Episode3 【J】の烙印
ガサ…ガサ…
草木を踏み分ける鈍い音が聞こえる。
軋む音と共にゆっくりと開く扉にエルオーデは静かに息を飲んだ。
「エルオーデ?あなたなの?」
「母さん…」震える小さな声でエルオーデは答えた。
「ああ…大変、何があったの?誰にやられたの」リズはすかさずジャンに駆け寄り、息があるのを確認しエルオーデに言った。「守衛を呼んできなさい。急いで」
草木をかき分け屋敷へと急ぐ。
「なに…?」
途中のうっすらとした森の中に、ひとり佇む女を見た気がした。しかし、もう一度視線を送るが女はいない。気のせいだと思い、エルオーデは守衛を数人連れ小屋へ戻り、ジャンを屋敷の一室へと運び込むとリズは手慣れた様子で手当てをはじめた。そこへ、マクイナスが何事かと言わんばかりに部屋に飛び込んできた。
「こいつは面倒事ばかり起こす!だからあの時言ったのだ!」マクイナスの罵声が屋敷中にこだまする。
リズはマクイナスを一瞥すると、ジャンの手当てに再び手を動かした。
数時間後―。
静かな屋敷に恐ろしい悲鳴が轟く。
「やめろ!やめてくれえ!」
突然の出来事に驚いたマクイナスは悲鳴のする方へと急ぎ向かった。
壁に広がる真っ赤な鮮血。床に散らばるバラバラになった人の身体。苦悶の表情をした男の首を持つ血に染まった小さな手。
「お前…何をした!?」
目の前には胸に焼け付いた【J】の文字。そして、不敵な笑みを浮かべるジャンの姿。
「ジャン!」エルオーデがマクイナスの後方から青ざめた顔で叫ぶ。
「何をしたの!その首は!?ジャンがやったの!?」声にならない声で必死に呼びかけるそ姿を見て、ジャンは言った。「そうだよ。僕がこの男を殺したんだ。すごいでしょ?」返り血を浴びた顔で自慢げに話す様子を見てマクイナスは激怒し、近くにあった大振りの斧を手に取ると、ジャンに飛びかかった。
「父さん!やめて!」
息子の声に耳を貸さず、思いきり振りかざされた斧はまっすぐにジャンへ向かった。
「やめたほうがいいよ?おじさん」冷静なその声にマクイナスは身動きが取れなくなった。
抵抗できない力に身体は悲鳴をあげるように妙に捻れていく。全身の筋肉が裂け、骨が折れていく音が周囲を包む。「が…こんなことが…有り得ない…」苦しみに耐える声が、苦悶に満ちる顔がエルオーデの瞳に焼け付く。
「おじさん、海に流してほしい?それともここで殺されたい?」
大きな身体は止まることなく鈍い音をたてながら捻れていく。
「なんてこと…」リズが真っ青な顔で言った。
ジャンはエルオーデとリズの顔を舐めるように見ると、マクイナスの握っている斧を取り上げ、重い刃を思いきり振りかぶった。
父の頭部が身体を離れ、ドサリと床に落ちた―。
なにもない存在しない、白く塗りつぶされた空間。私の前に女性と子供がこちらを見つめ力無く佇んでいる。ゆっくりと私に向け指を指す。
「…あなたが殺した」
その言葉が指す意味を理解出来ずにゆっくりと時間が過ぎていく。
「あなたは苦しみの底へと沈む…マレウス…」
マレウス…。私の瞳をまっすぐ見つめ呟く。
ゆっくりと瞬きをする。そこは黒に支配された空間。
「おかえり」
聞き慣れた声。いつも夢に出てくる謎の男の声。
「懐かしいな。昔の事がついさっきの事みたいに感じる」
ジャヌの言葉に私は応じなかった。頭の中を誰かに掻き乱されているように、様々な記憶が走馬灯のように駆け巡り、言葉を発することができなかった。
呆然とする私の前でジャヌはローブを脱ぎ捨て、胸元を開いた。
深く焼き付けられた【J】の烙印。
私は無理に言葉をひねり出した。「お前が…」
ジャヌはニヤリと顔を緩めた。
「そうだ。俺がジャンだ」
力無く尋ねる。
「お前が見せたのか…あれは…」頭の中を駆け巡っていた走馬灯は徐々に薄れていく。思考が戻り、意識がはっきりとしてくるのがわかった。
「ああ、その通りだ。お前はそろそろ思い出さなければならない。全てをな」
「思い出す…?いったい何を…」私の言葉を遮るようにジャヌは言う。
「言ったろう。お前がここに来るたびに俺は濃くなると。俺を存在させるにはお前の記憶が必要なんだ。その為ならなんだって見せてやる」
なぜ今になってあんなものを見せるのか。もっと早い段階でも良かったはずだと、疑問を抱きながら私は沈黙する。
ここへ来てはダメ―…
暗闇の奥からぼんやりと聞こえる透き通るような高い声。
「…邪魔が入ったようだ。また会おう、マレウス」
そう言い残し、深い闇へとジャヌは姿を消すと、辺り一面に風が吹き荒れる。全てを拐ってしまうほどの激しい突風が周囲を容赦なく飲み込んでいく。
闇を打ち払うかのような眩しい光。緑豊かな木々が生い茂る森の中。新鮮な空気が肺を満たし、身体に染まった闇を洗い流す。
「今度はなんだ…。ここは一体…」
初めて訪れる清らかなその場所は、不思議と身体に溜まった疲れを癒してくれる。
「おい」
突然後方から聞こえた男の声に私は素早く振り向いた。
そこには汚らしい衣服を身に纏った一人の男がいた。
「森を抜け、西にある古城へ向かえ」
男の突拍子もない言葉に、私は呆気に取られた。その場に沈黙が流れる。そして男は再び口を開いた。「西の古城へ向かえ。わかったのか?」
その問いかけに、私は静かに応じた。「お前は誰だ?ここはなんだ?」
男は首を横に振りながら答えた。「当然の疑問だ。だが、その質問には答えられない。西の古城、確かに伝えたぞ」男はボサッと言うと森の中へ消えていった。
私は男を引き止める事もなく、ただ去っていくのを見ていた。
「西…」私は力無く呟く。
ここが何処であの男が何者なのか。伝えたとはどういうことか、ただ考えていた。
この世界は夢なのか、あるいは別の何かなのか、いくら考えても答えは出ない。ただこれだけははっきりしていた。
これは、現実ではない。
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