モフる走査線

元とろろ

第1話 来て去った犬

 この事件が起きたのは赫野帝かくやてい陛下がついに天下統一を完遂あそばしてから二年ほど経った頃のことである。


 我々が暮らしていた英土えどの町は帝都と名を改め、その実生活の上でも大きな変化を迎えていた。


 戦国の世が終わり張りつめていた空気が穏やかになったというだけでなく、この町に新たに住むことになった人々が新たな風を吹き入れたのだ。


 その結果、私のような鼠人は人数だけでなく町での生活習慣上でもすっかり小数派となっていた。例えば急ぎの時に板葺きの屋根の上を走るかどうか、席の空いた店で隅の席に向かうかどうかというような、いずれも些細なことではあるが。


 もちろんそれは我々だけのことではない。狐人も、狸人も、猫人も、無尾人も。皇帝陛下と種を同じくする狼人も、みなそれぞれが同族以外の全てに比してはるかに少なくなっていたのだ。


 それでも雑多、胡乱な帝都に私もいつの間にか慣れ始めていて、骨ごと肉を食う虎人や、しばらく首なしで動き回って急にどたっと倒れる虫人も平気な顔で見ていられるようになっていた。


 なにより変わらぬ風景というのも確かにあるのだ。


 棒手振りが騒がしく食い物を売り歩き、それを呼び止める客の声が飛び交い、華やかな呉服屋や地本問屋が立ち並ぶ表通りの喧騒は、濃度を増したが以前と同じものだ。


 裏町の静けさもそうだろう。ここに住むような町人職人の類は大抵、仕事の音だけを響かせて昼を過ごしていた。




「お前は手、動かしてないな」


 部屋の真ん中、畳の上に転がる狐人が視界に入り、そう声が漏れた。


 嫌味を言いたかったわけではないが、狭い部屋だからはっきり聞こえたはずだ。


「平和の証じゃねえか」


 不破藻文ふわもふみはこちらに背を向けたまま力なく言い返した。


 でかい体である。毛で膨らんでいるせいで実態より大きく見える。


 立てば見上げることになるが、寝ていても邪魔くさい。


 こいつと食べている物にさして差はない。純然たる種族差で、彼と私には決して超えられない壁というものがある。

 

 駆け足なら私の方が速いとはいえ、ちょっと鍛えたところで声の大きさや力の強さでは決してかなわないのだ。

 

 ともかくいつもはうるさいうえに元気な男である。

 

 それが今はふさふさと黒い毛が生えた三角の耳はうなだれ、しめ縄のような尾も床にだらりと垂れていた。

 

 体全体でしょぼくれている。ここ二、三日こうである。

 

 彼自身、暇を持て余しているのだ。

 

 事件はなく、遊ぶほどの金もなく、書類整理はかえって仕事を増やすからと私が禁じた。


「まあ、なんだ。そろそろ誰かが来るだろう。帝都の平和が長続きした試しはない」


「三日続いてんだから長続きだろ……いや、ほんとに来たぞ、おい」


「何?」


 玄関の障子戸に目を向ける。裏写しの探偵藻文という下手くそな字と耳の出ていない丸い人影が見えていた。私はやっと来客に気が付いた。


 出迎える間もなく戸ががたがたと音を立てて開いた。建付けが悪い。


「ごきげんよう」


 ひと月ぶりに見る顔に藻文も体を起こして頭を下げた。


「お久しぶりです。塗山とざんのお嬢さん」


 ひらひらした布の多い黒い洋装の少女である。狐人と聞いているが無尾人にしか見えない。


 化けているのだ。


 ここまで完全に化けられるのは狐人でももはや彼女くらいしか残っていないのではないか、と思える化けっぷりで、最近町でも見るようになった日傘やらなんやらも様になっている。


