静寂の森


「はあ、我々だけで……ですか?」


 出立の準備を進める中、兵士の1人が教会側の判断を告げに来ていた。その内容は、今日の前半は参加者を待機させて教会の人員のみでの調査を行うというものだった。

 アトラと同じ班にいた兵士が、素っ頓狂な声をあげて聞き返す。その態度から、これが異例のことであるのがうかがえる。


「あれ、これってオレはどっちなんだ? 待機? 同行?」

「貴方には待機して頂きます。調査は教会のみで行うことになりました」

「ああ、了解」


 伝令役の男はそれだけを伝えると、足早にその場を後にした。護衛役として実力を買われているアトラ、そしておそらくはカラキリも待機し、完全に教会の人員のみによる調査とはなんなのか。その場の誰もが怪訝な表情を浮かべながらも、しかし出発まで時間もない。

 班員全員で担当の兵士の準備を手伝い、残った時間を他愛も無い話題に費やす。そうして突然の変更への戸惑いや不安を吐き出させ、森へと向かう馬車を見送った。


 遠くに見える、森の先端たる樹々。しかしそれは、見た目以上に離れている。到着して簡易とはいえ調査をし、そして結果次第で参加者を乗せて馬車が出発。それはどう計算しても昼食前に済ますのは不可能だろう。


 それを察して、ある者は持参する予定だった簡素な昼食に一品を足すため、食材を求めて街へと繰り出し、またある者は昨夜遅くまで語らって不足気味の睡眠時間を取り戻しにかかる。


 各班の各員が思い思いの行動で時間を過ごそうとする中、アトラも街へと足を向ける。

 歩きながら、大きな背中へ声をかけた。


「おっさん、この街で有名なものってなんだ?」

「おん? ダ・ムーブルのか? そりゃあおめえ、あの黒い修道院と特徴的な岩山っつう街並みだろ。なかなか面白い景観だぜ?」

「いやぁ、それもそうなんだけどさ。もっとこう、動産的な……」


 とんでもなくまわりくどい言いまわしになったことは、言った本人がすでに自覚している。そして目の前の巨漢がそれを見逃さないだろうことも。

 アトラは数瞬後のモンドのニヤケ面を幻視する。


 やや歯切れの悪いアトラの様子に、モンドは一瞬訝しんでから、はは~んと訳知り顔で口角を上げる。側から見て獰猛なそれは、当人の主観では“笑顔”に分類されるらしい。それはアトラの想像よりも遥かに凶面であった。


「なぁるほど。あの見るからにやんごとなき身分の嬢ちゃんだな? ま、物で釣るってのも良いだろうが、ちと相手が悪りぃんじゃねーか?」

「っ、そういうんじゃない! 物で釣るってなんだよ! そうじゃなく、普通にせっかくだから土産の一つも買っとかないとうるさそうなんだ————なんだよその顔は」

「いやあ? 盗っ人がそういうんなら、まあそういうことにしとくか。

 まあそうさなぁ……なんつったか、そう、確か鉱物をくり抜いて作った食器なんかが人気らしいなぁ。俺らはあんまし縁のない一品も、女連中はまあ興味が尽きないらしい。あんなもん、下手に割らねーか気を使うばっかだろうに」

「へー……一応見てみるか……」


 時間の潰し方が決定した。

 アトラはモンドへ礼をすると、教えられた店を目指す。なんでも修道院の足下付近にその店はあるらしい。


 街の中心へと伸びる長く緩やかな上り坂は、見上げると高く反り立って見える。錯覚ではあるが、この道の先の断崖絶壁の頂にある修道院は、人々の賑わいに満ちる街を超然とした佇まいで睥睨するかのような威容を誇っていた。

 

 修道院の足下には、教会と思しき建造物が鎮座していた。白い石材と黒い木材のコントラストは、見る物に畏怖と畏敬を強要するかのようだ。

 修道院へと至る長大な階段は、この威圧感と重厚感のひしめき合っている教会の、その内部から伸びている。時間があれば修道院の手前まで登り、そこから眺めた街や景色を楽しめないかと密かに画策していたアトラは、小さく落胆の息を漏らした。どうやら好き勝手に立ち入れるものではないらしい。ルカへの土産話の一つに出来ないかと考えていたが、このネタは諦める他ないだろう。


「ま、もう土産話は十分にあるし、ひやかしひやかしっと」


 目当ての店はすぐに目についた。

 店の佇まいからして気品に溢れ、飾りガラスから透かし見る店内は、広々とした空間に、色とりどりのガラス細工や例の宝石食器と思われる品々が陳列されていた。一見して不用心とも感じたが、これも教国ならではの光景と言えよう。


