Episode.19:無慈悲なリゾルブ
「──ッ、──ナっ!」
誰かに呼ばれた気がする。私の手には、グラッチ、じゃなくて搾りたての牛乳が入ったバケツがある。
「イリーナ、それはアナタじゃまだ持てないでしょ?」
見慣れた服を着て、優しい笑みを浮かべる女性。彼女を私は知っている。ああ、とても懐かしくて、温かい気持ちに包まれる。
「も、持てるもんっ!」
己の力量の無さを言われたのがちょっとばかり恥ずかしくて、無理をしてしまう。頑張って目の前のバケツを持ち上げる──前に私の体が持ち上げられた。
「こぼしてしまったら、ケフィールが食べられなくなっちゃうよ、イリーナ?」
頰にモサモサとした感覚が伝わる。こんなにもしっかりとした腕に抱かれたのはいつぶりだろうか。
こんなに懐かしい情景、私はよく覚えていたもんだ。
そう、私は本当はクラリスなんかじゃない。イリーナ・ヴェールスカヤ。それが私の本名だ。どうして私はクラリスなんて名前で呼ばれているのだろうか────
『非国民は抹殺せよ、女子供も同様だ!』
さっきまで幸せな雰囲気だったはずなのに、何故か爆発音と銃声が聞こえる。家の外は悲鳴で満ち溢れていた。
「イリーナ、静かに隠れるんだよ……?」
さっきまで私の事をしっかり抱いていてくれたお父さんが、私の事をどこかに閉じ込める。
閉められてようやく、ここがキッチンの床下収納だという事を思い出した。
「やめろ、エカテリーナに手を出すな!!」
「悔いるなら、お前達のトップの愚行を悔いろ!」
お父さんとお母さんが、上で何かをされている。私は、嫌な予感を押さえつけることができなかった。お父さんとお母さんがこのままじゃ死んでしまう、私はひとりぼっちになってしまう────!
「お父さんをころさないで!!」
扉を押して勢いよく開ける。そこには軍服を着た兵士、とリンチされる母親が転がっていた。あんなに優しいお母さんが、美味しいボルシチを作ってくれる綺麗なお母さんがボロボロになっている。
「ガキがいたか、ならこのガキからだな」
グロックの銃口がこちらに向けられる。もう、無意識のうちに私は包丁を握っていた。ニヤリと笑うその口元がただの怪物にしか見えない。お父さんは怪物だって倒せるすごい人なんだ────!!
肩を揺さぶられて、目が覚める。隣の男は、足早に車から降りて行く。
私も、それに続こうと……ドアが開かない。なんて気の利かない男なんでしょうね、アイツは………
「すまない、いつもの癖だ」
「さすが、安全は全てに最優先するって言うものね」
当てつけがてらにアイツの車のドアを思いっきり閉めてやる。アイツはいつもそうだ、自分からは何も見せやしないクセに私の事は知ろうとしてくる。いや、してないか。
「そういえば、いちごオレストック切らしてるんじゃ無いのか?」
「ああ、そうね、じゃあ、財布……」
こうやって、私の先の行動を見透かすようなのが嫌いなんだ。どうして私はコイツの掌の上で踊らなければならないのだろうか。
だけど悔しいかな、いちごオレの魅力には勝てない。どうして我が祖国はこんなに美味しい飲み物を発明できなかったのだろうか。
私はコンビニに向かって歩き始める。同じ甘い物でも、祖国の名前をつけたあの紅茶だけは好きになれない。ジャムは入れるものじゃない、舐めるものなんだ。それをこの国の人間はわかってない。
「いつもお買い上げありがとうございます!」
事務所からニダースのいちごオレを箱で持って来られる。流石、この店員は分かってる。私は待たされるのが大嫌いだ。だからこそ、こうやって可愛い店員にすぐ持って来てもらえるというのは、非常に嬉しいサービスだ。
「ありがとう、また来週来るわね」
「昨日も言ってたじゃないですか〜」
「貴女がそういうかわいい事をするから、来たくなるんでしょ?」
