悪夢
……寒い。
背に当たる床はまるで氷のように、容赦なく体温を奪っていく。眠ってはいけないという気持ちと、いっそこのまま楽になればという気持ちが交錯した。
不意に、口の中に鉄の味が広がる。
耐え切れずむせ込み、現実に引き戻された。
起き上がる体力すらなく、ただ反射だけで口の中の物を吐き出す。空っぽの胃袋がひきちぎられそうなほど痛んだ。
「吐くな。飲め」
頭上から降る男の声。
やっとの思いで目を開けると、眼光の鋭い男がじっと顔を覗き込んでいた。唯一の親友ダグラス・ノイエンだ。頬はこけ、肌も髪もつやがない。
「……ダ……グ……?」
「しっかりしろ」
かびと埃の臭いがさらに吐き気を強くする。
冷たい石の床と壁、一面だけ太い鉄格子がはめられている、シラー城の地下牢。明かりといえば、地上へ続く階段を照らす小さな蝋燭のみ。
頭の中を整理しようと、前髪をかきあげる。が、顔にかかるほどの長さがないことを思い出した。捕らえられた時に短く刈り落とされたのだ。
「ああ、……がきれいだと言ってくれたのに」
「なんだって?」
「……」
愛しい名が、出てこない。
震える手を見つめた。
骨と皮ばかりになり、まるで生気などない。もう剣を握ることすらできないだろう。
その手で顔を覆った。
「夢でも見たのか?」
「夢……だったのか……」
ならばあまりにも残酷だ。
太陽のにおいのする黒髪、まっすぐ見つめる碧玉、名を呼ぶ声。抱きしめた温もりは、まだこの手に残っているのに。
「……苦しい。もう、耐えられない」
ダグラスは乾きかけた腕の傷を噛みちぎる。滴る血の量もずいぶん減ったような気がしたが、かまわずカインの口元に押し当てた。
「やめろ!」
「うるさい。黙って飲め」
「よせ……ちくしょう!」
地下牢につながれてから、もうひと月ほどになるだろうか。
昨夏の凶作のまま本格的な冬を迎えたシラーは、未だに食糧不足を解決できず、せっかく捕らえた敵国の王子とその護衛を尋問する余裕すらなかった。
飢えた民は暴動を起こし、政府は鎮圧と懐柔に追われ、いよいよ国庫も尽きようとしている。そのうえ流行り病が猛威をふるい、シラー国内は乱れに乱れた。
当然、捕虜にまで食事が行き渡るはずがなく、時折思い出したように固くなったパンの欠片が投げ込まれ、二人はそれで飢えをしのいでいた。
「あんたを死なすわけにはいかないんだ」
たとえこの血肉を喰らわせたとしても。
「まったく、あんたはいざって時に根性がないな」
ダグラスは馬乗りになり、一口でも飲み込むまで腕をのけようとしなかった。それを押し返すこともできず、苦しそうにもがく。
「ちくしょう……」
「もしあんたが死んだら、俺も後を追うぞ」
騎士として、主君を死なせてのうのうと生きていられるか。
俺のためにも、などと生温いことは言いたくないが、そういう言葉が効くとよく知っている。金瞳がきらりと光った。
「なあ……会いたいひとがいるんだろ?」
いい歳をして、予言だの運命だのを信じ、いまだに恋人の一人もいない。それほどに焦がれる女性に会えないままでいいのか。
「その姫にとっては、あんたが運命のひとってことだよな。あんたがいないと、黒髪碧眼の姫が幸せになれないぞ」
心が震える。
あの温もりが恋しい。
「ちくしょう……」
まだ、死ねない。
「とにかく、生きてウェーザーに帰ろう」
生きてさえいれば、こんな苦しみなどいずれ過去のことと忘れられるだろう。
親友に励まされ、気力を振り絞った。
手を合わせて、祈る。
その手を開くと、わずかな炎が浮かんだ。
故国から遠く離れた地でも、精霊たちの加護は変わりない。久しぶりに見る温かな光に、二人は勇気付けられた。
「ダグ、おまえ寒くないのか?」
「寒いに決まってるだろ!」
