春夏秋冬-コイビヨリ-
ロリじゃない
春編〈spring〉
1
──習慣は第二の天性なり。
遠い昔の哲学者の言葉なのだが、身に付いた習慣はいずれ生まれつきの性質となることもあるという意味らしい。
良い習慣も悪い習慣も身体に染み込めば、まるでそれが当然であるかのように錯覚してしまうのだから、的を射た教えだと言えるだろう。
お腹が空けば、
「しおりー、腹が減った」
「今日はハンバーグだよー。もう少しだけ待っててねー」
という新婚カップルのお熱ほやほやみたいな会話が始まって。
宿題で解けない問題にぶち当たると、
「しおりー、因数分解がわからん」
「んー、わたしも数学は地味に苦手かなー。アイ、ドントライク、スーガク♪」
なんて適当すぎる英語を交えた返答をしてくれて。
冗談なんかを言うと、
「しおりー、結婚してくれ」
「まずはお金貯めなくちゃ! 明日ゼク○ィ買ってくるね!」
と、マジレスしてくれる。
こんな突飛な習慣でさえ失くしてしまうと過去に思いを馳せて、寂寞〈せきばく〉の思いを抱えるのが人という生き物だ。
▽
「たーくーみー、あーさーでーすーよー」
心地の良い朝。小鳥の囀る声も、陽の光も、すべてが包み込むような朝。
カーテンの隙間から差し込む朝日で今日一日分の充電をするのは俺のささやかな幸せだった。だというのに、誰かがぽかぽかとパンチを織り交ぜながら俺の身体を勢いよく揺すっているらしかった。
「ちーこーくーしーちゃーうーよー」
聞き慣れて聞き飽きた声が、鮮明に耳朶を打つ。必死の声が俺の布団を引っぺがしたからだ。室内に滞留した肌寒い空気がパジャマから剥き出しの肌にこんにちはしてくる。
あまつさえ声の主は、俺のささやかな幸せを阻害するべく引っ張っていることは目蓋を閉ざしたままでも予想がついた……ので、俺も負けじと足の指をベッドの端に引っ掛けてやる。
「んー! あ、あれっ……?」
戸惑うような声がひとつ。おそらく必死に俺の身体をベッドという名の充電器から引っこ抜こうと涙ぐましい努力を重ねているのだろうけど、それでは俺の身体は動いてはくれないぞ。
ふっ、このまま悩み続けるがいい。押すべきか引くべきか迷い、考え込め。その間に俺は、抜け目なく充電を継続させてもらうとしよう。
「ま、いっか」
と、あろうことか声の主は、引っ張り続けてきた俺の上半身をそのままの位置で放棄しやがった。
すると当然、俺の上半身は宙に放り出される形になって――
──ゴツン!
「……いってえ! 栞里のアホ! なんで手ぇ離すんだよ!」
文句を言う俺に対して、目の前の幼なじみは肩ほどしかない髪を揺れ動かしながら、
「もうっ、やっぱり起きてた! そろそろ支度しないと遅刻するんだからね?」
腰に手を当て、定型句のようなセリフ。
「それ、やりたかっただけだろ……」
「あ、バレた? でもね、今日くらいは過剰に時間を気にしてもいいと思うんだよ。せっかくの入学式なんだから」
「…………」
非常に心臓に悪い言の葉が耳を通過した気がした。
いや……気がしたというか事実だった。その証拠に俺の身体は完全に硬直してしまって、今や操り人形のようにその動きはぎこちない。
「匠? どうしたの、急に青い顔して?」
「ばかッ! そういう大事なことは早く言え!!」
「青い顔してること?」
「そっちじゃない! 今日が入学式ってことの方だよ!」
その通り。忘却の彼方に帰していたが……どうやら今日は、俺たちが進学する高校の入学式だったらしい。
▽
「はぁっ、はぁっ、遅刻したら、はぁっ、栞里のせいだからなあっ!」
「ひぃっ、ふぅっ、ま、待ってよぉ~」
俺たちは折り目正しいピカピカの制服に身を通して全速力で住宅街を駆け抜けていた。
理由はもちろん、遅刻しないため。ぜぇぜぇと息も絶え絶えな呼吸が口から漏れ出るのも構わず走る。
今日から通うことになった学園は誰の目論見なのか山の上に建てられたため、登校までの道がとにかく険しい。
距離は遠いし、坂道が続くし、住宅街を抜けてからの道は緑一色で変わり映えのしないそれだ。心身共に掛かるストレスはなかなかのものだろう。律儀に道なりに進めば、家からは徒歩30分といったところか。
「はぁっ、しおり―、現在の時刻はー?」
「はぁっ、ひぃっ、式まであと15分だよ~」
マズイ。端的に言ってマズイ。このままのペースでは、およそ5分程度の遅刻が想定される。
式の途中で忍びない様子でこっそり形成された列に組み込まれる可能性が十二分にある……いいや、それならマシか。下手すると体育館の後方で怖い顔した生活指導の先生なんかに挟まれて、入学式の時間をずーっとその定位置で過ごさなきゃいけなくなるなんて事も……。
……それだけはゴメンだ! それじゃあ俺たちが春風を振り払って、桜を横目に汗水を迸らせている意味がまるでない。
無い脳みそを使って考えろ俺。現状で求められる最善はなんだ。視線の先に広がるのはブロック塀で仕切られた見事な十字路――ピカリッ、これしかない!
「はぁっ、はぁっ、よしここで右折だ!」
「へぇっ、へぇっ、匠ぃ、どこいくのぉ~」
「はぁっ、はぁっ、ショートカットに決まってるだろ! はぁっ、おそらくチートでも発動しないとこれはもう間に合わないだろうからな」
舗装の行き届いた学園までの道のり──つまるところ、本来の通学路は大きな曲線を描くようにしてできあがっている。極端に表現するなら、アルファベットの『C』の形をしているのだ。
まるで中心にある何かを避けるようにして、大回りに通学路は山へと伸びている。正直に言ってこれは明らかな遠回りだ。時間の猶予がない今、その道筋に乗っかるのは愚の骨頂だ。
確か右手には公園があったことを記憶している。そこを突っ切ってしまえば、学園まで一直線のショートカットになるはずだ。
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