7月18日 外は汗ばむほどの陽気
「ポチ」
考えにふけっていたオレに、セリが声をかける。
ゆっくりそちらに目を向けると、心配げな彼女の顔が飛び込んできた。
「どうしたの?ずーっとぼんやりしてるけど」
それなのに、オレはそんな彼女の
「どうせ貴方、まだ昨日のこと気にしてるんでしょ。もう、笑っていいって言ったじゃない」
困ったように微笑むお姫様は、オレが何を思い悩んでいるのか知らない。
知らなくていいんだ。そう決めたはずなのに。
心のどこかで、本当の自分を知って欲しいと感じている自分がいる。
真実を告げたところで、彼女の想いが“オレ”に向くわけでもない。
オレは、セリの理想の王子様にはなれない。
それを理解しているのに、何故だかそんな風に思ってしまう。
(愛されたいのかな、オレは……?セリに、いや、誰かに?)
別に今だって、彼女の
ワガママと気まぐれに散々振り回されてはいるが、最近は何だかんだ言いつつも、オレのやりたいように好きにさせてくれている。
だけどそれは、あくまでもペットとして、広場で思う存分駆け回る自由を与えられただけなのだ。
もう今のオレは、ご主人様に頭を
どうしてこんな気持ちになるんだろう。自分でも理解不能だ。
「あっ」
気もそぞろでお茶の準備をしていたオレは、うっかりとカップを取り落としてしまった。
ワゴンの角に当たったティーカップは、その中身をまき散らしながら、カーペットの上へと舞い踊る。
そうして飛び散った熱い紅茶が、オレの右手に襲いかかった。
「あっつ!」
「ポチ!」
幸い、かかった量はほんの
まだ怪我をしたのがオレだけで済んでよかった。
もしセリに熱々の紅茶をぶっかけていたら、例え彼女が許しても、マーゴットさんからお仕置きが飛んでくるに違いないだろう。
「ごめんセリ、あとで片付けるから、悪いけど治癒術師を……」
オレの言葉を最後まで聞かずに、セリがオレの手を取って、
「な……!?」
傷を舐めるように
火傷の痛みとは異なる、
更にそこからじんわりと広がる、癒やされるような高揚感が、オレの心をかき乱す。
「いいいいきなり何するんだよ!」
動揺を隠しきれないまま、大慌てでセリの口元から指を抜き取った。
そんなオレの心境を知ってか知らずか、
「どう、もう大丈夫でしょ?」
「え?」
なにが、と尋ねるまでもなかった。
先ほどまでの指先の痛みが、いつの間にかすっかり消え失せている。
「火傷が治ってる。これも治癒魔法なのか?」
そう問いかけると、何故だか急に彼女は身を縮めてもじもじし出した。
「ううん、それは、その、わ、私の魔力を傷口に吹き込んだの」
「ま、魔力って……」
生物にとって、魔力は生命力にも等しい。
その魔力を他人に分け与えれば、確かに生命力を活性化させ、こうして傷を癒やすことも不可能ではないだろう。
だがそれは、
魔術に詳しくないオレには魔法の効率などよくわからないが、単純に治癒魔法を
「そんな変わった事しなくても、普通に魔法で癒やしてくれればよかったんだけど」
「そ、それはそうなんだけど。あの、ほら、私って人より
視線を
……この雰囲気、昨日の泣き出す前の状況が思い起こされて、どうにも落ち着かない。
「だからなのか、私ちょっと、魔法のコントロールが下手っぴで……物にかけるくらいならいいんだけど、生き物相手だと、相手の魔力を直接いじる事になるから、その」
「なるほど、怪我を治すつもりが、逆にダメージを与えかねないと」
「その通りだけど、改めて言わないでぇ!」
確かに考えてみれば、魔術の最先端であろうこの城の魔術師達でも、治癒や付与魔術を専門とする者があり余るほど居るわけではない。
ニーザンヴァルトに至っては、父上が
おそらく、人に
そして女王候補筆頭でありながら、三年間頑張っていてもセリが女王の座に
魔法の国の女王様が、肝心の魔法がお
彼女がかろうじて他の候補者より優位でいられるのは、先代女王の娘であり、
「……やだ、もしかして私、すっごく大胆なことしちゃってる……?」
ここに至って、ようやく自分の行動に気づいたセリが、ほんのり赤くなった頬を押さえる。
そんな風に照れられると、こっちまで気恥ずかしくなってくるんですが。
癒えたはずの指先が、何故だか再び、じんわりと熱を帯びたように感じられる。
「セリナ、ちょっといいかな?」
微妙な空気を吹き飛ばすかのように、ノックと共にファウスの声が飛び込んできた。
それを合図に、慌ててソファに座り直すセリと、ひっくり返ったカップの片付けを始めるオレ。
「え、ええ、どうぞ」
姫君の
教育係の鬼メイドは、紅茶がこぼれたカーペットとオレを
「ポチ様、
「ご、ごめんなさい!」
「謝るべき相手はわたくしではなく、姫様にではありませんこと?」
「やめなさいマーゴット、謝罪ならもう済んでるわ。それに、火傷を負ったのは彼の方よ」
長々続きそうなお小言を、主人に
「え、ラド大丈夫?治してあげるからちょっと見せて」
「ああ、もう平気だよ。その、姫が治してくれたから、ほら」
心配して駆け寄ってきた幼馴染みに、もうなんともない右手を見せる。
「セリナが?」
一瞬きょとんとした顔を見せたファウスは、すぐにニヤニヤといやらしい笑みを浮かべた。
「ほほーう、セリナが。へー、ふーん、キミらってもうそんな仲に」
「それでファウス、話って何かしら」
明らかに不機嫌そうなセリの声が、軽口を
「あーうん、それなんだけどねぇ」
「ポチ様、あとは私に任せて、ファウス様のお話を」
「あ、はい」
残りの片付けをマーゴットさんに頼むと、セリの後ろに控えて立つ。
「ラドも座れば?」
この城で唯一、オレをセリのペットや使用人として扱わないファウスが、苦笑しながらちょいちょいとセリの隣を指し示す。
「いや、このままでいいよ」
「そ?」
「いや実はさ、近く行われるイール様の誕生パーティーについてなんだけど」
「イール様?」
「ファウスにまだ教わってない?