 化けるといえば、耳や尾だけではなく年もごまかしている節はあるが、私たちは必ずお嬢さんと呼ぶことにしている。


 ちなみに顔の造作も整っているがいじってはいないらしい。


 我々のろくでもない店に時折依頼を持ち込んでくれる人物だが、彼女自身が依頼人であるということはまずない。


 何度か持ち込まれた事件の全てにおいて、彼女の立場は身分を明かせない誰か、すなわち身分のある誰か、の代理人だった。


 そして全ての事件の依頼人が同一人物ということはあり得ないだろう、という見解を一致させたところで私たちはそれ以上の詮索をしないことに決めた。


 そうはいっても察してしまうこともあるのだが。


「二人とも元気そうでよかったわ。また頼みたいことがあるのだけど」


「ええ、まずはお座りになってください」


「むさ苦しいところですが」


 藻文の伸ばしっぱなしの髪が背にかかるのが目に入り、座布団を出しながらそう付け加えずにいられなかった。


「今回はこの子を探してもらいたいの」


 すわ誘拐か、と身構えたが、畳の上に差し出された写真には見慣れない生物が映っていた。


 全身が白く長い毛で覆われており、目が隠れていて大きな耳が垂れている。四つ足の動物のようだが比較できるものが映っていないから大きさはよくわからない。


「ああ、こりゃあ外国の犬ですね」


「これが犬なのか?」


 普段の仕事において依頼人が話をする間、質問する役目は藻文に任せているのだが、思わず聞き返してしまった。


 釈明するが私に疑う考えは全くない。彼はこの類のけだものが好きだということは十分知っている。藻文が犬というなら犬なのだろう。


 単に見慣れない奇妙な生物の写真が衝撃だっただけだ。


「ええ、特別に海外から取り寄せたのだけど。一昨日の夜にさらわれちゃったのよ」


「さらわれた?」


 困っちゃうわよね、と片手を頬にあてて首を傾げた。


「港で依頼人の使いが受け取ってすぐ、港を出る直前にケージごと持っていかれたんですって」


「はあ、そのケージは格子だったんですかい?」


「正面の戸だけが格子だったはずね。一般的な移動用のケージです」


「犬が鳴かなかったってことはないんでしょう?」


「吠え声を頼りに追ったけど逃げられた、と話してたわ」


「一昨日の夜とおっしゃいましたね。正確な時刻は?」


「そうね。日付けが変わる直前くらいよ」


「さらっていった奴については?」


「虎人の大男らしかったけど、まだ見つかってないわね」


「その捜査は誰が?」


「依頼人の信頼できる部下だけよ。今も仕事は続けてるはずだけど」


 つまり同心には連絡していないのだ。正確には個人的に動く息のかかった同心はいるかもしれないが、少なくとも奉行所には伝えていないのだろう。


 厄介ごとのようである。それがいつも通りではあるが。


「身代金の要求は?」


「特になし」


「闇市で売られたりは?」


「今のところないわね。そうなったら買い戻して終わりだけど」


「なるほど、このワンちゃんの名前は?」


「まだ付けてないわ。ただ、売り主たちはケーヘンと呼んでいました」


「ケーヘンですか。いや、ケーヘン? それは名前ではなく、犬種じゃあないですか

 ね?」


「ええ、さすが藻文君は知ってるのね。ジロー君は聞いたことあるかしら?」


「いえ、全く存じません」


 私が知る犬といえばシバくらいのものだ。


「あれを取り寄せたと。そいつはまた……」


「そういうことです。別のケーヘンを取り寄せる当てもないし、取り戻したいというのが依頼人の意向だけど、私としては居場所がわかればそこまででもいいわ」


