「こいつ、全然覚悟できてねえ」
当たり前だ、やるとも言ってないのに、覚悟なんてできるわけがないのだ。
「じゃあ、覚悟しちゃいなよ」
澤村に言われたが、
「すみません。これは一旦、持ち帰らせていただきます」
自分の仕事の営業で、何度言ったかわからない台詞を言って、軽く会釈をし、そそくさとその事務所から出た。
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