輝く未来

 月明かりが差し込み青白く浮かぶ王城の一室、カーテンが揺れ、そわりと冷たい風が頬を撫でる。窓辺に腰かけたままぼんやりと星を眺めていたカインは、ふとため息をついた。

 夜が明ければ愛しい娘は仲間のもとへ、そしてまた退屈な日々に逆戻り。無意識に、シャツの胸元に隠していた小さな指輪をもてあそぶ。

 こんなもの、捨ててしまえばいいのだ。どうせ誰にも渡すつもりはないのだから。古くなった銀の鎖をはずし、窓の外に差し出す。だが、その手を放すことはできなかった。

 カインは自嘲気味に笑い、てのひらを見つめた。静かに輝く指輪は何も語らない。

 まったく、未練がましい。愛するものを不幸にしたくないから、身を引こうと決めたのは自分ではないか。なのに、耳に残る明るい声、目を閉じれば太陽のようにまぶしい笑顔、抱きしめた温もり、失いたくないと願ってしまう。

 もう一度、深いため息をつく。

 今ごろ、慣れない部屋でどうしているだろう。きちんと眠れているだろうか。

 精霊たちよ、どうか彼女に良い夢を……


     *   *   *


 しんと静まり返った広い部屋、身が沈むほどのやわらかいベッド、そしてあのひとと同じ香りのする甘い蜜蝋に、シルヴァの心は落ち着かない。ため息をついたり、寝返りを打ったり、毛布を鼻まで引き上げてみたり。しかしそれも長くは続かず、連日の寝不足と疲れのせいで眠りの縁へと落ちていく。

 本当は眠りたくないのに。眠ってしまうと、朝がやってくる。

 せめて最後の夜は一緒にいたかった。シルヴァは守り袋に忍ばせていた小さな花をそっと取り出した。

 とっくにしおれているはずが、カインに祝福され、力を与えられたその花は、まるで摘みたてのようにみずみずしい。シルヴァは震えるくちびるでかすかに触れた。

 またあのひとは、自分を傷つけながら人々を守り、孤独に生きるのだろうか。誰よりも優しくて、強くて、不器用な笑顔は美しくて、愛されないはずがないのに、嫌われ者だと思い込んで。

 ああ、もしもそばにいられたなら。

 シルヴァは夢とうつつの挟間でつぶやく。

 精霊たちよ、どうかあのひとに幸せを……


     *   *   *


 まだ春の初めだというのに汗ばむほどの熱気、鳥たちが朝を告げるよりも早く王城の周辺に集まった人々は、みな頬を紅潮させ、瞳を輝かせ、口々にウェーザー万歳を叫んでいる。

「まだ謁見の時間ではない! 出直せ!」

 警備兵たちがどれほど押し戻そうとしても、人々の波は勢いを増すばかり。彼らはただ、黄金の王の予知と賢王の奇跡を心から歓び、祝福しようと駆け付けただけなのだ。

「ひとこと、陛下にお祝いを!」

「この安産のお守りを王妃様に!」

「王子様の健やかな成長をお祈りさせておくれ!」

 気持ちがよくわかるだけに、警備兵たちも無下に追い返すことができず途方に暮れた。このままでは怪我人が出かねない。

 やむを得ず大臣たちは、異例ではあるが早朝のお出ましを進言する。断る理由もなく、国王夫妻は快諾した。

 仲睦まじく手を取りバルコニーに並ぶ国王フラン・ヨエル・ウェーザーと王妃アナベル・ヴァッシュの姿を見て、民衆の熱狂的な歓声は大地を揺るがすほどに。

 アナベルは息を呑み、瞳を潤ませた。

 今、ここに集う全ての人々が、自身と腹の子を祝福してくれている。ようやく、認められたような気がした。数々の愚行を悔やみ、これよりは王妃として、母として、国王と生まれてくる王子、そしてウェーザーのよき民たちを愛していこうと胸に誓う。

