Episode2 外れる鍵
「エルオーデ!いるんでしょ?遊ぼうよ!エルオーデ!」
目の前に見知らぬ風景が広がる。
白く大きな、まるで古城のような建物の前で少年が声を上げ叫んでいる。
エルオーデ、エルオーデ、その声はどこまでも響き渡っている。
それに応えようと、建物からもうひとりの少年が顔を覗かせる。
「ジャン!ちょっと待ってて!今行くから!」
返事から数分経ったが、少年はまだ姿をみせない。
しばらくすると、建物の入り口あたりにある小さな扉から男が出てきた。守衛だろうか、男が少年に向かいのろのろと近づいた。
「今日はどこに行くのです?あまり遠くに行ってはなりません」
男の問いに少年は一瞥し、声を荒げた。
「わかってるよ!ところであいつ、遅いね」
「エルオーデ様は多忙な方なので」
男はムスッとした顔でぼやくと、建物の奥から少年が勢いよく走ってきた。
「ごめん、遅くなって」
「遅いよ!どれだけ待ったか!じゃあ、行こうか!」
ふたりの少年は勢いよく駆け出し、海がある方へ風を切りながら精一杯に走る。
草原を駆け抜け、大きな岩が犇めく海岸近くにある森を身軽に通り抜け、やがてふたりは視界いっぱいに広がる青々とした大海原の前にいた。
「はぁ…はぁ…ねぇジャン、ここになにがあるの?」
エルオーデは息を整えながらジャンに尋ねた。
「この近くに誰にも知られてない洞窟があるんだ。そこを僕たちの秘密の場所にしよう」
ふたりの少年は、自分たちだけの秘密ができたことに、喜びと興奮に溢れていた。
「そういえば、君と出会ったのもこの海岸だったね」
エルオーデは静かに呟き、永遠に広がる大空を見上げた。
「ジャン、君はどこから来たのかまだ思い出せないの?」
エルオーデの問いに、ジャンは深く息を吐き、ゆっくりと口をひらく。
「まだなにも…。僕の本当の名前だって思い出せない。でもいいんだ、君が名前と居場所をくれたから。僕の名前はジャンで、確かにここに存在してる!」
満面の笑みでジャンは答えた。
ふたりが出会ったのは数カ月前、エルオーデが護衛を連れて海へ釣りに出ている時、海岸に打ち上げられている少年を見つけたのがきっかけだった。エルオーデは少年を連れ帰り、寝る間も惜しんでめんどうをみた。エルオーデがここまでするのには二つの理由があった。
エルオーデは貴族の生まれで父、マクイナス・バンシュタインの方針で、同じ年頃の子供たちとの交流を禁止していた。その理由は誰にもわからなかったが、父は頑なにそれを守らせた。更に、エルオーデの住居は、誰も近づかない切り立った崖の上にあり、人との交流がほとんどない環境で育ち、友と呼べる存在が一切いなかった。
そして、連れ帰った少年を受け入れるのを父は断固として認めず、少年を海へ流すと言った。
エルオーデはそれに猛反発し、母親のリズ・バンシュタインへ助けを求めた。母は、少年を迎え入れるのならば、家からほど近くにある粗末な小屋に住まわせるという提案をし、マクイナスはそれをしぶしぶ了承した。こうして少年はバンシュタイン家に迎えられることとなった。
少年が目を覚ましたのはそれから数週間後のことだった。
少年の悲しげな真っ赤な瞳に、エルオーデは引き込まれた。
目を覚ました少年の瞳を見るや、マクイナスは声を大きく荒げた。
「悪魔の子だ!」
リズは沈黙を守り、冷静に少年を見つめている。
大声をあげるマクイナスを横目に、エルオーデは少年に一言尋ねた。
「言葉はわかる?」
少年は力無く頷いた。
「この子供をこの家から出せ!今すぐにだ!」
マクイナスの怒声を耳にした守衛らが勢いよく部屋に飛び込んできた。それを見ていたリズが遂に沈黙を破った。
「いい加減になさい!何もわからない子に出て行けと言うのですか!のたれ死ねと言うのですか!あなたはいつから心に悪魔を飼っているのですか!?」
突然の罵声にマクイナスと守衛らは口を噤むと後ずさりした。
母の初めて見せる姿にエルオーデは呆気にとられ、一呼吸置いてから少年に尋ねた。
「名前も、わからないの?」
その問いに少年はゆっくりとうなだれ、頭を縦に振った。
少年の悲しげにうなだれる姿をまっすぐ見つめて、エルオーデは考え込む。そしてしばらくしてからこう告げる。「じゃあ、君の名前は…ジャン、ジャンって呼ぶよ」
不思議そうに見つめる赤い瞳。そして少年は呟く。「ジャン…ジャン…」
この世界で古くから聖なる花と知られ、神々の落し物と言われる真紅の花【ジャン・ルナール】から取ったものだった。
それから数ヶ月、ふたりはまるで兄弟かのように接し合い、今に至る。
「なにかあったら、ここで待ち合わせよう」ジャンの生き生きとした瞳は、数ヶ月前とは比べものにならないほどだった。
エルオーデは力強く頷いた。
それから数日後、ふたりは屋敷から数分ほど離れた石造りの小さな小屋にいた。
「これ、何に使うのかな?」
ジャンは床一面に犇めき合う物の中からひとつの焼きごてを拾い上げた。
【J】と刻まれた酷く錆びついたその焼きごては何に使われたものだろうか、ひんやりとした空気を醸し出しているようだった。
それを見たエルオーデは部屋の隅にある暖炉をちらりと見た。「それ、つかってみようよ」と好奇心をみせながら呟く。ジャンは薪木を、エルオーデは火種を見つけ、煤だらけの暖炉に火を注いだ。ゆらゆらと揺らめく炎が、ジャンとエルオーデの顔を火照らせる。
赤々と色付いた焼きごて手に取り、エルオーデは小走りにジャンに駆け寄る。その時、部屋中に散乱する物に足を取られ、ジャンめがけて勢いよく倒れこんだ。
「ああぁ!」
静寂を切り裂く叫びが瞬く間にあたりを包み込む。
焼きごてはジャンの胸を押し付け、どす黒い煙を吹き上げる。
「ああ…そんな…」小さな身体が恐怖と混乱が支配する。エルオーデはジャンの胸に焼きつく焼きごてをの引き剥がし、怯えきった声で言う。「ああ…ああ…僕はなんてことを…」
エルオーデはどうしたらよいか分からず、震える足でその場に立ちすくんでいた。
ジャンは意識が遠のいていくのを感じながら、激しい痛みと熱さに悶え苦しむ。
―ジャヌ…
苦痛が支配する頭の中で微かに女性の声を聞いた。
―あなたよ…
その声はぼんやりと、ゆっくりと近づいてくる。
―あなたは…この世界の―…
ジャンは苦しみに意識を飛ばした。
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