 アトラは暫しその威容に店先で固まる他なかったが、店内からの視線を受けて覚悟を決める。

 痩せ我慢気味に歩を進めるアトラだったが、さっきまで頼もしかった財布の重みは、なぜか今は羽が如くふわふわとして頼りない。吹けば飛ぶのではないかという錯覚に惑うアトラの額は、視界の端に認めた値札の冗談じみた存在感に気圧され、冷え切った汗に濡れていた。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - -



 森へと到着した調査隊は、到着と同時に部隊の再編成が行われ、目標地点へと散っていった。

 そして、その各所で戦闘が起きる。魔物相手のものではない。人間を相手とした、人同士の殺し合いだった————。


「赤いローブ……邪教徒どもかッ⁉︎」


 叫んだ男の喉仏に、歪に波立つ刃が刺し込まれる。

 赤いローブに木の仮面。不気味な出立ちの襲撃者へ、隊員らはすぐさま得物で斬りかかろうとした。が、その直前に感じた威圧感によって、その全身が硬直する。


「まだ終わってネェの? ……チッ。お前ら何してたんだよ。俺がアビさんにネチネチ言われることになるの、理解してんのか?」


 苛立ちを隠さないながらも、なお冷淡な声だった。

 金の髪を後ろに軽くまとめ、余った髪を無造作に重力へ任せている。抜かれた刀身は禍々しい気配を辺りへ垂れ流し、見るだけで背筋に冷たいものを走らせる不吉さを纏っていた。

 翡翠色の瞳には侮蔑的色合いしか浮かんでおらず、凡そ仲間へと向けるべき視線ではない。兵士ら8名へと一瞬移った視線は、対峙しているものをまるで障害とみなしていないのが、向けられた当人たちにはありありと感じられた。


 突如現れた強者は、羽虫でも払い除けるような仕草を見せる。それだけで、兵士らを標的と見据えていたいくつもの気配が遠ざかって行く。この場には兵士8名と謎の剣士が残された。

 金髪の剣士はもう一度舌を打ってから、左手に持っていた木の仮面で顔を隠す。それだけで、もう兵士たちは誰1人として翡翠色の瞳を思い出せなくなっていた。

 剣士の携える黒剣から、黒いタールのような液体が滴り落ちる。

 それは土の上に落ちながら、なおもグズグズと沸騰するように蠢いた。

 それがこの剣で斬りつけられた者の血であると気づかなかったのは、彼らにとっては幸いだったのかもしれない。


 そんな剣士へ向けて、3本の矢が音もなく放たれる。銀の軌跡は緩やかな曲線を描き、3方向から的へと殺到する。と同時に、槍を持った兵士は突撃を開始した。

 矢が退路を断ち、矢への対処に手を割けば、必然槍へと致命の隙を生じてしまう。優れた連携だった。


 弓の3人。短槍の3人。そして〈聖障結界〉の展開とその維持の2人。先ほどは暗殺者然とした奇襲により死者を出したものの、一度立て直してしまえば彼らとて精鋭たる教国兵士なのだ。他国の平均的兵士などとは装備も練度も違う。


 しかし、そんな連携などという弱者の創意工夫は、完成した“個”の前に蹂躙される。

 矢は的へ届く前に、見えない壁に阻まれた。だがこれ自体はまだいい。まだ想定の範疇なのだ。〈障壁魔法〉を使えばそうなるのであるし、〈聖障結界〉を用いる彼らが目の前の現象に驚愕する理由はない。見慣れた光景だ。

 故に、驚愕を誘ったのは別の事象。真っ赤なと、それを発生させた事象だった。

 

 高速で移動する大質量に挟まれたかのごとく四散する肉片。弓兵の元まで飛んできた、その頭髪の生えたものは、まさか頭皮なのか。

 剣士の眼前には、衣服や装具によって辛うじてヒトの形と察せられる肉塊が、ぐちゃぐちゃぴちゃぴちゃと、痙攣して水音をたてている。それはもはや服にひき肉を詰め、生き血をぶち撒けた様相そのものだった。


 男たちは茫然と、音ひとつ立てずに硬直していた。未だに脳の処理が追いつかない。あの振動する肉を、さっきまで隣で肩を並べていた仲間だとは認識できず、彼らの頭は『破裂音がした瞬間に、味方がひき肉とすり替えられた』という、あり得ない説明で自身を納得させようと努めていた。その方が、目の前の凄惨な光景や差し迫った危険、埋めようもない絶望的な隔絶を直視するよりずっと良い。