「あ、それはこの前聞いた」
ベガンダ王家の本流には、六つの家柄が存在する。
現在はセリたちの一族、エンリートを筆頭に、グネ、ファンディーン、タカゥラ、エナム、そして最下位がマルシュとなる。
家柄の地位は一族にどれだけ才ある者が居るかで代わり、一族の中から女王が誕生すると、そこで始めて女神アカシュの巫女として、その代だけ一族がアカージャを名乗ることを許されるのだとか。
なんか色々と面倒そうだなと、部外者のオレは聞いてて思うのだが、こんな事になっているのも
考え無しに多くの愛人を囲って、子もたくさん産んだために、後継者問題で相当荒れた末に生まれたのが、
本当に、どこまでも子孫に迷惑をかける大おばあさまだ。
なお、ファウスの母親ネレースは、タカゥラ家の一派出身だが、ローセンの元に嫁ぐ
「イィルメロック・ファンディーン。男でありながら当主として、六皇家第三位を保持している、とんでもないお人さ。女に生まれてたら、間違いなく女王に
「あの人以外に跡継ぎもいないんだから、性別とか才能とか関係なしに、産まれた時から当主やるのは確定してたけども」
どこかあきれたように、セリがため息をつく。
「でも、もういい歳なのに、一向にお嫁さんを貰う気配もないし。あの調子だと、後継者不在でお取り潰しになるんじゃないかしら、あそこ」
「イール様、相当プレイボーイだって話だしなぁ。第三位様に言い寄る女性はいっぱいいるから、下手に身を固めない方が遊び回れるもんね」
「で、その第三位様の誕生パーティーに、何か問題でも?」
「ああ、そうそう。今までだいたい社交界の場には、歳の近い僕がセリナ姫様の
いつの間にか片付けを終え、新たな紅茶まで用意しているマーゴットさんに礼を言いながら、ファウスが話を続ける。
「今回はそれ、辞退しようと思って」
「え、なんで?」
「ああ、ナズナね。あの子もそろそろ、
「そういうものなのか?」
浮かんだ疑問を口にすると、ファウスは苦笑いを、振り返ったセリは信じられないものを見るような顔を浮かべる。
「その歳で、社交界のことも理解してないなんて……ニーザンヴァルトの貴族って、いったいどうなってるのかしら」
「ははは……」
だってまともに社交界デビューしてないんだもん、オレ。
誕生日だって、軟禁時代は
「ま、そういう事なんで。今回はご指名もあったし、ナズナのエスコートに
「仕方ないわね。それじゃ誰か他にお願いするわ。んー、ギナゼッド様辺り来てくださるといいんだけど」
「ん?改めて
悪戯を思いついた時の顔で、ファウスがこちらに目線を送る。
「……え、オレ?」
「だ、ダメよ!絶対ダメ!」
オレが何か言うよりも早く、セリがテーブルを叩いて猛烈な抗議を始めた。
「だって、社交界のなんたるかもわかってなさそうな世間知らずよ!?ポチなんて連れていったら、恥をかくだけに決まってるじゃない!」
「そこまで言わなくたっていいじゃないかぁ」
そんな
「わたくしも、ポチ様を同伴なされることには、賛成致します」
「マーゴットまで!?」
「セリ姫様」
例の美しい笑顔を浮かべた女従者は、主人の
「六皇家の皆様の元にも、既に『小麦色のカエーヌ』の噂は伝わっております」
「うっ」
「いい加減に観念なさって、皆様方に正式にポチ様をご紹介されてはいかがですか?」
「うううううううぅ」
……なるほど。どうりでセリが嫌がるわけだ。
パーティーの場に
その場の勢いでオレに首輪を着けたのは彼女自身だが、それで一族に笑いものにされては、女王候補のプライドに傷もつく。
(といっても、ここでオレを
姫君のパートナーを務められるような、それなりの身分の男と言われても、それこそオレには王宮魔術師のファウスか、ギナゼッド総騎士団長くらいしか思い浮かばない。
そして団長殿とセリでは、親子ほども歳が離れている。
何より、あの豪快が服着て歩いているような団長が、社交界というきらびやかな場に、好んで顔を出すようにも思えなかった。
ついでに言えば、セリ自身に恋人や婚約者がいるような話も、ついぞ聞いた覚えがない。
「もう、わかったわよ!貴方にパートナーを頼めばいいんでしょう!」
ついに折れたセリが、ソファから立ち上がってオレに向き直る。
「パートナーは務めてもらう。でも私、ポチは連れて行かないわ」
「は?何だそりゃ」
言葉の意図を掴みかねるオレに、セリは不適に笑いかける。
「他にもあるでしょ、貴方のもう一つの顔が」
「え……?」
ずっと悩んでいた胸の内を見透かされたようで、さっと血の気が引いた。
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