「アナベル、疲れてはいませんか?」

「はい。どうか、もう少しだけ……」

 ばら色のくちびるは穏やかにほほ笑み、細い手を懸命に振り返して民に応えるアナベルは、まさに女神のように美しく、誰もが、国王フランさえもがほっと見惚れた。

「陛下、私、きちんと勉強して、お役に立てるようになります」

 熱を帯びた瞳はきらきらと輝き、強い意志を宿す。

「それと、あの……カノン様とベリンダの方々に、お詫びをしなくては……」

「そうですね。では、無事にお産が済んだら、一緒に謝りにいきましょう。君に嫌われたくなくて、きちんと咎めなかった私もいけないのですから」

 あの豪気な姉君に叱られるところを想像すると、気が重くて仕方なかったが。フランはそっと白金色の髪を撫でてやる。

 幸福に酔いしれるウェーザーの人々を、シルヴァは廊下の窓からぼんやりと眺めていた。

「やあ、おはよう。よく眠れたか?」

 甘い匂いを連れて、カインが隣に並ぶ。昨夜の祝いの品の残り物だろうか、美しい顔に似合わず豪快に菓子をほお張る。砂糖で軍服の胸元を汚すのが幼い子供のようで、シルヴァは思わず笑った。

「向こうにまだあるよ。おまえも食うかい?」

「ん……今はいいかな」

「ふむ」

 どこか具合でも悪いのかと、カインは心配そうに顔を覗き込む。まったく、乙女心のわからないひとだ。シルヴァはうつむき、鼓動よ鎮まれと命じる。

「せっかく腕が治ったのに、ドレスは着ないのか?」

「え? あ、だって……あんなの着たことないもん」

 すれ違う貴婦人たちのように着こなし、優雅に歩けるかどうか。何よりも、似合わないなどと笑われでもしたら、きっと立ち直れない。

「ね、これ、国王様が用意してくださったんだよ。もったいないよね」

 シルヴァはくるりと回って全身を見せた。丈夫な麻織物の上着、肌触りの良さそうなシャツ、短い丈のズボンに膝下までのブーツと、動きやすそうな旅装束ではあるが、それは男児用のものだとカインは言いかけて飲み込む。よく似合っているし、本人も気に入っているようだからいいのだろう。

「本当は、カイン様に買ってもらった服がよかったんだけど……」

「汚してしまったから仕方ないね。その方が上等だよ」

 やっぱり、乙女心がわかっていない。シルヴァはぷんと頬を膨らませて、カインの胸元に額を寄せた。

「……」

「……」

 期待しても、抱きしめてくれることも、髪を撫でてくれることもない。諦めて離れると、カインはじっと自分の手を見つめていた。

「……手に砂糖がついていてね」

「え? あ!」

 そうだ、上着にも砂糖をこぼしていた。シルヴァはあわてて前髪を払う。

「もう、カイン様なんて嫌い」

「そうか」

「うそ、大好き」

「はは」

 軽く笑われ、冗談として受け流されてしまった。シルヴァも、無理に笑ってみせる。

 本当の気持ちを伝えられない二人の間に、春の風が吹き抜ける。もどかしそうに、ため息をさらって。

 時間となり、近衛隊長ニコラス・ノイエンが大広間に来るようにと告げにきた。

 城下の賑わいが嘘のようにきんと張りつめた静寂、整然と並んだ臣下たちはうやうやしく黄金の王に膝を折る。王座では国王フラン・ヨエル・ウェーザーが優雅にほほ笑み、その隣では少し疲れた様子の王妃アナベル・ヴァッシュが神妙な面持ちで二人を迎えた。

