絶対絶命

  金色の

  月のさやけき いと高く

  流るる時に 身をゆだね

  愛しかのひと いまいづこ

  願い叶えよ……


 遠く、近く、どこからか聞こえる古い伝え唄。抑揚のないとつとつとした歌い方が、かえって胸にしみる。

 ああ、またあの夢だ。

 ふわりふわりと舞う色とりどりの光に囲まれる美しいひと、なぜ泣いているの?

 形のよいくちびるがゆっくりと動く。


  た・す・け・て


 どうしたの? 何がつらいの?

 心配しないで。私はここにいるよ。どこへもいかない。だから……

「泣かないで、カイン様」

 暗闇の中に淡い輝きを放つ金髪。見下ろす金瞳にはいつもの強さがない。泣き出しそうな美青年を案じるように、周囲を漂う光の粒はウェーザーの精霊たちだろうか。

「えっと……あれ? 私、どうしたんだっけ?」

 夢の中に出てきた美しいひとと、目の前のカインが重なり混乱する。

 耳が痛くなるほどの静寂、あのせつない恋歌も夢だったのか。もっと聞いていたかったのに。

「よかった……気が付いて……」

 頬を撫でる大きな手が震えている。何をそんなに怯えているのだろう。

 次第に目が慣れ、周囲の状況が明らかになった。

 倒れた柱、折れた梁、手を伸ばせば届きそうなほど近い天井、亀裂の入った壁はきしきしと音を立て、いつ崩れてもおかしくない。

「……なに、これ」

 長い金髪の向こうに、落ちた照明具。だらしなくはだけたシャツが赤く濡れている。

「カイン様、怪我してるの!」

 起き上がろうと力を込めると、カインが顔をしかめて低く呻いた。

「……俺は大丈夫だ」

「え?」

 覆いかぶさるカインの身体に隠された左腕の感覚が、ない。

 照明具の金属片が刺さり、瓦礫につぶされたのは、シルヴァの腕だった。

「う……あ、ああ……ああっ!」

「大丈夫だ。じきに助けが来る。カノンの治癒魔法ですぐに治るから、大丈夫だ。それまで、俺が痛みを引き受けるから……!」

 あまりの恐怖にがくがくと震えるシルヴァをきつく抱きしめる。くちづけるように耳元でささやき、こぼれる涙を舐めとった。

「そう、いい子だ。大丈夫だから。ゆっくり息を吸って、吐いて……痛むところはないね?」

「く……ふ、うう……」

 言われたとおりに呼吸を整えようと喘ぐ。救いを求めて彷徨う右手がカインのシャツにしがみついた。

「なん……で? 何が……?」

 機嫌よく枕元に菓子を並べ、甘い果実酒を舐めながら楽しい話をしようと言ったのはつい今のこと。ささやかな幸せを奪ったのはいったい誰だ。

「すまん……」

 カインはぐっと歯を食いしばった。

「これも、王妃様の呪い……?」

「ちがう」

「じゃあ、私がキスしたから、神様が……」

「ちがうんだ」

 シルヴァはもう気付いている。

 これが、災厄の王、不吉の王と呼ばれ忌み嫌われる、カインの力なのだ。幾度か大都市を壊滅させ、ウェーザー中を震撼させたという……

「あは……まさか。こんなの、ただの人間にできるはずないじゃない」

 目の当たりにしてさえ、なお信じられなかった。

「きっと、建物が古くなっていたからだよね。運が悪かった……ね」

 シルヴァは思い出す。あの時、解呪に失敗した時にカノンが言ったことを。

「偶然……そう、偶然だよ」

「いや。俺が心を乱したせいで、精霊たちが混乱したんだ」

 静かに見つめる金瞳の奥に、怒り、悲しみ、そして絶望が宿る。しかしカインはそれらを隠し、平静を装った。

「まいったね。また、みんなに叱られる」

 泣きそうな顔でほほ笑むのが痛ましい。

 シルヴァは一度目を閉じ、気持ちを落ち着かせた。

 左腕に意識を集中してみる。確かに痛みはない。だが、それでは傷の具合がわからなかった。

「ね、カイン様。私、どんな怪我してるの? 応急処置をしたいんだけど」

 カインは驚く。よく訓練された兵士たちでさえ錯乱するほどのひどい状況なのに、なぜそんなに冷静でいられるのか。

「あは。だって私、薬師だもん。医術の心得だってあるんだから」

 それに、と身代わりになってくれたカインの腕に触れる。

「カイン様がいてくれるから。なんだか大丈夫な気がして」

「……」

 俺がいなければ、こんなことにはならなかったのに。言いかけて呑み込み、卑怯者とため息をついた。

 手当をするために身体をどけようとするが、倒れた柱が邪魔で動けない。つくづく自分の存在が嫌になる。

「……痛みからすると、骨折と裂傷だろうね。腱は無事だと思う」

「そんなの引き受けてくれて……ごめんね、痛いよね」

「俺はいいんだよ。痛みで死ぬことがないからね。何か薬はあるかい?」

「血止めと、痛み止めと、熱さましくらいかな」

「優秀だ」

 シルヴァはにっこり笑って腰に付けた小物入れを探った。取り出した包みに描かれたしるしを確認し、中の丸薬を飲み込む。

「うえ……にが……」

 顔をしかめるシルヴァの口に、カインは落ちていた砂糖菓子をつまみ入れてやる。突然の甘味に目を丸くし、そしてうっとりと味わった。

「酒もあるよ。飲ませてやろうか」

 果実酒の瓶を振り、栓を抜いて一口含み、ゆっくりとくちびるを近付ける。