温暖な気候に慣れた身体に、シラーの冬は厳しすぎる。捕らえられた時に着ていた軍服だけで、毛布の一枚もない。たとえ小さな炎でも、ないよりずっといい。感謝して両手をかざした。
「あんた、まだこんな力が残っていたのか」
「魔力は心の強さによるからな。それに……父上の封印が解けている」
かつて、強すぎる力を案じた父がかけてくれたまじない。その効力が消えたといことは……
「勝ち戦だったのに」
ぐっと奥歯をかみしめる。心を平静に保たなければ。強すぎる力は、些細な心の乱れで精霊たちを惑わしてしまう。
不意をついたシラーの毒矢に射られた父王は、やはり助からなかった。
みな、無事に城に戻れただろうか。葬儀は済んだだろうか。喪が明け、アレンが即位するのは年明けか。
そう、時間を稼ぐために敵に堕ちたのは自分の意志だ。こんな所でくじけるわけにはいかない。
「火があるのはありがたい。いい加減、こいつを生で食うのは苦痛だったからな」
ダグラスは顔を歪めて笑った。
驚き、また込み上げてきた吐き気に堪えられず、火を浮かべる手を解こうとする。
「おっと、消すなよ」
ダグラスは乱暴に腕を掴んだ。それだけで折れてしまいそうなほど細い。
痛みと吐き気と嫌悪にカインは嗚咽をくり返す。
「おまえ……そんなものを食っていたのか!」
ダグラスはふんと鼻を鳴らし、カインをひねり上げたまま朽ちたベッドを蹴飛ばした。はがれ落ちた木片を拾い、慎重に火を移す。
これでしばらくは凍えることも、闇に心を捕われることもないだろう。
「あんたはどうする。こいつを食うか、俺の血を飲み続けるか」
すでに尋常ではないことはわかっていた。しかし、生きるためなのだ。
ダグラスは、痩せた鼠を差し出した。
「そんなもの食えるか!」
「そうか? ただの肉だぞ?」
表情も変えず、火の中に放り込む。
鬼とでも悪魔とでも呼べばいい。ただこの腑抜けな王子を生かして国に帰す使命を全うするのみ。
「ちくしょう……」
毒づき、カインは体を起こした。
「城に帰ったら、もう二度と肉は食わんからな」
焦げた肉片を口に押し込み、喉に詰まらせながらなんとか腹に納めた。
生きるんだ。
どこかで、あの黒髪碧眼の姫が待っているから。
ああ、なんという名だっただろう。
たしかに呼んだはずなのに。
……
……
……ァ
……ルヴァ
……シルヴァ
「シルヴァ!」
叫んだ声に驚き目を覚ます。
耳が痛くなるほどの静寂。乱れた呼吸音がやけに響く。背に伝う汗が気持ち悪い。
「……ちくしょう、スークめ。やってくれたな」
忘れたくても忘れられなかった記憶を、わざわざ再現してくれるとは。
耐えきれない胃の痛みに、鏡に映る顔は蒼白だ。
鏡?
いや、違う。
薄闇に浮かび、じっとこちらを見据えるのは褐色の瞳。
「アレ……ン……?」
懐かしいはずなのに、本能が恐れている。全身が強張り、うまく息ができない。
これは、まだ夢の続きだと自身に言い聞かせた。
「久しぶりだね……」
相変わらずの優雅な微笑をたたえ、アレンはそっと頬に触れる。その手に温もりはなく、無機質な冷たさに背筋が凍った。
「運命のひとに会えたんだ」
整えた爪が肌に食い込み、血がにじむ。
「嬉しい?」
聞くな。これは幻影だ。
「ずるいよ、カインだけ……」
言葉のナイフが容赦なく胸をえぐる。
そう、これは、いつも抱えていた罪悪感が見せる幻影。
「幸せ? なら、もう不死の身体はいらないね」
「アレン……?」
「精霊の契約は終わり。五百年使い続けたその身体に、時を戻すよ」
さらに深く爪を立て、皮膚をえぐった。
「アレン、俺は……」
血が流れる代わりに、さらさらと身体が崩れていく。手も足も痛む胸も、闇色の砂と化して、消えた。
やっと生きる希望を見つけたばかりなのに。
これで終わるのか。
あの愛しい娘を、孤独にするのか!
