書き下ろし短編

伯龍はくりゅうが、怖い人になっちゃったの……、お母様」

 家庭教師との勉強を終えた紅蘭こうらんは、涙まじりに母へと訴えた。



 半年ほど前、どこからか父王が連れて来た少年、伯龍は、紅蘭が何を話しかけてもまるで人形のように反応がなかった。

 それが、共に植えた水仙の球根が花をつけたのを見たときから、人間らしい表情を浮かべるようになった。

「彼は、いろいろと辛い目にあったんだが、いま、ようやく人間の心を取り戻したところだよ。来週からは、紅蘭の家庭教師をやってもらうことになった。まだいろいろと慣れないこともあると思うが、花国かこくのことについては紅蘭が教えてやっておくれ」

 父がそう言うから、紅蘭は七歳の少女なりにいろいろと面倒を見てあげるつもりでいたのだ。

 伯龍という少年が、辛い思いをして沈んでいるのだったら、たくさん面白い話をして慰めてあげよう。一緒に遊んで楽しい気持ちにさせてあげよう。どうやって少年を明るい気持ちにさせようか、真剣に思案していたというのに。

「伯龍、今日は何をして遊ぶ?」

 満面の笑みを浮かべた紅蘭に、少年が返した言葉は、

「何か勘違いなさっていらっしゃるようですが、私は姫様の家庭教師に任命されたのです。申し訳ございませんが、遊び相手ではございません。これから共に勉強をしたいと思っているのですが、よろしゅうございますか」

 という素っ気ないものだった。

 伯龍を楽しませてあげようとしていた紅蘭にとって、この返答は肩透かしだった。

 そして、その後も。

 伯龍は、人形のようだった頃とは打って変わって、父母以外では唯一、紅蘭に厳しい言葉を投げかける存在となったのだった。



「冷たいと思うかもしれないけれど、それは伯龍なりの優しさかもしれないわよ。私や国王陛下は、他の臣下たちと違って、紅蘭に対して当たりさわりのないことばかり言うわけではないでしょう。時には厳しいことを言って、紅蘭が泣いてしまうこともあるわよね。でも、それは紅蘭のことを思って言っているのよ。私たちは、こんな間違いをしているまま大人になったら、紅蘭が恥ずかしい思いをするに違いないから、いまのうちに正しいことを伝えておかねばと思って、厳しいことも言うの」

 伯龍が怖い、冷たい――そう言って泣く紅蘭に、あるとき母はそう言った。

 紅蘭は、こぼれる涙を手の甲や袖で拭いながら、母の言葉を理解しようと頭の中で反芻はんすうする。

「いつも紅蘭と遊んでいるのは、紅蘭より身分の低い子どもたちばかりよね。彼らはきっと、遊びの中でも紅蘭を自分より身分の高い公主こうしゅ様として扱っているに違いないわ。遊んでいて、嫌な思いをしたことはないのではなくて?」

 紅蘭は、友達――と自分では思っている子どもたちと遊んでいるときのことを思い返しながら、母の指摘が真実であることに思い当たる。紅蘭は、母の言葉に頷いた。

「伯龍だって、紅蘭に嫌われたくてそのような物言いをしているわけではないと思うわよ。きっと、伯龍も私や国王陛下と同じ、紅蘭のことを心から思っているから、厳しいことも口にできるのだと思うわ」

 母の言葉に、紅蘭は伯龍に注意されたことをひとつひとつ思い出していった。



 舞の稽古けいこの後の授業でついうたた寝をしてしまったとき。

「ごめんなさい、舞の稽古に一生懸命になり過ぎて疲れてしまったみたい」

 そう言い訳をする紅蘭に、

「もしこれが、外国からの使節との大事な会談、そうですね、戦の後の領地割譲かつじょうを決める大切なたった一度の会議だったとしても、同じような言い訳を口にすることができますか?」

 顔色を変えず、伯龍はさとすように言う。

 紅蘭にも頭ではわかる。

 しかし、七歳のいとけない少女にとっては、感情が理解に追いついていかないのだ。なぜ、そのようなことを言って、自分をさらに追い詰めるのかと目尻に涙がにじむ。

 また、宿題を忘れてしまったときには、こんなことを言って紅蘭を問い詰めた。

「たとえばこれが、民との約束だったとしたらどうでしょう。他の国との約束だったとしたらどうですか。国としての信頼をなくしてしまい、二度と信用してもらえなくなりはしませんか?」

 前の家庭教師の先生ならば、「いいですよ、次は気をつけましょうね」と笑顔で許してくれたことをどうして伯龍は厳しく怒るのだろう、自分のことが嫌いなのだろうか、と紅蘭は思い悩んでいた。

 しかし、母の言葉を聞いて、それは思い違いだったとさとった。



 伯龍がしかるのは、紅蘭が嫌いだからではなく、紅蘭を思ってのこと。

 厳しいのは「伯龍なりの優しさ」だと母に教えられた紅蘭は、いままでよりも注意深く伯龍を見るようになった。

 まっすぐ見つめるのは、何だか恥ずかしいような気もして、伯龍の視線がこちらを向いていないときを狙って、こっそりと観察してみた。

 確かに、伯龍が紅蘭を見つめる視線には、父や母と同じようにあたたかさがそなわっている。

 そのことに気付いた紅蘭の身体に、大きな異変が起きた。

伯龍が小言を言うたびに、紅蘭の心臓はドキドキするようになったのだ。叱られた恐怖でドキドキするのではない。締め付けられるように苦しいけれど、なんだか胸の中が温かくなるような、ドキドキなのだ。

(胸がギュッとなって苦しいけれど、嫌な感じはしない。このドキドキはいったいどういう意味なのかしら……)

 この意味も母に聞いてみなくてはならない。

紅蘭は、そう思ったのだった。



《終わり》

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