遠くなる故国

 明け方早くに目覚めたレオン・ボイド・ウェーザーは、一人で見張り台に立ち眼前に広がる平原を見渡した。自軍、敵軍ともすでに疲弊しきっている。いったいこの戦いに何の意味があるのだろう。

 例年にない長雨のせいで、もともと農耕に適さない山岳地帯のシラーではひどい不作となり、深刻な食糧不足に陥っていた。このまま冬を迎えたのでは、飢えと病で多数の死者を出すのは必至。備蓄に余裕のあるウェーザーはすぐに援助を申し出たが、シラー王は頑なに拒み、むしろ怒りと憎しみを増幅させた。

「シラー王よ、つまらない意地で民を苦しめるな……」

 ため息とともに吐き出された言葉は、風にかき消されかの地に届くことはなく。

 出兵するとなれば、莫大な金と食糧が必要となる。兵士として集められた者の大半は、働き盛りの男たち。資金を差し出し、働き手を取られた民の暮らしを思うと胸が痛んだ。

 平原を渡る風はすでに冷たく、あと数日のうちに本格的な冬となる。それまでにかたを付けたいのは双方同じ。シラー王さえ講和を受け入れれば、互いに穏やかな新年を迎えることができるものを。

「陛下、こちらにおいででしたか」

 自身とよく似た青年が隣に立つ。朝日を受けて眩しそうに細めた瞳は金色、ウェーザー第一王子カイン・トマ・ウェーザーだ。髪は目立たないように染めている。

「護衛もつけずにこんな見晴らしのいい場所に立っていては、敵に射てくれと言っているようなものですよ」

「まさか、この高さを射抜ける剛腕など……」

「油断は大敵。何度も身をもって教わりました」

 カインが白い歯を見せて笑うと、レオンも肩をすくめて苦笑した。

「……なぜ、シラーは圧倒的不利にもかかわらず、戦争をやめようとしないのでしょう?」

「さあな。国力が弱まり、外に敵を作ることで民の目をごまかしているのかもしれん」

 しかし、それでは誰も幸せになれない。国王たるもの、民の幸せを守らずして何を守ると言うのだ。

「今、アリーセをとったとしても、畑として耕し、実るのは早くて一年後。この冬を越すには間に合いません。それなら……」

「シラー王にも、何か考えがあるのだろう」

 敵の手は借りたくない、ましてや若輩の王に助けられるなど。同じ立場のものとして、わからなくもない。だが、カインは理解できないと眉をひそめた。それでいい。

「そろそろ朝の閲兵の時間だな」

 ため息をつく父王の顔が、ひどく疲れている。早く母と弟の待つ王都に戻り、熱い茶でも飲みながら休んでもらいたい。

 そのためにも、早急に決着をつけねば。

 力でねじ伏せることは容易だが、レオンはそれを望まなかった。両軍の被害を最小限にとどめ、できることなら平和的に解決することを願っている。

 もう一度大きくため息をつき、皆の待つ階下に降りようとした、その時に。

 ふと耳元をかすめる軽い音。

 驚いたカインが振り返るのと、レオンの身体が大きく撥ねるのが同時だった。

「……大事ない。そのまま、下へ」

 カインは平静を保ち、レオンの手を取り階段を降りる。外から完全に姿が見えない位置まで降りたことを確認し、レオンを抱えて走り出した。

「ハル、撤退だ! すぐに王都へ!」

 何事かと駆け寄る近衛隊長ハロルド・ノイエンは、一瞬にして全てを理解し、くちびるを戦慄かせた。

 カインの腕の中で青ざめる国王レオン・ボイド・ウェーザー、息が浅く、全身が小刻みに震えている。その背に深々と刺さった一本の矢。毒矢だ。

「すまない。俺がついていながら……!」

「殿下はご無事で?」

「あ、ああ」

 すぐに救護班が集まり、処置を施す。しかし、その間にもレオンの容態は悪化していった。脈が途切れがちになる。

「撤退はできません。今、ここを空けては、シラーは一気に攻め込んでくるでしょう」

 何のために長い戦いに耐え守ってきたのか。ハロルドは拳を固く握りしめ、瞳を閉じる。どうすればいい、敵に知られず、王都へ搬送するには……王都にさえ戻れば、魔法に長けた第二王子アレンが救ってくれるはず。