 一種の防衛反応と言えた。


 しかし、その硬直は戦闘中に関しては致命的停滞である。前衛を失ったと理解したなら、弓兵は即座に退くか剣に持ち替えるかを選択しなければならない。それが遅れただけで、彼らは無抵抗に地面に赤い判を捺すための朱肉となった。

 結界と障壁の性格を両立する〈聖障結界〉など、何の役にも立たない。


 残りが2人となるころには、硬直からようやく立ち直り、1人が短剣を用いて突貫し、1人は緊急事態を知らせる腕輪を起動させながら、背を向けて離脱に駆ける。

 敵の未知の能力が明かされた以上、殲滅される訳にはいかないのだ。情報を持ち帰り、詳細を伝え、対応を講じる必要がある。

 背後で味方の雄叫びが呆気なくついえた恐怖も二の次だ。


「ハァっ、ハッ、ハァぁあ……ッ————」


 悲鳴の漏れ出る荒い呼吸。その合間に、彼は右肩に鋭い痛みを自覚した。それは根を張るように、ジクジクと深く、広く拡大しつつある。

 急にその肩から力が抜け、彼は減速もままならないままに転倒する。


「ああ、やっぱ効果的面だなコリャ」


 気の抜けた声に振り返ると、敵の剣士が剣を抜いた状態で立ち尽くしていた。敵意もなく、先ほどまで確かに向けられていた殺意もなかった。それはまるで、もう全てが終わった時のような、残心にも似た時間。


「ッあァ……⁉︎」


 ビキリと痛みが走る。見れば、傷口は既に壊死を始め、崩壊の兆しを波及させていた。タールのような液体が、膿の様に流れ出る。あの禍々しい剣によるものとまでは分かっても、彼にはその対処法など分かるはずもなかった。


 腐り落ちて行く人肉を、冷めた瞳が見つめている。

 剣士に思われた男は、その実剣士でも戦士でもなかった。彼の武器は、先ほど猛威を振るった不可視の力だ。考えるだけで身を守り、望むままに敵を屠るそれこそが〈装甲思念〉と呼ばれる、彼が生まれ持った形ある思念だった。

 攻防一体の万能の装甲。故に、彼は剣など振るう必要がない。もし彼が剣を振るなら、それは単なる遊興でしかないのだろう。つまり、この酸鼻な腐乱臭漂う光景も、彼にとっては手遊び同然の所業だった。


 腕輪の使用を認めても尚、男には慌てた様子などない。腕輪は森のいたる場所で使用されているはずだ。その数は、レティシカ含む主力部隊が対応できる範囲を大きく超えている。こんな優先度も低い泡沫部隊の元まで急行するとは考えられないのだ。

 それに、じきに〈単話神言〉が発現すれば、教会側の魔道具はその大部分が機能を失うことになる。そうなれば助けを求める部隊の所在も判断できなくなり、森はただの狩場と化す。


「ハッ、そう上手くもいかないかもな。もうアビさんの予定を外してっし」


 今回の目標は、あくまでも一般の参加者たちだ。教会に所属する人間は祭壇への供物として不適格なのだ。術式が発現し、この森の広域に渡って祭壇としての性格が付与されたとしても、こう教会兵の血ばかり捧げても、それは術式の安定化にしか寄与しない。

 戦闘では優位にあっても、司祭らにとって状況は逼迫しつつあった。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -



「……っ、……? これ…………」


 その頃、アトラもアトラで撤退戦の只中にあった。とはいえ、どうにも旗色は悪い。

 柔和な笑みを湛える店員の、優雅でありながらも逃げ場を着実に塞いでいくセールストーク。その火力を前に、アトラはじりじりと追い詰められつつあった。

 入店の瞬間からアトラの服が見たこともないほどに質の高いものだと看破した店員は、その短くない人生で培ってきた“買わせ”の技術と、師から受け継いだ引き留めの叡智を総動員し、目の前の獲物を落とすことに手腕を振るっていたのである。口下手が自己評価であるところのアトラでは、甚だ勝負にならない。


 いよいよ退路を失いつつあるアトラは、ここで奇妙な感覚に息を止めた。身につけたままになっている、銀の腕輪に意識を集中させる。


 いましがた感じた、か細く微弱な反応。気のせいか否かの判断もつかないほどに微かだったそれは、その一度を最後に沈黙している。

 ならば気の所為に違いないとも思えた。が、アトラの胸には不思議な焦燥感と不吉な予感が去来する。


「————悪いけど、ちょっと用事ができた! そのやたらと素晴らしいっていうヤツはまた今度にしとくんで、じゃあ!」


 矢継ぎ早に言い残すと、アトラは直感に急かされるように店を後にした。勝ちを確信した直後の思わぬ強行突破に、店員が浮かべた苦々しげな表情に気付きもせずに外に出て森の方角を見ると、直感はさらなる強度で警鐘を鳴らす。