「……ッ!」
喉が裂けるほどの悲鳴を上げたのかもしれない。渇いた口の中に血の味がする。
これは、夢か、現実か。
かつてない恐怖に全身が震えている。
「……ヴァ、シル……ヴァ!」
しかし返事はない。
恐る恐る顔を上げた。
ほのかな明かりに照らされた広いベッドには……誰もいない。
「う……あ……シルヴァ、シルヴァ!」
叫ぶと同時に周囲が明滅する。静かな夜を裂く雷鳴が轟き、窓が揺れた。
廊下で短い悲鳴が上がり、ぱたぱたと足音が近づいてくる。
「びっくりした、急に雷が鳴るんだもん! わ、カイン様、どうしたの?」
息を切らせて部屋に転がり込んできたのは、短い黒髪の小柄な少女。驚き、大きな碧色の瞳を丸くしている。
「ね、大丈夫? 真っ青だよ?」
「……」
わからない。本物なのか、幻なのか。触れたら消えてしまうのではないか。あるいは怪物に変化して襲ってくるかもしれない。
……怖い。
「あ! もしかして、いやな夢を見……」
心配そうに駆け寄ろうとしたシルヴァが、動きを止めた。息を呑み、無理に笑うその視線の先に、愕然とする。
「そんな……俺は……!」
無意識のうちに、柄に手をかけていたのだ。何よりも大切なひとを、斬ろうとしたのか。
「あは。やだな、カイン様ったら寝ぼけて」
シルヴァは努めて明るく笑い飛ばし、カインの手に自分の手を重ねた。
「ごめんね、カイン様。私の身代わりになって、いやな夢を見たんだよね」
甘い香り、確かな温もり、疑うことなど何もないのに。
ふと息をついて緊張を解く。シルヴァはためらいがちに顔を上げ、少しだけ背伸びした。やわらかいくちびるが触れる。
「……」
「あは。気持ちを落ち着けるおまじない。これくらいなら、神様、許してくれるよね」
心臓が破裂するかと思った。なんと無邪気に、可愛らしく、罪なことを。
呆然と立ち尽くすカインの心に合わせて、季節外れの雷雨がぴたりと止んだ。それをからかい笑うように風たちがくすくすと木々を揺らす。冷静に、冷静にならなければ。
「ね、カイン様。私、もう眠くないから、一緒に朝まで起きていようよ。いっぱい、楽しい話をしよう」
照れくさそうに笑いながら、カインをベッドに座らせる。そしてテーブルを引き寄せ、貯蔵庫で見つけた菓子を広げた。
「あんず酒ももらってきたよ。きれいな色。カイン様の瞳みたい」
グラスのぶつかる音、甘い香り、あの少年だった頃の幸せな夜を思い出す。寝そべり、どの菓子から食べようかと迷う姿が、遠い記憶の弟と重なった。
カインは手の中でグラスを持て余し、ぽつりとつぶやく。
「……なぜアレンは、俺に予言を見せたのだろう」
知らなければ、王位に就き、他国の姫と結婚して子孫を残したのは、第一王子の自分だったはず。アレンは自由に生き、本当の運命の女性……この黒髪碧眼のシルヴァと結ばれることもできたのに。
「難しいことはよくわからないけど」
シルヴァは色とりどりの包み紙を並べる手を止め、にっこり笑った。
「きっと、そういう運命だったんじゃないかな」
「……」
「アレン様がカイン様に予言を見せたなら、アレン様はその運命を選んだんだと思う」
シルヴァは身体を起こし、カインの顔をじっと覗き込んだ。不思議な色の瞳に吸い込まれそうになる。
「占いが得意な姐さんが言ってたよ。運命にはいくつも分かれ道があって、みんな自分で選んでるんだよって。でも、そう選ぶ運命だったんだよって。あは。じゃあ、自分で選んでないよね。やっぱりよくわからないや」
