旧暦物語 -皐月-
@n-nodoka
第1話
皐月賞、と言われて思い浮かべるのは、十中八九が競馬のことだと思う。
私も最初はそう思ったし、私と同名の〝皐月〟という賞であることから、まるで私が偉人のような勘違いをさせてくれる賞だな、とか幼少の頃は考えたりもした。
しかし、御年二十四歳になる私が務める会社に存在する皐月賞は、勤続年数の浅い社員の中から優秀な成績を収めたとして選ばれた社員に賞金が贈られるという、平たく言えば若手向けの臨時ボーナスのようなシステムだった。
そして今回、勤続2年目にして有難いことに件の賞を頂いた私は、その賞金を有難く頂戴して、そのまま同僚・先輩・後輩問わず引き連れて飲みに行った。
臨時収入など、もともと無かったようなお金なので、宵越しに持っていっても仕方が無い、という思いで飲みまくった。
私なりに真っ当に努力をしてきたことが分かりやすい賞として認められたことも、素直に嬉しかったのもある。
周りで祝ってくれる皆の声が嬉しくて、さらに拍車がかかり、久々に長い時間騒いで飲んだ。
そして、次の日、土曜日の休日。
お酒が強いと自負していた私が、久方ぶりに二日酔いになった。
時刻にして正午前。眠りについたのが朝方で、睡眠時間はいつもと変わらない程度だったけど、頭痛のせいで眠りが浅くなってしまった私はこれ以上の眠りを諦めて、のっそりとベッドから身体を起こした。
「あー………」
ガシガシと乱暴に髪を掻いて、ベッド横の机から眼鏡を取る。
頭痛が痛い。日本語がおかしいと分かっているものの、あながち間違った表現でもないな、なんて思うくらい痛かった。
もっと若い、お酒を飲み始めた頃に、加減が分からずに酔いつぶれて二日酔いになった以来かもしれない。
それくらい久々に、セーブもせずに飲んでしまったようだ。若干、記憶も飛んでいる。
完全に、二日酔いだった。
まだ幸いだったのは、吐き気やダルさなどは無く、頭痛も起きていれば逆に和らぐ感じがあたことだ。
薄手のシャツと短パン姿のままでふらりと歩き、カーテンが開きっぱなしだった窓辺の枠に腰掛ける。
窓枠という定位置にあったタバコを掴み、電子ケースの中に差し込む。
最近のタバコは電子加熱式とかよく分からん感じだけど、灰が出ずに煙も少ないので有り難い。ヤニ臭くなるのが嫌で部屋では吸わなかったけど、この電子タバコというやつにしてからは吸いたい放題だった。
タバコがスタンバイの状態になる間に、窓を軽く開ける。いくら匂いが付きにくいと言っても、タバコを吸うときは換気を気にしてしまう。昔からの習慣になっているのだ。
半分ほど開いた窓から入る風は穏やかで、私の髪とシャツを揺らした。
お日様はすっかり上がっていて、日差しも強い。風が涼しくて心地いけど、五月にしては若干、暑いようにも感じた。
電子タバコの準備完了サインを見て、吸い始める。
「……ふー……」
窓から眺められる住宅街に視線を向けつつ、昨晩のことを思い出してみる。
職場の皆で二軒目のカラオケに行って、三軒目で再び飲み屋に入った辺りかあら記憶が薄くなっている。多分、既に泥酔している。
それでも帰り際にちゃんと支払いをした記憶はあるし、その後、同じ会社にいる彼氏と二人で帰ったことも覚えている。
そして、川沿いに整備された公園を歩いている時に、求婚されたことも。
「……うーん……」
髪を掻き上げながら、浅く唸る。何とも、午前三時過ぎにふらふらと歩く酔っ払いに求婚するとは、さすが私の彼氏が務まる男だ、と改めて思う。
シチュエーションはともあれ、しかしあまりにもさらっと求婚されたので、何度か聞き直してしまったような記憶がある。おかげで酔いは冷めたけど。
いつもの様に、柔和な雰囲気で結婚を申し出た彼は、直ぐじゃなくて良いから答えを聞かせてね、と私を家に送って帰っていった。
それからしばし、らしくも無く考え込んでしまった私は朝日が昇った頃、ようやく眠りについたのだった。
オーケー、大事な記憶はハッキリと残っている。
「しかしなー……」
ぼやいて、一服。
朝方まで考えて、そして今現在も進行中で、答えが出せていない。
まいったな、と呟いて、窓枠にもたれ掛かるように姿勢を変える。青と白のコントラストの空をぼんやりと眺めて、まいったな、と再度思う。
大学時代からの後輩で、付き合いも五年を越える。このまま行けば、彼と結婚するのかもなーなんて、漠然と考えていたのも本当。昨日までは。
正直、予想以上に速い求婚だったのはある。それでも、素直に嬉しかったのは事実だった。
だけど。