 いよいよ別れの時だ。シルヴァはぎゅっと瞳を閉じて泣くのを堪える。

「お待たせしました、黄金の王と運命の乙女。さあ、約束を果たしましょう」

 フランは宣言し、しゃらんと銀の王杖を鳴らし、アナベルとともに姿勢を正した。大臣たちも息を呑む。

「はるか昔、賢王アレンの遺された御言葉に従い、黄金の王に王位をお返しします」

 何のことだとシルヴァは首をかしげた。遠見の術で、仲間の居場所を教えてくれるのではなかったのか。

 シルヴァの疑問を他所に、儀式は続く。

 フランが王座を降り、差し出される王杖。

 いくつものため息がこぼれた。フランを擁立した一派は落胆し、カノンを推す一派は頭を抱え、王制を廃止したい一派はカインを睨みつける。

 だが、地位を失うはずのフランとアナベルだけは全てを覚悟し、強い意志を宿した瞳でカインとシルヴァに向き合う。

 カインはやれやれと肩をすくめ、短く言い放った。

「断る」

 思いもよらぬ返答に、一同は耳を疑う。五百年もの間、どれほど大切に語り継がれてきたことか。それをいとも簡単に否定するなど。

「そもそも俺は、とっくに存在しないはずなんだ。今さら国政に関わる気はないよ。民だって、さんざん嫌った俺を国王だなんて認めはしないだろう」

 それに、と隣を見る。視線を感じ、シルヴァは身体を強張らせた。

「無関係の娘を巻き込むな」

 胸がずきりと痛む。

 出会ったのはただの偶然、本来ならば触れることはおろか口を利くことすらできないほど遠い存在。何度も自分に言い聞かせているのに。

 シルヴァはうつむいたまま、ただくちびるを噛んで全てが終わるのを待った。

 国王フランがふと表情を緩める。

「あなたはどう思っているのですか。賢王が予言した、運命の乙女と同じ瞳の娘よ」

「……」

 言葉の代わりにあふれた滴が、一つ二つと赤い絨毯にしみを作る。

 こんな稀有な瞳の色でなければ、期待することもなかった。なぜ、賢王の夢など見たのだろう。いっそ出会わなければ……否!

「わ……私は、何も持たない、ただの流浪の民で、とても世界を救うことなどできませんが……」

「世界を救う?」

 フランがわざととぼけた口調で聞き返した。しまったと、カインは眉をひそめる。

「世界を救うとは、何のことでしょう?」

「え?」

 顔を上げると、そこには国王のあの意地悪な笑み。何もかもを見透かしているような。

「ふふ。どうぞ、続けて」

「あ、えっと……その、カイン様のおそばで、お手伝いができれば、と……」

 なるほど、とうなずくが、きっと知っていたに違いない。かの賢王アレンの血を引く者だ、遠見の術か先見の術か、覗き見することなど造作もない。

 カインの視線が揺らぐ。もはや下手な嘘ではごまかしきれない。懐疑的な碧色の瞳がじっと見つめている。さて、どうしたものか。

「優しくて勇敢な娘よ、私はあなたこそが運命の乙女ではないかと思うのですが。ねえ、カイン様?」

「ん……どうだろうね」

 嫌なやり方だ。皆が見ている前で、言い逃れもできない。カインは舌打ちしてフランを睨みつけた。

「そろそろ、本当のことを告白なさってはいかがです?」

「しかし、俺は……」

「全ての人々を幸せにするとおっしゃる方が、娘一人も幸せにできないのですか」

 そよそよとうなずくように、突風が木々を揺らす。燭台の火は激しく燃え、鼓舞しているのか。地鳴りかと思うほどの轟音は、どうやら頭の奥に響く自身の鼓動らしい。

 このままでは、精霊を乱して王都を壊滅させかねない。

 カインは瞳を閉じ、大きくため息をついた。その程度ではとうてい気持ちは鎮まらなかったが、ぐっと奥歯を噛み、意を決してシルヴァの手を取り、跪く。

「……かつて弟アレンが予言した黒髪碧眼の運命の乙女よ、俺はおまえに会うために生きてきた。どうか……俺とともに生きてくれないか」

「……」

 いったい何を言われたのか理解できずに、シルヴァはぽかんと口を開けてカインを見下ろしている。カインは苛立たしげに髪をかきむしり、とても愛の告白とは思えないほど乱暴に言い放った。