店員の頭を優しく撫でてあげてから、お代を置いて店を出る。近くで激しい銃撃戦が繰り広げられ始めたようだ。
極東のこの国はテロが起きてから変わってしまった。治安当局や法律が厳しくなったのに、それと同等かそれ以上に悪くなった治安。国民がみんな銃を携帯するのは当たり前の時代になってしまった。
「この国は綺麗で平和で安全な国だったのにね……」
前方から、ハンヴィーが二台走り去って行く。憲兵のでも軍のでもないハンヴィーが走るのを見たのは、初めてかもしれない。あの時乗せられたハンヴィーよりは乗り心地が良さそうだった。
家にたどり着いた途端、私は異変に気付いた。ドアが無造作に蹴破られている。ただの一軒家にしか見えない作りなのに何があったのか。
グラッチを取り出して、息を殺す。アイツからの何かの冗談なのだろうか。リビングにいて、どうせ私にまた何か言って来るに決まっている。アイツはそういう奴だ。
だけど、リビングには誰もいなかった。床にばらまかれた大量の空薬莢。普段のお気に入りのソファは、テレビは、タンスは無残にも蜂の巣になっている。ソファの裏側には、少しばかりの血痕が残っている。それに少し部屋の中は煙っていた。
「嘘……冗談よね……?」
さらわれた。
その事実だけが頭をグルグルしている。どうしても受け入れられないその事実。いやでも、私ならどうだっただろうか。
自分の方がアイツより場数も技術も上なのは、会ってすぐに分かった。ただ、何かについては勝てない。それが知りたくて、ここまで任務を引き延ばしている。
ああ、そうだ、早く報告しないと。
スマホでかけ慣れた番号にかける。数字のみで構成されたパスワードを、ダイアル案内で入力していく。
「お久しぶりです、閣下」
『その呼び方はやめてくれ、少尉』
相変わらずの人間味を感じて、少し笑みがこぼれる。だが、そんな表情この人の前では絶対に見せられない。
「失礼しました、カスペルスキー少将」
『それもくすぐったいな、同志クラリス』
クラリス、は私に付けられたコードネームだ。これを起点に大体の国へ潜入してきた。
『いやはや、キミから声をかけて来るなんて、珍しいじゃないか。わざわざホットラインを繋いで来るとは、どうしたんだ?』
事実を伝えるに対してこれだけ苦しみを覚えようとは、私は苦しかった。もしかしたら、この地で粛清されるかもしれない、そう思うと足が震えてきた。
「目標を…………ロスト…………しました…………」
『そうか、少尉にしては珍しいな、何故ロストした?』
少将の冷たい声が、私の心を凍らせていく。故郷の冬よりも冷たく痛い声が、よく私の心を突き刺していく。
「…………誘拐されたようです」
『そうか、ならば帰還せよ』
二十年の間に消し去ったはずの甘え、いやそれはない。
ここで帰還すれば、また私は再教育されるのだろう。目標に情を持った、そんな下らない理由で、“北の島”に送られる。あの島に人権という言葉は存在しないようなものだ。
────せっかく、二人で行動するメリットを学習したんだ。
「…………断ります、少将」
自然と涙が出てくる。何もアイツがいなくなったからではない。祖国の裏の権力者に反抗した。これで、粛清対象リストに入っただろう。
でも、私に家族なんていない。大切な人なんてものもいない。あと失うっていったら自分の身体ぐらいだ。
『そうか、残念だよ、イリーナ』
通話がプツリと切れる。私は、ゆっくりとスマホをポーチに戻す。祖国の土は二度と踏めなくなった。ケフィールが食べられないのは悲しくなってくる。
それに、もう何も、支えがなくなってしまった。
「だったら私は……」
ポーチに入っていた
「М
さよなら、私の祖国。私はやるべきことをやるだけだ。
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