 人混みの頭上を跳躍しながら待機場所へと戻る頃には、アトラは森で何か起きているのだと確信するに至っていた。


 正直なところ、仮に森でこちらの預かり知らぬどんな事柄が発生していようとも、そんなものはアトラの知るところでない。教会の面倒事は教会で解決されるべきであり、間違ってもそれを手助けしようなどとは吸血鬼の身で考えるはずもなかった。


 しかしたった今、森にはアトラと同じく共に狩りをした仲間がいる。彼らの思わぬ人間的一面を多く見た。班員として何かと気にかけてくれていたのも知っている。やたらと噛み付きたがる若い守門を請け負ってくれたのも知っている。その彼らだけが気掛かりで、それだけでアトラは身支度を完了していた。


 随分と気の早いその出立ちに、男としてはいささか可憐な声がかけられる。カラキリだった。


「アトラ殿、如何したのだ? 未だ出立には早いと思うが……?」

「腕輪が反応した気がするんだよ。それに……なんだか胸騒ぎがする。ちょっと森の様子を見て来ようってさ」

「ちょっと様子を、と言うには距離が……いや、それよりも胸騒ぎとは、なにか物騒事が森に起きているという意味か、アトラ殿。わしの輪っかはうんともすんとも言わなかったが…………」


 “よもや壊したか……?”と恐る恐る腕輪をつつくカラキリに、一瞬だけ頬が緩む。だが胸の焦燥は萎えることなく急きたてていた。そんなアトラにカラキリは自身も同行する旨を伝えると、支度をして馬車に集合することになった。

 

 集合までを、昨日のレティシカのように森を遠くに睨みながら待っていると、カラキリのものと思しき気配の他に、余計な気配がぞろぞろと続くのを感知して、アトラは訝しんで振り向いた————


「俺も連れてけ」


 モンドの言葉に、アトラは渋面で向かい合っていた。

 他の見知った顔達など、もう行くのが決まったように馬車に乗っている。用意のいいことに馬の準備も済ませていると来ていた。どうあっても来る気だろう。


「同じ班の仲間が危ねえってんならよ、ほっとく訳にはいかねえだろ」

「危ないかは確定じゃないし、むしろ何もないかもしれない」

「おめえさんの勘の良さは分かってんだぜ? まあ外したなら、そんときゃ早とちりを笑ってやる。当分ネタにするから、今のうちに覚悟しとけや」


 バシィッ!とアトラの小さな肩を叩き、モンドは豪快に笑いながら馬車へ向かった。その背を、アトラは苦笑混じりに見送りかけて、慌てて後を追う。もう自分以外の全員が支度を整え切っていた。


 御者の座席にはモンドが腰掛けた。元々隊商の経験があったモンドは、馬の扱いもよくよく心得ていた。馬車は滑らかに動き出すと、淀みなく道を進んでいく。


 勇み足で飛び出せど、さりとて道中は暇を持て余すものである。そんな中では、カラキリの語る異国の情景が皆の無聊の慰めとなった。遠い異国の話題に心を動かさない男はおらず、特にモンドなどはしきりに仔細を知りたがり、その度に御者台へ押し戻されて笑いを誘った。そんな、これより死地に赴くとは信じられないほどの和やかな空気を纏わせて、馬車は刻々と森へ近づいて行く。


 不気味にアトラを苛んでいた焦燥感は、仲間と笑い合ううちになりを潜めつつあり、アトラは改めて仲間と行動することの強みを知り、1人で悩む心細さへの処方を学ぶのだった。



- - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 

 道中、見覚えのある幌馬車とすれ違った。

 教会側が使っているものだ。御者台にはやはりどこかで見た兵士がいた。歳はおっさんとそう変わらなく見える。


「あれ、モンドさん⁈ どうしたんですかこんなところで」

「ああ、いやぁコイツが嫌な予感がする、森で何かあったかもなぁんて言ってましてなあ。要はビビっとるんですわ! しかしこれでも手癖の悪さと勘の良さが取り柄なヤツなんでねえ、シカトって訳にも行かんもんです。だもんで、取り敢えず俺らだけでも行って、何が起きても起きなくてもお手伝いができねえもんかってね————」


 向かい合う形で隣り合う馬車。

 話題に出される度に、おっさんのでかい手がオレの頭をワシワシとしたり、肩やら背中やらをバシバシとする。何となく2人は顔見知りなんだと思ったが、それも不自然じゃない。だって住んでる町が同じなんだ。私的な付き合いがあるなんてこともあるだろう。