「……っ! ……っ!」

 シルヴァは真っ赤になって抵抗した。あと少しで触れるというところで止め、ごくりと飲み込む。

「冗談だよ」

「や、やだ、びっくりして、よけいに血が出ちゃう……」

 心臓は早鐘のように鳴り、全身の血液が沸騰してしまうのではないかと思うほど熱い。視線をそらし、息を整えようとする仕草はまるで色気がなく、カインはふむとうなずいた。

「もしかして、おまえ、まだ客をとったことがないね?」

「え? あ、うん。姐さんたちが、あんたはまだ早いって……」

「なるほどね」

 生きるためとはいえ、神の教えに背くのは辛かっただろうと思っていたが、そういうことか。どうやら何をするのかも知らなさそうだ。カインは妙に嬉しくなり、くすくすと笑った。

「ね、カイン様」

「ん?」

「どうしよう……胸が苦しいよ」

「え?」

 潤んだ碧眼は艶っぽく、震えるくちびるから吐息がこぼれる。

 しくじったとカインは舌打ちした。触れ合うところがシルヴァと同じ温度になる。カイン自身もまた、それほど経験が豊かではないのだ。どうしてこの場をやりすごそうか。

 静寂に、ただ二人の鼓動だけが響く。

「ね……カイン様……」

「……ん」

 細い指がシャツの胸元をなぞり、いよいよ息ができない。

 非常に、まずい。

 これは求めているのか否か。奪っていいのか悪いのか……いや、彼女は怪我人だ、それどころではない。

「カイン様……王妃様の指輪、ちょうだい」

「な……!」

 弾けるように飛び起きたせいで、低くなった天井に嫌というほど頭を打ちつけた。一瞬、目の前が暗くなる。

「……」

「大丈夫?」

 言葉が出ない。まんまと騙された。まったく、女というのは恐ろしい。

「あは。ごめん。王妃様の指輪をもらったら、私も不死になれるかと思って」

 カインは一つ咳払いして気を取り直す。金瞳ににじむ涙は頭痛のせいだけではない。

「ん……どうだろうね。そうだとしても、これはやらんよ」

「え、私、死にたくないよ」

「言っただろう。不死になると、その日の姿のままになってしまうんだ」

 シルヴァはむっと眉をひそめてくちびるを尖らせた。

「そりゃ、私はちっとも女らしくないし、髪だって短いし……」

「そうじゃない」

 こぼれた銀の鎖をシャツの下に隠し、むくれるシルヴァの髪を撫でつけた。

「今、精霊と契約したら、二度と腕が治らなくなる」

「あ……」

 シルヴァは焦った。やはり薬だけではきちんと止血ができず、次第に意識が朦朧としてきているのだ。不死の秘術が得られるならば、片腕くらいと思ったのだが。どうにかして、早くこの窮地を脱しなければ。

「シルヴァ」

 カインはいつもの強気な瞳でシルヴァを見つめた。

「大丈夫だ。おまえは助かる。無事に救出されて、怪我もすぐに治る」

 なぜか一語一語が胸に響く。不思議なことに力がみなぎり、本当に大丈夫なように思えてきた。

「言霊というやつだ。いいか、信じろ。おまえは助かる。元気になって、必ず幸せになるんだ」

「……うん」

 幸せになる……それは何よりの祝福の言葉。何度も心の中でくり返す。気力を取り戻したシルヴァは決心した。

「ね、カイン様」

「ん?」

「さっき気を失ってるときに、また神様の……アレン様の夢を見たよ。泣きながら、カイン様を助けてって」

「俺を?」

「うん。ね、カイン様。全部ひとりで抱えて、苦しまないで。孤独だって悲しまないで。私、できることはなんだってするし、一座に戻ったあとも、カイン様のこと想い続けるから」

 シルヴァは指先でくるりと円を描いた。無秩序に浮かんでいた光たちが一つに集まる。

「だからカイン様、早くここを出よう」

 円の中に精霊文字を書き込み、精霊たちに指示を与える。光は輝きを増し、そよ風がカインの金髪を揺らした。

「これね、姐さんに教えてもらったんだよ。しつこい男を撃退するのにいいって。カイン様の力で、あんなに威力が出せるって知ってびっくりしたんだけど」

「何をする気だ」

「あは。私、待ってるのは性分じゃないんだよね」

 シルヴァは深く息を吸い、瞳を閉じる。

「……ウェーザーの十二の精霊たちより風を司る者、聖なる刃で輝ける未来を切り開け!」

 心得たと二人の周囲につむじ風が起こる。

 シルヴァは穏やかな瞳でカインを見つめ、すべてを託してくちづけた。

「お願い、カイン様」

 しかしカインは口を押えて首を振る。こんな狭い場所で魔力を解き放てば、シルヴァが無事なはずがない。これ以上、忌まわしい力で傷付けたくはなかった。

「大丈夫。あの銀髪の男の子も、怪我してなかったもん。カイン様と精霊たちを信じてるよ」

「……」

 力を持て余した風たちが、亀裂の入った壁を削る。このままではさらに崩壊は進み、かろうじて保たれた空間さえ埋もれてしまう。もはや迷っている時間はなかった。

 胸元に額をすり寄せるシルヴァをしっかり抱きしめ、カインは祈りを込めて魔力を解き放った。

《……疾風烈破!》

 数瞬の静寂ののち、幾千もの風の刃が瓦礫の山を切り開いた。

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