第3話 高校時代の思い出

 あれは確か高校二年の時だった。


 その日、教室に忘れ物をした涼介は、一緒に帰る予定だった友人と別れて一人放課後の教室へ戻った。


 がらりと戸を開けて飛び込むと、教室の後ろのほうで固まって何かをしていたらしい数人の生徒が、ぎょっとしたような顔でこっちを見た。


 クラスの奴もいれば他のクラスの奴らしい見慣れない奴もいて。


 涼介がいぶかしげに見返すと、彼らはどこか後ろめたそうな顔で互いの顔を見合わせ、




 「……おい、いこうぜ」




 その中の誰かが口にしたそんな言葉に促されるように、ばたばたと教室を飛び出していった。


 涼介はあっけに取られたようにそれを見送って、




 「なんだよ。変なやつらだなぁ」




 呟いて小首をかしげ、教室のやや後ろに位置する自分の席に向かう。そうして歩きながら、さっきの奴らが集まっていた辺りに何気なく目をやって、目を見開いた。


 教室の一番後ろ。生徒の席が途切れて少しだけ広くなったスペースに誰かがうずくまる様に小さくなっていた。その小柄な生徒の体はびしょぬれで。その生徒は、うずくまったまま小刻みに震えていた。


 まだ三学期が始まって間もない時期だ。


 放課後の、暖房が切れた教室の中は上着がなければ凍えてしまいそうに寒く……。


 涼介は慌ててその生徒に駆け寄ると、自分の着ていたコートでその体を包み込んでやった。


 それから、自分のロッカーを開けて、次の体育の授業の時用に持ってきておいた体操着を取り出すと、うずくまったままの生徒のもとへ駆け戻る。




 「大丈夫か?ほら、俺の体操着貸してやるから着替えろよ。そのまんまじゃ、風邪、ひくからさ」




 そう声をかけてみたが、生徒はうずくまったまま、うんともすんとも言わない。




 (……もしかして、気絶とか、してんのかな?)




 不安になって、抱え起こすようにしながらその顔を覗きこんでみると、長い前髪の奥から少し怯えた眼差しがこちらを見ていた。


 涼介はホッとしたように微笑んで、そのまま生徒の体を支えるようにして近くの席のイスを引っ張り出して座らせてやる。


 そうして、かばんにちょうどつっこんであったタオルを引っ張り出してびしょびしょの髪をゴシゴシと拭き始めた。




 「ちょっと汗とか拭いちゃったやつだけど、いいよな?未使用のタオルなんて、流石に持ってないしさ。いやだったら、家に帰ってから頭洗いなおせよ?な?」




 言いながら、丁寧に丁寧に水気を拭ってやる。涼介には歳の離れた弟が居たから、そうやって面倒を見てやることには結構慣れていた。




 「……どうして」



 「ん?」



 「どうして、そんなに優しくしてくれるの?」



 「どうしてって、いわれてもなぁ」




 髪の水気が取れて、少しだけマシな状態になった生徒の口からこぼれた言葉に、涼介は困ったように笑う。


 冷えた体に少しでも温もりを取り戻してやるために、両手で体をこすってやりながら。


 本当はさっさと濡れた服を脱いで着替えてしまえばいいのだが、当の本人が中々動き出さないのだから仕方ない。




 「濡れて震えてる奴が居たら、誰だってこうするだろ?」




 困っている人が居たら助けてやりなさい……涼介は両親からそう教えられて育ったし、それは人として当然の行為じゃないかと思う。


 誰もがそう行動できるわけじゃないという事も分かってはいるが、それは涼介がそうしない理由にはならないし、少なくとも涼介はそうやって誰かの役に立つ行為は嫌いではない。


 周囲から、偽善者だの何だのと、文句をつけられることがあったとしても。


 そんな涼介の言葉に、目の前の濡れ鼠は驚いたように彼を見上げた。


 まるで、今までに見たことが無いような珍獣を見るように。




 「君って、変わってるね?」



 「変わってる?そうかぁ?普通だと、思うけどな」



 「変わってるよ。今まで誰も、こうやって手を差し伸べてくれる人なんていなかった」



 


 暗い眼差しで呟く目の前の存在に、涼介は困った様に頬をかく。


 どうしてやったらいいのか分からず、でも黙っている事も出来ず。



 「今までも、やられた事あるのか?こういうこと。えーと、水を、かけられたりとか」



 口を付いて出たのはそんな質問だ。


 もっと気の利いた事が言えないものかと思うが、涼介の頭の程度は平均値だし、口が回る方でもない。




 (……仕方ない。これが俺ってやつだもんなぁ)




