第1話『カルナバル』

 あの後、デスクへ帰還した青年に送られてきたものは、今任務のための仮面戸籍とざっくりと場所が記された案内図。



 悪趣味なクライアントによって、急遽前線から離脱することになった青年はトランクを片手に駅へと向かう。



 冷えた空気が霧を孕む。ほう、と息を吐けば白い湯気が立ち上る。こう寒いと珈琲が恋しくなる。

 とんがり頭の街灯にバター色の光が灯り、古びた煉瓦が灰白く照る。



 ここカルナバル――ここに住む人間はカルナと呼ぶ――は季節を訪わず気候が冬だ。



 そのために夜は酷く冷える。街灯の蛍火はとうに消されていて、唯一の光源は先に見えるターミナル。建物の間隙に覗く路線は海を渡り、国中へ物資を行き渡らせている。



 石畳にリズムを奏でる靴音がふいに止んだ。ほんのりと石炭を燃やす匂いが鼻をつつく。

 霜の降りたベンチには、水分を含んで萎んだ新聞紙が投げ置かれたままだ。

 夜風よかぜなびく、景色と同色の暗髪。まるで同化したように青年の存在はあやふやだ。異質なまでの夜の王。年並みの容姿は見受けられず、代わりに女性とも取れる細い輪郭が印象深い。

 


 央都とカルナを結ぶ北方最大の駅は、早朝5時もいいところだというのに、整備工たちが点検と補給に勤しんでいる。

 仕事が早いに超したことはないが、ここ北方は戦場に近い。

 いつどこに戦火が灯るかわからないこのご時世、もうすこし怯えてもいいくらだ。



 整備工だけではない、車掌や荷台を降ろす商工業者、またそれらを支える大食堂の料理人までもが、役目を果たさんと勤しんでいる。



 仮にカルナから最南端にあるとしても、いつディーヴァの襲撃を受けるかわからないのに、まだ薄暗い日の出前から危険を冒して列車を動かす必要があるのかと、いつもながら考えずにはいられない。



 駅に着くと、脇に逸れてまだ暗がりの線路沿いを伝った。左を曲がった角にある行きつけの珈琲店へあいさつに出向き、朝一番の淹れたてをいただく。ついでにブルーマウンテンを購入し、満足げに店を出ると時計が3つほど数字を進めていた。



 豪快に欠伸を吐いた。カフェインで頭がぼうっとしたのか、睡眠不足で培った垂れ目が瞬く。不文律に整った前髪を揺らし、白い息が汽車に似た蒸気を上げた。



 再び固い地面に反抗した革靴がこつこつと音を鳴らし、夜の闇に溶けた青年を魅惑的に醸している。


「相変わらず、無駄にデカい駅だな」


 カルナで過ごす最後の至福を終えて、ようやく停車場へ入ると、いやでも目にはいる荘厳なつくり。城壁とも協会ともとれる外観は西方地ヨーロスに似せたものだろう。



 カルナはもともとディーヴァの領地だったときくが、人類の領地となって幾百、遠島地方から多くの民が移り住んだらしい。そのためここでは様々な文化の混同が行われ、新たなものへと昇華してきた。



 冷えた空気が鼻を抜け、肺にじんわり霜が降りる。

 落ち着かないときはよく夜の空気を吸う。

 薄いカーテンのように天上に垂れた夜のとばりが、静かに耳打ちする風の音を運んでくる。ひんやりと澄んだそれは、青年の上昇した心を和らげてくれる。



 空に浮かぶあまねく星々は今日も光り輝いている。遠い彼方から命を燃やす彼らは、星を愛するために自らを光り輝かせているらしい。へんな理屈だが、幼い頃の話だ。



 急かすように汽笛を鳴らす鉄の顔面が客を待っている。

 ここから目的地までは約10時間という地獄のお座りコースだ。

 正直、昨日まで前線で闘っていたモノとしてはせめて柔らかいベッドのある寝台列車を使いたかったのだが。生憎とそんな気配りはない。



 配慮とかそんなものは皆無で何を言っても安月給――というかただ働きを強要してくる。本人曰く、ただより高いものはないそうだ。

 ましてや交通費は自腹だ。仕方なく最安価の一般車両に乗り込むが、これでも大変な贅沢である。



 なんせ倹約のために普段の移動は徒歩。仮に汽車を使っても荷物車、酷いときには牛や豚といった家畜とともに一夜を過ごすことさえある。



 だがこれから会う予定であらせられる令嬢貴族さまの前でもし、ほんのりとそのなごりが残っていたら……? そう考えると渋々大枚をはたくしかない。



 狭苦しい通路を前方のご老体に道を譲り、指定の座席に入る。

 格安で獲れた乗車券は同室の筈だが先客はいないようだ。



 13時間ぶりに腰を下ろした尻元は、しかし愛用のもふもふリラックスチェアではなく、最低限のクッション……というか、もはや剥き出した板張りの硬い固定座である。



 まあ、これも地面に比べればマシなほうだからと諦めて窓の外に視線を移した。頬杖ついて景色を眺める。



 先頭から汽笛が鳴り出して汽車が動き始めた。向かい席は空のまま、鋼鉄の大蛇が蒸気を巻き上げる。移りゆく景色に身を凭れさせ、物思いにふける。

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