「どういうことです?」


 また、口を挟まずにはいられなかった。ひどく奇妙だ。


 ケーヘンという犬種に特別いわくがあるらしいことは察せたが、それよりもお嬢さんの最後の発言が気にかかる。


 まるで依頼人に犬を渡したがっていないように聞こえた。


 取引が真夜中であったことといい、奉行所に知らせないことといい、この犬を取り寄せること自体が後ろ暗いように思えたが、お嬢さんの立場がよくわからない。


 乗り気ではないが仕方なく探しているというだけか、明確に犬が見つからないことを望んでいるのか。


 我々としては受けた依頼は達成せねばならないのであるが。


「実際にどうするかはそちらにお任せします。さて、依頼を受けていただけるかしら?」


 藻文がこちらを見たので私は何も言わず首を振った。これについてはそもそも選択肢などなかった。我々には他の仕事も金もないのだ。


「では詳しい話をお願いします」


 こうして我々は新たな依頼を得たのである。



 潮の香りが強い。磯臭いともいう。町中では様々なにおいが混じりあうから、やはり港まで来なければ海の香りは感じられない。


 犬がいなくなったという帝都港は相当に広い。目に馴染んだ木造の帆船は帆をたたみ、黒鉄の蒸気船は煙を吹かず沈黙している。


 停泊している船は片手で数えられるほどで、開けた青い空と海の中では随分と小さく見える。


 低い波の音と高い鳥の鳴き声が耳に入る。ここにも静かな昼があった。


 港全域を調べるのは困難だ。まずは船が犬を降ろした埠頭に絞って捜索することになった。


 迷い犬を探すのは藻文の得意分野である。今回は誘拐だそうだが、それでも私よりは向いている。基本的には彼の指示に従って動く。


「で、どうする?」


「お前が聞き込みしてくれ。俺は離れて見てる」


 真面目な顔でこちらに鼻面を向ける藻文がいやにむかつく。実際多少いらつかせるような言い方だが、彼がそうするのには理由がある。


 今回に関しては捜査自体が撒き餌なのだ。


 事件は夜間のことで目撃者自体がほとんどいない、だから聞き込みではたいして成果を得られない。この点には実行犯も自信があるだろう。


 


 そして現場に顔を出さない首謀者がいたとすれば。なんの痕跡のない事件現場でも探られていると知れば不安に思うはずだ。


 何らかの妨害が入ると踏んでいる。そして相手が動けば動くほど手掛かりは増える。


 そういうわけで私は成果のない聞き込みを繰り返すこととなった。


 さて、生来真面目な私は任された役割を消して投げ出しはしない。しかし正直に言ってあまり身が入る仕事でもない。いつしかぼんやりと空想を始めていた。


 消えた犬についてである。真っ白い毛の長い犬がどことも知れぬ空間にいる。


 どんな場所にいるか想像もつかないから、想像の中では真っ暗闇の中に白い犬だけが浮かび上がっている。


 綱に繋がれても籠に入れられてもいないで、犬らしく座ったり、毛深い足を動かして歩いたり、舌を出してはっはっと息をしたり。


 そんな愚にもつかぬことを考えていた、その時だった。


「牛車だ!」


 誰かが叫んでいた。


 その時にやっと目の前の光景に気が付いた。


 確かにそれは牛車だった。牛が牽引する二輪の車だ。


 しかし私が普段その言葉を聞いて思い浮かべるような、古式ゆかしい貴族が供の者を並べてゆったりと進むというような、穏やかな情景とは程遠かった。


 牛の背後に土煙が低く立ち上っていた。埋立地であり潮風の吹く港の土質はべったりとしている上に、大勢の人によって踏み固められているはずで、並の衝撃ではそうはならないと思えた。