「……いいんかなー……」
このボヤキは、私と彼、両者に向けたもの。
彼との結婚、という事について、色々考えた。メリットも、デメリットも考えた。
そして私が今朝方、眠りにつく前に出した答えが、『どっちでもいい』だった。
彼との結婚生活を考えると、さほど現状と変わらない、メリットもデメリットも私には無いんじゃないか、というのが答えだった。
だからこそ、思った。こんな感じの奴と結婚して、彼は良いのだろうか、と。
彼はきっと、私のことをすごく好いてくれている。彼と付き合う中で、それは充分に感じている。
だからこそ、そんな彼が求めてくれたことに対して、どっちでもいいという答えを出してしまった私は、とても失礼じゃないかと思ってしまう。
結婚したら、子供も欲しい。となれば、今の仕事を休むか、辞めることになる。
もう少し仕事は続けたいという思いはあるけど、彼との結婚生活の方が大事かなぁ、と考えると、仕方ないことかとも思う。
今の仕事を、続けられなくなる。多分それが、私にとって唯一のデメリットと言えることかもしれない。
その分、メリットは大きい。彼と一緒にいる楽しい時間が長くなる。少なからず、私にとって最大のメリットだと思えた。
ただ、現状のままでもいいかな、と思う私もいる。
言うなれば、結婚ということに対して、まったく気持ちが入っていかないのだ。
「……いいんかなー……」
本当にどちらでも良いと、私は思ってしまっている。そこが、一番の問題であり、課題だった。
ううん、と悩みながら三本目のタバコの準備をしている時だった。
部屋の扉が軽くノックされて、
「皐月おね―ちゃーん、起きてるーっ?」
扉越しに、元気な妹の声が届く。
「あー、起きてるよ。どうした?」
「入って良いー?」
「あー、良いよー」
律儀にこちらの返答を待ってから扉を開けた妹、睦月がひょっこりと顔を見せる。
えへー、と楽しそうに笑いながら、
「皐月お姉ちゃん、この間の香水、また少し貰ってもいいっ?」
「あー、あれか? 別にいいよ。てか、そんなに気に入ったんならあげるから、そのまま持っていきな」
「えっ! 本当っ!? やったありがと皐月お姉ちゃんっ!!」
えへへー、と笑みを深くした妹が部屋に入ってきた。
ジーンズに小さく花柄がついたシャツ姿の妹を見て、
「彼氏とデートか?」
「うんっ!」
予想通りの答えと笑顔に、思わず釣られてしまい、小さく笑う。
我が妹は数か月前に、幼い頃から長く思いを寄せていた隣家に住む青年と付き合うことになったらしかった。何やら大学受験に合格した隣家の青年、彼氏からのお礼として付き合いが始まったとか、よく分からない顛末があったらしい。
ともあれ、ただでさえ喧しかった妹は、さらに喧しく、言い換えれば更に多く笑うようになった。
私の机を漁って香水を探す妹を見ながら、幸せそうなのは何よりだ、と想ったりした。そして、ふと浮かんだ疑問を投げ掛けた。
「なあ、睦月。睦月は、彼氏のどこが好きなんだ?」
「え? 全部だよ?」
予想通りではあったが、激甘な答えが返ってきて軽く吹いてむせる。
そうか、と口元に手を当てつつ息を吐き、
「やっぱり、好きな人とは一緒に居たいもんかな」
ちょうど終わったタバコを確認して、片付ける。いくら副流煙が少ないと言えども、未成年の妹の近くでは、吸う気にはならない。
その妹は卓上を探していたが、無いよー、と困ってたいたので、
「引き出しじゃないか? 上から二番目」
「あ、ありがとー。開けるよー」
「あいよー」
やはり断りを入れつつ、これまた乱雑な引き出しの中を探し始めた睦月が、
「んー、そだねー。一緒にいた方が楽しいし気持ちになるし、嬉しいし……あ、あった!」
お目当ての香水を見つけて喜ぶ様子を見ながら、そうか、と返しつつ、
「そういう気持ちも、分らんでもないんだが……いまいち分からんなー」
がしがしと髪を掻く。らしくもなく悩みにハマってしまったようだ。もしかすると、頭痛は二日酔いではないのかも知れない。
ううん、と妙な唸りを零す私に、
「あと、逆もあるかな」
「ん? 逆?」
「そう。逆に、もし睦兄と離れ離れになっちゃうとか、もう会えなくなるとか考えると……すごく、辛い気持ちになるし、私だったら、嫌だーっ!! ってなるから」
香水の瓶を大事そうに胸元に寄せて、
「だから、私は睦兄のことが大好きだなって、思うんだよ」
しみじみと言う妹に、
「なるほどなー……ところで、デートの時間はまだ良いのか?」
「――はっ! そうだったっ! また遅刻して睦兄に怒られるーつ!」