大切にかばんにしまっていた紙片を取り出す。描かれているのは、運命の輪。その運命を信じて進んだのは彼女自身だ。正しいのか間違っているのかなどわからないが、どうしても引き返すことができないのなら進むのみと、美しい碧眼に強い意志を宿す。
カインは頭を抱えた。
五百年も悩み、迷い続けていたのに。じつはこんなに単純なことだったのか。
生まれついての髪と瞳の色以外、自身も、弟も、ひとに運命を押しつけられたことはない。全て、自分で選んできたのだ。
「どんな予言だったの?」
「ん……秘密だよ」
「ええ? 何それ、教えてよ」
シルヴァは興味津々に身を乗り出す。思わず話してしまいそうになり、あわてて視線をそらしてあんず酒をあおった。
「ね、何か迷ってるなら、占ってあげようか? 姐さんほどじゃないけど、私、占いもできるんだよ」
そう言いながら菓子の包み紙のしわを伸ばし、何やら図形を書き込む。カインは笑って、もう解決したよと答えた。
心は平穏に、ただ優しい時間が静かに過ぎていく。
たいして美人というわけでもないのに、なぜこれほど惹かれて止まないのだろう。長く生き、とっくに飽きていたはずが、今この瞬間だけは永遠に続けばいいのにと思った。
愛しさがこみ上げ、つい黒髪をそっと撫でる。
「あは。カイン様、あんず酒もっと飲む?」
「ん、もらうよ」
くるくるとよく動く小さな身体を見ていると、忘れていた感覚がよみがえる。そう、こうしてひとと話すのは楽しく、気遣ってもらうのはうれしい。
また独りになっても、覚えていられるだろうか。
いや、憂鬱なことを考えるのはよそう。注いでもらった酒をしみじみと味わった。
「……アレンは、弟は、幸せだったかね」
「だからウェーザーは、五百年も豊かで平和なんだと思うよ」
シラーの姫を愛し、子を愛し、国と民を愛していたからこそ、今のウェーザーがあるのだと、シルヴァはきっぱり言った。そして、それらは黄金の王によって、大切に守られていたのだと。
「ね、カイン様は幸せ?」
「俺が? なぜ?」
「だってカイン様は、全てのひとを幸せにするために、精霊たちと契約したんでしょ。だったら、カイン様も幸せにならないとだよね」
どきりと胸が高鳴る。全身を巡る血が熱く、くちびるが震えてうまく声が出せなかった。
「不幸では、ない……よ」
「あは。幸せなのと不幸じゃないのとは、全然違うよ。私は幸せ。カイン様と出会えて、こんなに近くで話せて……お別れしなきゃいけないのは悲しいけど、でも、カイン様が幸せでいられるように、ずっとお祈りしてるからね」
カインはぐっとシーツを握りしめ、抱きしめたい衝動をこらえた。離したくない。
「……あれ?」
先に異変に気付いたのはシルヴァだった。じっと窓の方を見つめる。
小刻みに揺れる窓枠、風の仕業か。いや、風はすでに止み、周辺はしんと静まりかえっている。
「もしかして、王妃様のいやがらせ?」
「いや、違う。これは……!」
不自然な軋みは次第に大きくなり、ついに窓に亀裂が走った。
「伏せろ!」
カインはシルヴァの腕を掴んで引き倒し、その上に覆いかぶさる。
次の瞬間、全てを飲み込む轟音とともに突き上げるような衝撃があり、意識が途切れた。
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