 と諦め混じりに思いながら、返事が返ってくるのを待った。




 「……水をかけられるのは今日がはじめて。でも、服を脱げってのはよく言われる。他にも教科書を隠されたりとか、足を引っ掛けられたりとか、髪を引っ張られたりとか……」



 「そ、そっか……」




 返ってきた返事に、思わず口ごもる。


 どうやら、目の前の存在はいじめの被害者というやつらしい。


 が、なんと言ってやればいいのだろう。大変だったな、なんて軽く言って済ませられるものでも無いだろうと、涼介は頭を悩ませた。


 だが、悩んだところでいい答えは中々見つかるものでもなく、




 「ふ、服を脱がせようとか、あいつら、なに考えてるんだろうな?」




 結果、出てきたのはそんな言葉。


 その言葉に、濡れ鼠は自嘲の笑みを口元に浮かべた。




 「さあ?あいつらの考えなんてこっちにはさっぱり分からないよ。今日も、服を脱ぐのはいやだって抵抗してたら、水をかけられたんだ。寒くてどうしようも無くなれば脱ぐんじゃないかってさ」




 服を脱がせたいから水をかける。


 やった奴らは、きっと深く考えずにそうしたのだろう。


 ただ、そうしたかったから。



 でも、もし、相手が急激な冷えで体調を崩したらどうするつもりだったのだろう。


 年が明けて春に向かっているとは言え、季節的には一番寒いといっても過言ではない時期だ。


 そんな中、冷たい水をかけられた相手がどうなるか、彼らは考えなかったのだろうか。



 ……きっと、考えなかったんだろうな、涼介は思った。


 もし、寒さで風邪をひいたら、それが原因で肺炎を起こしたら、急激な冷えのショックで心臓が止まってしまったら……そんなこと、想像もしなかったに違いない。


 想像できていたら、怖くてこんな事できはしない。




 (……俺だったら、怖くて出来ないよ。こんなこと)




 ぎゅっと唇を引き結び、涼介はまだ冷え切ったままの小柄な体を包み込んだ己のコートの上からこすり続ける。


 自分に何がしてやれるだろうと、その答えを探しながら。


 しばらく無言でそうしていて、不意にふっと顔を上げて目の前の、長い前髪に隠されたほっそりとした顔を見た。


 そして。




 「なあ。今度服を脱げって言われたら俺を呼べよ。俺がお前の代わりに、服、脱いでやるからさ」




 どこまでも真面目に、そう言った。




 「はぁ?」




 長い前髪の向こうの綺麗な瞳がまん丸になる。




 「俺は、別に裸見られてもそんなに恥ずかしくないと思うし。実際に目の前で野郎が脱ぎ始めたら、奴らの頭も冷えると思うんだよなぁ」



 「はあ……」




 どこまでもどこまでも生真面目な涼介の、変てこ過ぎる主張に長い前髪の向こうのふっくらとした唇から、肯定の言葉ともため息とも取れる、なんとも気のぬけた声が漏れた。




 「俺はさ、喧嘩とか好きじゃないから守ってやるとは言えないけど、お前の代わりに服を脱いでやるくらいなら出来る。だから、困ったら遠慮なく呼んでいいからな」



 「……友達でもないのに?」



 「まあ、袖振り合うも他生の縁、て言うだろ?でも、それで納得できないなら、なればいいじゃん」



 「……なればいい、ってなにに?」



 「だからぁ、友達だよ。なればいいじゃん、今からさ」



 「なるの?友達に」



 「……なんだよ?俺の友達になるの、そんなにいやなのか?」



 「い、いやじゃない。いやじゃない、けど」




 ちょっとむっとして唇を尖らせれば、驚いたように首を横に振る友達候補。


 そして、驚いたように、不思議なものを見るように涼介の顔をまじまじと見つめてきた。




 「いやじゃないけど、なに?」




 なんか文句でもあるのかと見つめ返すと、




 「いやじゃないけど、君……変なやつだなぁ」




 長い前髪の向こうで、新しく出来た友達が笑った。


 花がほころぶように。可愛いっていうよりはむしろ綺麗な笑顔で。




 「変って……お前さぁ、新しく出来たばかりの友達に失礼だと思わないのか?」



 「ごめんごめん……でもさぁ」



 「ん?」



 「君のそういう変なところ、好きだなって思うよ」




 そう言って、高校卒業までの一年弱、もっとも親しい友人となる人物は、微笑んだ。


 その時初めて、長い前髪で隠された親友の顔が、ものすごく綺麗だって事に、涼介はやっと気が付いたのだった。



 今日見た、謎の美女の笑顔。


 その笑顔はあの時はじめて見た親友の笑顔に、とても良く似ていた。

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