何かに浸っていた睦月は、急に叫びながらバタバタと動き出し、
「あ! 皐月お姉ちゃん、香水ありがとーっ!」
という声にドップラー効果を持たせながら、退室していった。
「遅刻して怒られる、って……」
どうやら彼氏との関係性は、前からとあまり変わっていないようだった。
いくら今までの関係性が変わったとしても、やはり長年築き上げた関係は、そうそう変わるものではないのだろうな、と改めて思う。とすると、やはり、
「どちらでもいいって、なっちゃうんだよなぁ……」
仰ぐように首を傾げつつ、ふと、先ほど騒がしい妹が言い残していった言葉を思い出す。
「もし、離れ離れになるとしたら、か……」
呟いて、考える。結婚した場合とこのまま付き合う場合のパターンは考えていたけど、そもそも離れる、別れるといった考えをしていなかった。
確かに、その可能性もゼロではないよなぁ、と思いつつ、眼を閉じて想像してみる。
もし、彼が私の前から居なくなったとしたら、どうだろうか。
「………………………………………………………なあぁぁー、………分からんなー」
はああー、と大きく一息。
彼氏がいない生活となれば、いなかった頃の生活が戻るだけか、と冷静に思ってしまっただけだった。
我ながら冷たい奴だったんだな、と軽い自己嫌悪に陥ってしまいそうになる。
分からんなぁ、と小さく呟いて、仰ぎっぱなしだった顔を戻す。
そして気分転換にと、タバコに手を伸ばした時だった。
「――うお、なんだ?」
急に水滴が降ってきて、胸元やズボンに落ちる。ぽたぽたと、幾つもの水跡が出来ていく。
雨か? と外を見ても、相変わらずの快晴っぷり。天気雨でも無さそうだ。
「じゃあ、なん――……」
呟きの途中で、気付いた。頬に温かい水滴が、幾筋も流れていることに。
おいおい、と手で拭うが、一向に止まる気配が無かった。
私は、泣いていた。
無意識に、涙を流していた。
おいおい、と再度思って苦笑を浮かべてみるが、
「………ん、ぁっ……」
泣き顔が崩れるだけだった。
何なんだ急に、と自分に問い掛けると、分かっているだろ、と自分に言われた気がした。
「……は、ぁ……」
熱い息が漏れて、より多くの涙が零れた。
ああ、そうだったんだ。
妹が、睦月が言っていたことが、ようやく分かったよ。
――離れ離れになっちゃうとか、もう会えないとしたら――
ああ、そうだな。その通りだ。
今、ここにあるものは、本当の幸せだったんだ。
それが、当たり前になっていただけだった。
その幸せは、当たり前のものでは無いんだ。
自分でちゃんと選ばないと、消えてしまうものなんだ。
「………っ、……は、はっ……ははっ……」
泣き声で、笑った。
ぽろぽろと涙を零しながら、笑った。
だって、可笑しかったんだ。
今まで、気付きもしなかったから。
私が、彼のことを――こんなにも、愛していたなんて。
「……うん、うん……や、ちゃんと、直接伝えたいから。……うん、そだね。……ん、じゃあ、また明日。……うん、わかった、ありがと。――そんじゃ」
通話を終えて、携帯電話をベッドへと放りながら自室を出た時、
「たっだいまーっ!」
威勢よく帰宅した睦月と遭遇した。
「ん、お帰り」
「あ、ただいまー、皐月お姉ちゃ、ん……」
私の顔を見た睦月が、言葉と動きを止める。何となく察しがついた私は、
「腫れてるか?」
久々に大泣きした跡が残っている目元を指さして言うと、うん、と睦月が頷き、
「なんか、嫌なこと、あった?」
心配そうに聞いてくる睦月に、いいや、と返して、
「むしろ、良いことがあったよ。――睦月のおかげでな」
頭をわしゃわしゃと撫でてやる。睦月は少しくすぐったそうに、しかし怪訝な顔で、
「ん……私、何かしたっけ?」
「さてな」
小さく笑い、ポンと頭を叩く。
ふーん? と不思議そうに見る睦月に、
「ああ、そうだ。また正式に決まったら改めて言うけど、先に連絡だけしとくわ」
「え? なになにー?」
「そんな期待を込めた眼で見られる程、大したことじゃないんだが……」
一つ苦笑してから、笑みで告げた。
「私、結婚するから。新しい義兄さんとも、仲良くしてくれよ?」
「あ、うん。………うんっ!?」
直後。
鼓膜がいかれるかと思うくらいの睦月の叫び声が、家中に響き渡った。
あまりに予想通りの反応が面白くて、これまた久々に、私は大笑いした。
笑いすぎたせいで、今日はもう枯れたと思っていた涙が、少しだけ零れた。
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