 力強く疾駆するそれが私に向かっていると気づいた時、私はとっさに左右を見回した。


 癖で屋根に上ろうとしたのだが建物は近くになく、転がるように脇に飛びのいたのは牛車が駆け抜けて行く直前だった。


 流石に後手に回っても動きが機敏な私だ。全くの無傷。


 振り向けば暴れ牛はなお走り続け、ついには海へ落ちていった。


「まずいな」


 押し込められた時間が正常に流れ出したような感覚の中、現状がやっと飲み込めてきた。


 今も近くにいたラッコ人達がばしゃばしゃと海へ入っているが、小柄で力も弱い彼らでは牛も車も引き上げるのは難しいだろう。


 私も水際まで駆け付け、全身の毛を濡らして陸へ戻った彼らに声をかけた。


「助けられないのか?」


「いや、くびきは外せたよ。自分で泳げるよ」


 確かに牛は海面から頭を出している。多少は頭を冷やしたのか、陸ほどうまく動けないせいか、ざぶざぶと大きな波を立ててはいたがゆっくりとした泳ぎである。


「しかし車は?」


「誰も乗ってなかった」


 いないいない、と濡れた毛の張り付いた短い腕を振っている。周りのラッコ人も口々に無人だったと主張した。濡れたまま首を振るので少しばかり水が飛ぶ。


 私としても物だけなら沈んでもいいという言い草に反論する気はない。


 私は牛車が来た方を見やった。藻文は牛車をけしかけた何者かを追っているはずである。




「だいたい、わかったぜ」


 長屋に戻った藻文は毛を逆立てて息を切らしていたが負傷などはなかった。薄汚れているのはいつものことである。


 さて、私が港で聞き込みを行った狙いが首謀者の手の者を誘い出すことだと先に述べた。


 ではその首謀者、真犯人についてはどのような人物を想定しているか。


 これについて私たちは藻文がお嬢さんにした質問の答えから推論を立てていた。


 まず犯人の目的について。犬そのものを欲しているか、犬が依頼人の手に渡るのを阻止することが目的だと思われた。


 ケージの中身が犬であることは明らかだったし、犬を金に換えることは目的ではない。


 さらに言えば、たまたま港に居合わせたとも考えにくく、何らかの手段で犬が取引される時刻と場所について知っていたのではないかと思える。


 依頼人は秘密裏に犬を取り寄せる貴族。そして犯人はその情報を知り、同じ犬を欲する者。


 ついでに言えば短絡的な手段に手を出す浅慮な者、もといもみ消しを得意とし平気で荒事を起こす面倒くさい相手を想定している。


 犯人もまた貴族であり、依頼人とは犬をめぐって競合する立場にあったのではないか、というのが我々の推測である。


 貴族内の問題ということならお嬢さんが内々で片をつけてもおかしくない。しかし我々に依頼したということは犬の居場所は本当にわかっていないのだろう。


 犯人あるいは疑わしい人物についてはわかっていて隠しているのだろうが。


 と、ここまでが私に考え付いたことである。


 藻文はさらにケーヘンについての知識を補足してくれた。


「ケーヘンてのは普通の犬じゃねえ。いわゆる霊獣だ。霊獣の谿辺な」


「そう言われても知らんよ。それは珍しいというだけではないのか?」


「珍しすぎる。毛皮は縁起物だが殺すのも捕まえるのも禁止されてる」


「今度の事件は発端の取引からして表沙汰にできんと」


「ああ。盗み方が雑なのもそのせいだろう。奉行所に言えねえだろうって高をくくってんのさ。何かの事情で焦ってるっていう風にも考えられるが」


「それでどうする。毛皮が縁起物と言ったな? つまり依頼人だの盗人だのは生きたケーヘンが欲しいのではなく」


「ずっと昔に加工された毛皮を買いましたってことにしたいんだろうなあ。来月に皇帝の生誕祭があるだろ。献上品にするつもりだったんじゃないか。赫野帝の祖先の富煙帝は腹の病気にかかって谿辺の敷物で邪気払いをしたら回復したって話が――」