「俺は、アレンが予言で見せた女性に一目ぼれしていたんだよ。思っていたのとずいぶん違うがね。まあ、見た目なんてどうとでもなる。おまえが俺でいいのなら、そばにいろ」

「えっと、あの……え、なに? 私が、えっと……」

「俺の運命の乙女なんだよ!」

 どうせ抗えぬ運命ならば、つまらない嘘などつかなければよかった。嫌な想いをさせることもなかったのに。

「……すまんね、おまえを不幸にしたくないと思ったんだ」

「じゃあ、私、カイン様のこと、好きでいてもいいの? ずっとそばにいられるの?」

 照れ隠しか、不貞腐れた顔のままうなずく。と、同時に、シルヴァは飛びつくようにしてカインの首筋にしがみついた。

 鼻先をくすぐる黒髪から太陽の匂いがする。しかと抱きしめ、やわらかな温もりを確かめた。もう離すものか。

 一同はほっと息をつく。まったく、見せつけてくれる。

「五百年前、賢王は全ての災厄を引き受けて姿を消されたカイン様の代わりに即位し、いつか運命の乙女と出会い城に戻られたら王位をお返しすると誓われました。今こそその誓いを果たす時だと思ったのですが」

 当の本人にきっぱりと断られてしまった。全くの想定外だ。

 フランは困りながらもどこか楽しげに笑い、ニコラスを呼びつけて何やら指示を出す。ニコラスはやれやれと肩をすくめ、控室に下がった。

「運命の乙女、シルヴァよ。王家のいざこざに巻き込んでしまったお詫びと、アナベルを助けようとしてくれたお礼をしましょう。受け取ってください」

 戻ったニコラスが一振りの剣と書状を差し出す。フランはそれを受け取り、手ずからシルヴァに授けた。

「シルヴァ、あなたに市民権と騎士の称号を与えます。これよりシルヴァ・ミントと名乗り、カイン様をしっかりお守りするように」

 驚いたのはシルヴァだけではない。何を言い出すのだとカインは目くじらを立てた。

「市民権はいいとして、なぜ騎士の称号など。俺はこいつを危険なめに合わせたくないんだ」

「ふふ。いえ、昨夜の軍服がよく似合っていたので」

 そんなくだらない理由で、冗談じゃないとカインは剣を取り上げようとした。しかしシルヴァは頬を紅潮させ、カインを差し置き、まっすぐな瞳で宣言する。

「ありがとうございます、国王様! 私、必ずカイン様をお守りして、幸せにします!」

 明るく元気な声に、みな顔をほころばせた。この小さな娘がいる限り、黄金の王の心は静穏に、そしてそれはきっと救世の力となるだろう。

 ただ一人、カインだけは不服そうに鼻を鳴らした。

「ふん。俺がおまえを守り、幸せにするんだよ」


     *   *   *


 渡る風が薄い雲を流し、穏やかな日差しが降り注ぐ中、木々は若い枝葉を広げ、鳥たちの歌が機嫌よくくり返される。

 城門がゆっくりと開き、群衆に見送られて王都を旅立つ一頭の軍馬。背には長い金髪を無造作に束ねた美青年と、その腕に抱かれた少年……いや、少年のような恰好をした少女が笑っている。

「ね、カイン様。私、自分で馬に乗れるよ?」

「……俺がこうしていたいんだよ」

 耳元でささやかれ、顔から火が出るかと思うほど熱くなる。

「そんなに緊張するな。俺だってこういうことには慣れていないんだ」

 ちらりと垣間見た美しい顔は、やはりほんのり赤い。シルヴァは広い胸に額をすり寄せた。ああ、同じだ、鼓動が早い。

「あは。ね、カイン様。カイン様が全てのひとを幸せにするみたいに、私はカイン様を幸せにするからね」

 五百年の孤独を生きた彼に、五百年分の愛をあげよう。

 優しい風が二人を包む。

 丁寧に敷き詰められた石畳、揺れる花が導くその先には、輝く未来が待っているだろう。

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happiness 長原 絵美子 @hinomaruichigo

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