第28話 エルベルトは知っていた

「わかった。」


 エルベルトは玲子を見ないで続けた

「お前が出てくれるのなら、俺はそれでいい。俺もジーラみたいなデブとやりあうのは気が進まん。」


 昨日のうちに、ジュリアはエルベルトに玲子の意向を伝えてくれていた。そして翌日の今日、玲子はパラッツォ内にあるエルベルトのオフィスに出向いていた。

 メタリックホワイトのインテリアでまとめられたエルベルトのオフィスは、壁一面がガラス張りになっているが、これまではその外は緑でいっぱいだった。

 春になった今、その緑の森とオフィスの間には、ピンクや白のロンバルド・マグノリアがあちこちに咲いている。

 思わず見とれてしまう玲子だったが、エルベルトはそんなものに興味は無いと言わんばかりに、デスクの上にディスプレイに目をやっている。

 ディスプレイに集中しているだけではない。どこかしら今日のエルベルトは不機嫌に見える。


「国営放送には、今日のうちにジュリアから私が出席すると伝えます。兄さん。」


 兄が喜ぶ、この呼び方をしたつもりであった。

 だがいつもと違い、今日のエルベルトは「ニイサン」と繰り返さない。


「決算期がもうすぐだったわね。」


「ああ、そうだ。クォーターの数字が良くない。減益になりそうだ。」


「でも黒字にはなるんでしょ。」


「まあな。

 …だが、今どきの投資家連中はうるさい。アナリストの予測数値より少ないと、すぐ株を売り始める。決算発表したらすぐに、アナリストたちが聞いてくるんだ。どうして自分の予測が外れたのかってな。」


 そこまで言ってエルベルトは、玲子のほうを見て少し笑った。


「世界にはいろんな予言者がいる。彼らは世界のいろんなことを予言してる。

 だが予言が外れたからって、その理由を当事者に聞いてくるのはアナリストくらいなもんさ。連中は神じゃない。俺だってよくわかってるさ。なにしろ予言が外れるからな。」


「それで、アナリストたちになんて答えるの。兄さんは。」


「車が売れなかったからさ。ほかに理由があるのか。

 次のクォーターには数字を回復させる。新車が出るからな。しかも値段が安い。ここまでの値付けを出来るのは世界でもパラッツォモータースだけだ。トヨタもフォルクスワーゲンも、この価格にはついて来れない。うちとは生産コストがまるで違う。」


 エルベルトはそのまま、またディスプレイに集中して何も言わなくなった。少々手持ち無沙汰になった玲子は、「もう行くわ。」と言って椅子から立ち上がった。


「玲子。外に人がいないか見てくれ。」


 いきなりエルベルトはそう言った。ディスプレイから目は離していない。


「…ええ。」


 怜子はドアを開けた。この部屋に入って来たときから知っていたが、今日は秘書は来ていない。

 エルベルトは何も言わず、目で椅子にまた座るように告げて、自分は立ち上がり、背後にあるダッシュボートのどこかを動かした。

 そこには隠してあるボイスレコーダーがあることを玲子は知っている。セキュリティと備忘録を兼ねて、エルベルトは客との会話を録音している。そのスイッチを切ったらしい。

 そのままエルベルトはデスクの端に腰をひっかけた。玲子は椅子に座りなおした。

 エルベルトが何かを言おうとしていることを感じていた。


「知っているか。ベアトリーチェが男と寝ていることを。」


「…。」

 話はその

ことかもしれないと感じていた。

 何と言っていいのかわからず玲子は黙ったままだった。エルベルトもそれ以上何も言わない。不思議で奇妙な緊張がその場にある。


「玲子も知らなかったのか。」


「どうして私がそんなことを。」


「女同士だ。俺よりは感づいていたかもと思ったんだ。」


「確かなの。そのことは。」


 ウソをつくようになった…。玲子は心の中で呟く。


「間違いない。

 あの女、なんとこのパラッツォに男を引っ張り込んで、ヤッてるらしい。」


「ベアトリーチェにはもう聞いたの。そのことを。」


「いや、家族の中で話したのは玲子だけだ。」


「どうして。」


「どうして? こんな話が出来るのは玲子だけだからだ。マライカやフェアリーに出来るか。」


「兄さん。落ち着いてちょうだい。」


 玲子はエルベルトを見上げた。自分は必死の表情になっているはずだった。


「ありがとう。お前ならそう言ってくれると思っていたよ。

 お前に相談しないで、いきなりベアトリーチェを問い詰めたら、俺は何を言い出すかわからない。だからまずお前に話したんだ。」


「お願い。これは大変なことよ。

 夫婦の問題だけじゃない。兄さんはリド家の当主でもあるし、ベアトリーチェはこの国のプリンセスよ。」


「プリンセス…。」


 エルベルトは少し笑った。


「お前は知らないだろうが、あの女がどれほど淫乱か俺にはよくわかってる。

 あいつがセックスの時、どんな声を出して、どんなに暴れまわるか話してやりたいよ。何がレーフクヴィスト家の王女だ。淫乱でセックス好きのプリンセス。

 パパラッチどもが大喜びするだろうな。」


「兄さん、止めて。」 


 エルベルトはデスクから腰を上げ、ガラス壁に向かい外を眺めた。そしてガラスを拳で1.2回叩いた。

 ガラスは重く陰鬱な音をたてた。この場のこの時にそれが相応しいかのように。


「…そうだな、俺も冷静さを失っているのかもしれない。

 俺も今までいろんな女とプレイはやってきた。つまらん経験は積んできたもんさ。だが妻に裏切られるのは初めてだ。どうしていいのかわからなくなってしまってる。」


 エルベルトの冷静さが玲子には救いだった。


「兄さん。この話をベアトリーチェにするのはもう少し待ってちょうだい。」


「待ってどうする。お前がどうかするのか。ベアトリーチェを説得する? そうしたらあの女も反省して俺のもとに戻るのか。

 今までのように何も無かったように夫婦として過ごすのか。」


「そうは言っていないわ。だけど軽はずみに何かしないで。 

 2人はただの夫婦じゃない。このロンバルドで最大、ヨーロッパで屈指の大企業のCEOと、ひとつの国の象徴であるあるプリンセスよ。 

 騒ぎになればどうなるか。」


「大企業のCEOとプリンセスは、仮面夫婦でいなければならないのか。」


 エルベルトは声を大きくしてふたたびガラスを叩いた。どしんという音がガラス全体からした。


「…悪かった。

玲子。お前に当たるつもりはなかったんだ。だが、お前が俺の立場ならどうする。世間の体面を考えて、仮面夫婦を続けるか。」


 玲子は黙った。どう答えていいのかわからなかった。


「いや、俺はお前にも答えられないことを聞いてしまってるのかもしれない。

 少し俺も冷静になって考えてみる。お前の言う通り、俺たちには社会的な立場がある。…そうかもしれないな。」


 今はエルベルトの冷静さが今は嬉しかった。 

 ガラスの外にはロンバルト・マグノリアが空間を埋めるように咲いていた。何事も起きていないかのように。

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