「それは知らんが。我々が犬を取り返したら毛皮にされるのか? いや、盗人はもうやったか?」


「霊獣だからな。きちんとした手順でやらんと駄目にしちまう。いろいろ必要な用意もある。絞めるには三日前から清水だけで生かすとかな。まだ生きてるとしても急ぎたい」


「こちらで毛皮にするためにか」


 返事はなかった。


 藻文は顔の前で両手の指を突き合わせていた。仕事が入る前とはまた違う種類の静けさがあった。


「……居場所を探すにはどうする」


「……ああいう盗み方をさせるやつだ。依頼人の手の者が探ってると知ったら、黙ってやり過ごすんじゃなく手荒に妨害する、と思う」


「思う、か」


 最後の言葉は自信なさげであった。しかし他にいい案もなかった。


 そして上手くいったというわけだ。


 ところで犬の使い道について私ひとりは知らないままでも全く問題なかったと思う。




 一軒家ではある。しかしありふれた板葺き屋根の平屋で、板壁は白っぽく色あせている。


 周囲には建物はないが、草ぼうぼうの上に虫がうるさい土地に高値はつかないだろうと思える。


 町人外のはずれのはずれに建てられた都市整備以前の物件。武家屋敷ではなかった。


 実行犯は家に使えているのではなく雇われただけのごろつきなのだろう。捕縛できても深奥の貴族までは辿れまい。


 この類の建物は打ち壊されて新たな長屋が建てられるはずだが、今はまだ確かにここにある。


 何らかの事情で工事が先延ばしにされているのか。


 貴族の手先に使われるのは初めてではないのかもしれない。


 ここに犬が捕らわれている可能性が高い。


 牛車暴走の折に藻文が発見したのは虎人一名だけだった。


 彼は虎人を追いかけ、だいたいの行き先がわかったところであえて撒かれた。


 潜伏場所が移動されるのを嫌ったのだ。


 そして方向さえわかれば、こういうことに使えそうな建物は探偵として我々は常に把握していた。


 虎人の他にどれだけいるかはわからない。しかし秘密が漏れるのを避けるためが外部から雇うのも隠れ家を出入りするのも最低限の人数にするはずだ。


 首謀者の身内が見張りを務めているかもしれないが、虎人を雇わなければならない程度には荒事向きではないと思う。


 侵入は容易に思えた。ばれずに、というのでなければ。


 間仕切りはほとんどないはずだ。入ればその時点で敵と顔を合わせることになるだろう。


「準備はいいか」


 古びた戸に手をかける。


 藻文は腰を落とし駆け込む構えで頷いた。


 今はその耳も尾も勇ましく立ち上がっている。


 ここから先はもはや隠れる必要はない。敏い虎人ならもう気づいているか。それでも機先を制すのはこちらだ。


 私は音を立てて戸を引き開け、すぐに戸の陰に身を隠した。


 疾風のように藻文が駆け込み、怒り狂った喚き声と激しい物音がしばらく続いていた。


「行け!」


 藻文の言葉がはっきりと聞こえた瞬間、私は小屋に飛び込んだ。


 藻文が彼より頭一つ大きい虎人をなんとか抑え込んでいた。毛の長い犬がそこから離れた部屋の隅で檻に入れられているのが目に映った。


 写真の通りの犬だ。白い毛の塊が柔らかく震えている。


 あらん限りの速力で檻に近づき戸を開けた。


 犬は檻の中で後ずさった。怯えているのだ。


「出ろ!」


 邪魔にならぬよう飛びのくと、白犬は目が覚めるような速さで逃げ出した。


 檻を出た一瞬、黒い目が見えた気がした。


 私も後を追うように小屋を出た。藻文のことは振り返らない。多分何とかするだろう。





「それでケーヘンはそのまま逃げてしまったの?」


「ええ、捕まえるどころか今の居場所もわかりませんで」


「仕方ないわね」


 淡々と事実を受け入れたような顔で、お嬢さんは湯飲みに口を付けた。


 追求しようという気はまるでなさそうだ。


「そうそう、あの虎人は牢に入ったから」


 私と藻文が小屋に突入する際、お嬢さんには応援を寄こすよう頼んであった。早く行かなければ犬がどうなるかわからない、と理由をつけて先行した上、私は藻文を置いて犬を追ったので虎人の捕縛には立ち会わなかったのだが。


 結局、それ以上の進展はなかったようである。


 虎人の背後にいた貴族には何も触れない。犬の捜索もこれで終わり。あるいは貴族の内で何らかのけりをつけるのかもしれないが私たちには無いのと同じだ。


「依頼人はね、皇帝陛下の生誕祭にあの犬を送るつもりだったのよ」


 お嬢さんは世間話のように言葉をつづけた。


「戦がなくなったからね。武士の家系はみんな必死よ。やり方は上手くないけどね」


 依頼人だけでなく犯人の貴族もそのような家柄だったのだろうか。


 戦が終わり、手柄を上げられず、皇帝の機嫌を取ろうとして。


「あ」


 不意に藻文が間抜けな声を出した。部屋の隅、机にくっつけるように畳んでおいた布団の上に白い犬が這い上がっていた。


 机の脚は三面が板になっており、残った面をふさぐように布団を置いていたのだが高さが足りなったらしい。


 お嬢さんは犬をじっと見つめていたが、ややあって柔らかく微笑んだ。


「可愛い犬ね。なんという犬かしら?」


「プーリー・コモンドール・テレスコ・シープドッグです」


「そう、可愛いプーリー・コモンドール・テレスコ・シープドッグね」


 お嬢さんと妙に背筋を伸ばした藻文は平然と会話を続けていた。


 そのまましばらく話続け、私は口をはさめないまま、やがてお嬢さんは挨拶をして帰ってしまった。


「いいのか、あれは」


 お嬢さんが出ていった建付けの悪い戸から目を離せず、そう呟くのがやっとだった。


 返事を返さない藻文を見るとあお向けに寝そべって顔に犬を乗せていた。


 良かったじゃねえか、と小さなくぐもった声が聞こえた気がした。


 さて、ケーヘンは条約により捕獲および売買が禁じられており、本来生息しない土地で発見された際は速やかに保護する必要がある。


 読者のどなたかがあの時逃げたケーヘンを見かけたならばしかるべき機関に一報入れていただきたい。


 なお、プーリー・コモンドール・テレスコ・シープドッグについては、いかなる保護条約にもその名は記載されておらず、特に報告には及ばない。

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