惜しむものを

韮崎旭

惜しむものを

 失うことが遠くかすんでいく。さっきまで近しくあった死線が嘘のように、誰かの睡魔が足首を掴んで引きずり込もうとする。

 灰になってくれ。全部消えてくれ。私が消えないなら。ここにいることを強要するなら。あらゆるものが焼夷され、爛れた廃墟となった街で餓死することをせめて、許して。骨組みだけの救急車、融けた被覆線、枯れ木のように電信柱。街が火に包まれる様を見ている。私は、あたたかな、焼死を、夢の中のように、引き受ける。生存した罰を、ようやく得られると安堵しながら。生存という罪悪を、害悪を、有害を、病毒を、狂疾を、逃れられるのを喜んでいる。悲惨な痛みが皮膚を溶かすのを夏の日差しが生温かく見下ろしている。この手の滅亡は愚にもつかぬ児戯だというのか? かまわない、素敵なことだ、いずれにせよ私は死ぬことができる……。ようやく、ようやく!

 空気は有刺鉄線のように澄んでいた。焼死体がいたるところに、いや、融けたガラスのように美しい光だけがそこには残された。彷徨する私が何であったかはもう記憶にない。私は自身をどこかに忘れてきてしまった。おそらく先刻の火災で焼失したのだろう。

 意識のない朝は明瞭で鮮明だった。色がなく、空は底までが見通し可能に深い。どこかで何かの悲鳴を聞いた気がした。また何らかの有事か火災、それがいたるところを滅ぼすのを落ち着いた気分でその辺のテトラポットに寄りかかったまま聞いている。もう電話は繋がらない。誰とも会うことがない。

 

 幸福。

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惜しむものを 韮崎旭 @nakaimaizumi

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