 ふと、気になることがあって口を挟んだ。


「そういえば、その馬車で街に戻るってことは、もしかして調査の結果異常なしだから出発だって伝えに?」

「ん? いや、はは、どうでしょうねえ。それはまだなんとも言えないんですよ」

「? それは……どういう意味だ??」

「おいこら盗っ人。どういう意味ですか、だろーが! この人には俺の女房がエラい世話になったんだ、口には気をつけろ!」


 あ、と思ったときには頭にデカいのをもらっていた。どうにもうまくいかない。

 いい加減自覚しつつあったが、オレは薄っすらと人間全般を見下している節があるらしい。ある程度親しめば、親しいなりの敬意は湧く。

 理屈の上でも、相手は歳上だから敬意を示せくらいのことは理解している。


 しかし、それ以前の年齢以外の領域で、オレは人間は下だと感じていた。最近までは無自覚に。今でなお無意識に。

 例えるなら、“おれはオマエより足のサイズがデカいから敬意を待て”とか、“おれの方が鼻が高いから、そこんとこ弁えろ”とか言われたらどう思うか。その感覚に近いと思う。


————年齢云々以前に、お前は人間だろ?


 要するに、オレの無意識とはこういうことらしかった。

 余計なトラブルを招きかねないのも分かってる。そろそろ気をつけないとな……。


 ひと言詫びて頭を下げ、さっきの言葉の意味を重ねて訊いた。

 もしやみんななら分かるのかと視線で問いかけたが、やはりおかしいのは兵士の言葉の方らしかった。自分の言葉で困惑させたのを見てとったんだろう。男はいそいそと後ろの荷台に手を突っ込んで、小さな水晶玉のようなものをかざして見せた。


「街に戻るまでに、こいつが赤くなったなら異常あり。ならなかったら異常なしってことらしいです。少しでも早く再開させるための工夫ですね」

「今のところは異常なしみたいですね」

「ええ、調査結果がまだ出てないのか、はたまた異常なしって結果が出ているのかですね。レティシカさんの私物みたいで、私もあんまり詳しくはないんですが」


 オレの感じていた不吉な予感に反して、その小さな水晶玉は微かに青を含む透き通った様を見せている。やはり気のせいってことなのか……?


 今に至るまで反応のない腕輪といい、目の前の透明な球体といい、どうやら結果はオレの早とちりということで間違いなさそうだという空気が馬車を満たす。

 弛緩した空気をそのままに、兵士の男と別れを告げて馬車は再び進んだ。


 そしてさらにしばらくの時が過ぎ、馬車は巨大な聖なる森に辿り着く。


 ————そこは、あまりにも静かすぎた。


 森で負傷した場合に治療したり、休憩できるための後方基地的役割を果たす天幕には、誰ひとりとしていない。出迎えもなければ治癒師も守備隊も、レティシカ含む討伐隊もいなかった。

 調査隊がどのような編成をされ、どのような作戦で動くのかは知らない。だが、後方に誰1人いないのは明らかにおかしい。早く調査を終えて、本来のように祭りを再開したいから急いだにしても、負傷者への備えを天幕だけ作っておいて、人員を割いていないなんてあべこべなことをするはずない。


 虫の声も風のざわめきもない、無音の空間。まるで生物が忽然と消えた世界に、オレたちだけが取り残されたような錯覚に捉われそうになる。


 腕輪には相変わらず反応なし。

 馬車を降りたみんなも、これは想定外だった。呆然と、どうすればいいのかと目配せし合う。


「ここで待つか、森に入るかだな、アトラ殿。ここに留まれば、森に入るより安全だろう。そのうちに調査隊が帰ってきた折りに、目的人物の安否も自ずと知れる。

 だが、アトラ殿が結果を聞きにきたのではなく助けにきたのであれば、当然この深閑たる森に入り対象を探しあて、保護・救出せねばならんな」


 沈黙を破って、カラキリは淡々と口を開いて状況を告げた。残るか入るか。

 その声には緊張も狼狽もなく、いつもの泰然とした響きだけがあった。思えば、カラキリには出発の時点で覚悟があったのだろう。それは、具体的に目の前の事態が起こるという覚悟ではなく、何が起きても付き合うという包括的な覚悟。

 それに後押しされた。


「オレは奥に進む。元々助けに来たんだし、何が起きてるなら尚更向かわないとだ」

「うむ、承知した!」

「俺らも当然行くぜ。こういうときに加勢しねえとな」


 結局待機したいと言い出す者もなく、オレたちは全員で薄暗い静寂の森へと踏み入るのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る