助けて


 助けて、お願い、——。


 怖くて怖くて、どうすれば良いのか分からなくて叫んだその瞬間に、飛び起きた。

 汗ばんだパジャマの不快感が、私を現実に呼び戻す。


 とても嫌な夢を見た気がする。

 ああもう、最悪。

 現実がただでさえこんななんだから、せめて夢の中くらい楽しければ良いのに。


 どんな夢を見たか、そんなことを覚えていた月日はとうに過ぎた。今ではなんとなく残り香のようなものが掴めれば良い方だ。

 素直さはなくすし、老けるし、歳を重ねても良いことなんてない。


 時計を見ると、まだ早かった。二度寝をするような気分でもないし、パジャマを脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。

 目を瞑って、シャワーから出るお湯の暖かさを頭皮に感じると、無性に心地よくなってくる。

 誰かに頭を撫でられているような、髪を梳いてもらっているような、そんな安心感。


「…………今日、休みたいな」


 自分の発した無気力な声が、浴室のタイルたちに跳ね返されてくる。

 休んで何をするわけでもないのに、どうして休みが欲しいと思うのだろう。


 泡を全て落とし、シャワーを止める。

 全てを突き放すような静寂。

 裏切られたような気持ちになって、私は浴室を出た。


 何か、あったはずだった。

 何かが、違った気がした。


 恐怖の向こうに、何が見えた?


 ……分からない。

 歳を重ねるごとに、記憶力どころか、想像力までもを失ってしまったのかも知れない。


 服を着て、カーテンを開ける。

 窓を全開にすると、ほんのり冷たい風が入ってきた。


「何が、見えたの?」


 教えて。

 何か、大切なことを忘れてしまっている気がするの。


 教えて。

 私の過ちを。


「お願い……」


 1人の部屋は、静かに私を受け容れている。

 初夏の朝、清々しい朝の風が頬を撫でて行く。


 ——助けて、


 何から?


 ——助けて、お願い、


 何が怖い?


 ——私を、


 好きでいて。


「好きで、いて」


 小さく呟いた声は、魔法のように私の記憶を手繰り寄せる。


 好きで、いたかった。

 好きでいて欲しかった。

 離れたくなかった。


 助けて、この気持ちから。

 そうじゃないなら、お願い、私を好きでいて——。


 つぅ、と、涙が零れる。


 どうすれば良かったの?

 正解なんて存在したの?


 どうすれば、良かったの——?


 もう鳴ることのない電話は、静かに佇んでいる。

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