霧幻の女
空知音
第1話
この道を歩くのは何度目だろう。
石畳の城下町から草原へ、そして、森へ。
この森には『霧の森』という名前があるが、その名の通り、いつも霧に包まれている。
特に朝方、夕方は霧が濃く、森の中を抜ける一本道は、その時間、通る者もいない。
人々は、霧の中で魔獣に不意打ちされるのを恐れているのだ。
だから、この時間に森の中へ分け入ろうとする者はいない。
私を除いては。
この森の霧は、この世界に二つある月の運航と連動していて、それらがお互いに最も近づくとき、霧がひときわ濃くなることが知られている。
そのため、旅人はその時期を避け、森を通ることになる。
これも、私を除いては。
私は、一月に一度、二つの月が最も近づくとき、つまり霧が最も濃くなる時を狙って森の中にある遺跡を訪れるのだ。
この遺跡は、ギルドからの討伐依頼で森を訪れた時、偶然見つけたものだ。
非常に古いもので、緑の苔に覆われた数個の石が転がっているだけに見える。
しかし、近づいてよく見ると、その内のいくつかは明らかに人の手が入った形をしていた。
その中の一つ、地面から円柱形の台座だけが突き出したものが私の目的だ。
台座は人が座る椅子ほどの大きさで、わずかに見える文字のようなものから、おそらく古代魔術王国のものだと思われる。かの文明が華やかなりし頃には、台座の上に何かが置かれていたのだろう。
台座近くの石に腰を降ろし、その時を待つ。
霧が次第に濃くなり、周囲の木々が見えなくなる。
木々の匂いが、むせるように私を包み込む。
細かい粒子の雨が煙るように降りだすと、いつものようにそれが始まる。
台座が青い光を薄く帯び、その上に白い光の粒子が立ち昇る。
やがて光の集まりに濃淡がつきはじめ、次第に見慣れたものが姿を現す。
それは、小柄な女性だった。
今では一地方の祭りでしか見られない、伝統衣装に似た薄紫色の貫頭衣を身に着けている。
長い髪、細面の顔、筆で描いたような細い眉、すっと伸びた鼻筋の下にはふっくらした唇がある。
そして、私が初めて彼女に会ったとき、一瞬で心を奪われたその瞳。薄く青みがかった瞳は憂いを帯び、一方向を見つめている。
『そなたは、たれであろう』
小さな唇の動きに合わせ、小さな声が聞こえる。
ただ、それは空気を震わせることのない、頭の中にだけ聞こえる声だった。
私は立ち上がり、女性と視線を合わせる。
彼女が発する淡い光で、周囲の雨がきらめいた。
『われを、たずねてくれ、かんしゃする。
ささやかなうたいで、それに、むくいよう』
女性の声が低く細くやがて緩やかに波打つ旋律となり、私の中へ流れこんでくる。
その波は次第に大きくなり、心の中に複雑な形を描き始める。
三角形に、四角形に、多角形に、そして円へと。
小さく、大きく、さらに大きく、そして無限大に。
やがて、それが弾けると、声は緩やかな波を描き、そして消える。
『また、そなたに、あえんことを』
頭の中でそんな声すると、女性の姿は白い粒子となり、雨に溶けた。
私の魂を捉えて離さない彼女は、しかし、呼びかけに答えてくれたことはない。
いつも同じセリフ、同じ歌。
何度、彼女に呼び掛けただろう。
届かぬ思いは、それでも私をこの場所まで連れてくる。
雨が止み、周囲の木々が見えるほど霧が薄まると、私はゆっくり歩き出す。
またここを訪れるだろう。
声も交わせない彼女を求めて。
男が立ち去ると、
再び霧が濃くなり、雨が降る。
台座が光り、光の粒子が女性の姿となった。
「愛しいあなた。
私の事はもう忘れて、自分の時を生きてください。
私は、時の中に閉じ込められた存在。
あなたに求められても応えることの叶わない幽霊」
雨の雫が一つ、女性のまつ毛を濡らし、頬を伝い流れ落ちる。
彼女の呼びかけに、霧でけぶる森は葉鳴りの音を返してくれた。
まるで、彼女を包み込むかのように。
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