 なぜ、ここにいるのが、アレンではないのだ。こみ上げる黒い感情を、懸命に抑えた。

「俺が……俺が時間を稼ぐ。ハル、陛下を頼んだ」

「な、なりません! 殿下、あなたにまでもしものことがあれば」

「……アレンがいるじゃないか」

 カインは剣をとり、ほほ笑んだ。なぜ、ここにいるのが、アレンではなく自分なのか、自分にできることといえば。金瞳に強い意志が宿る。

「いけません! ちくしょう、あの馬鹿王子……ダグラス、殿下をお守りしろ!」

 言うより早く、ハロルドの息子ダグラス・ノイエンは親友の背を追い、部屋を飛び出していた。

 朝露に濡れる草が日に照らされきらきらと輝く。戦争さえなければ、道が整備され、建物が連なり、国境の街としてウェーザーとシラーの人々が行き交い賑わうだろう。あるいは麦の穂が揺れ、たわわに実る果実が旅人を満たすかもしれない。

 良い土地だ。

 カインはいつか思い描く平和が訪れることを祈り、馬を進めた。

 平原の向こうの陣営がざわりと色めき立つ。単騎現れた敵軍近衛隊旗を携えた騎士、討ちとればなかなかの手柄になる。我こそはと腕に覚えのあるものが前に出た。

 勇ましく鎧兜で固めているが、軍人にしては小柄なカインを見て、シラー兵はなめられたものだと鼻を鳴らす。長槍を構え、一撃で仕留めんと猛進した。

 金属のぶつかる音が天に響き、確かな手応えを感じる。得たりとふり向くが、見かけによらず頑強で、落馬するには至らず。すでに体勢を整え次に備えているではないか。

『ならば剣で決着を!』

 槍を捨て剣を抜くと、望むところとカインも剣を抜き下馬した。

 両軍が見守る中、にらみ合いが続く。

 余興のつもりかとたかを括っていたが、この気迫、どうやら本気と察して迂闊に踏み込めない。高まる緊張感、先に動くべきか、相手が出るのを待つべきか。

「どうした。来ないなら、こちらから行くぞ!」

 若い。まだ少年かとも錯覚させるほどはりのある声、地を蹴り、迷いなく斬りかかる剣筋は正確で、見くびったことを後悔した。受け止めるのが精一杯、反撃の余地がない。

 次第に腕がしびれ、押され気味になる。だが、決め手に欠けるのは技術がたりないのか、否、その瞳には余裕さえうかがえる。のらりくらりとした剣撃は、そうか、わざと試合を引き延ばしているのだ。

 シラー兵は激昂し、渾身の力でカインの剣を押し返した。それを合図に、シラー陣営から次々と矢が放たれる。

「ちくしょう、卑怯だぞ!」

 脇に控えていたダグラスが、カインの盾となるべく躍り出た。大剣を軽々と振り回し、雨のように降る矢を払い落とす。その隙に、カインも自分の馬を呼び寄せた。

 どれほどの時間が稼げたか定かではないが、これ以上の深入りは危険だ。退却しようと踵を返すが、みすみす見逃すほどシラー軍も甘くない。

 たった二騎を捕らえるために、総力を挙げて追撃する。

「……ダグ、なぜ来た」

「親父の命令だ」

「ばかだな。帰れんぞ」

「帰るさ」

 たとえこの命と引き換えにしても、と言いたいところだが、面倒な性格の親友殿はきっと許さない。二人揃って帰還せねば。

 あと少しで自軍陣営というところで完全に包囲され、カインは剣を捨て馬を降りた。仕方なくダグラスもそれに倣う。

 シラー兵は縄をかけて兜をとり、息を呑んだ。あらわになったその顔の、なんと美しいこと。

『女……?』

『い、いや、そんなはずは……』

 あの豪剣の騎士が女であるはずがない。

『おまえ、名は?』

「カイン・トマ・ウェーザー」

 まっすぐに見返す金瞳。討ち合ったシラー兵はもちろん、捕らえたものも矢を放ったものも、全員が戦慄した。

『う、嘘を申すな! ウェーザーの第一王子は金髪だ!』

 しかし彼らに真偽を確かめる術もなく。ただ厳重に見張り、首都に連行して王の前に差し出すのみ。

 そしてもし本当にウェーザー第一王子ならば、手柄どころの騒ぎではない。尋問してウェーザーの内情を知ることも、高額の身代金を要求することもできる。いったいどれほどの恩賞が出るだろう。慎重にならねばと思うものの、彼らは内心浮かれた。

 アリーセの砦からウェーザーの旗が降ろされる。カイン達が捕らえられると同時に、ウェーザー軍はアリーセの砦を明け渡した。

「大丈夫だ。ふもとまでは一本道。すでに新しい防衛線を築いているだろう」

 カインは穏やかにほほ笑み、遠くなる故国をしかと目に焼き付けた。

 ウェーザー軍が去ったあとの砦に、食糧や医療品が残されていたのが、彼らの情けだとも気付かぬほどに、シラーは飢えていた。

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