第12話 フェァリーは姉とバスルームにいる

 怜子の乗ったダッソーファルコン900がロンバタックス国際空港にランディングしたのは、もう夜の12時に近くなっていた。

 この時間は空港は閉まっていて、やむをえない着陸以外は離発着は禁じられている。だがリド家はかまわずこの時間帯でも飛行機を着陸させていた。

 着陸のため高度を下げていくファルコン900の窓から下を眺めると、規則正しく並んだ街灯の列の間に詰まった住宅地は、半分灯りが消えていた。

 3発エンジンの飛行機の騒音はうるさいだろうと、怜子は良心にとがめるところもあったのだが、この時間帯に特権的に着陸できる便利さは、ロンドンからここまで飛行してさらにパラッツォまで帰宅することを考えると、良心のバランスはこれに傾いてしまう。

 ロンバタックス国際空港のターミナルビルではなく、その脇の駐機場にファルコン900は止まった。


 迎えにきたワンボックスのリムジンに乗り込み、そのままパラッツォに向かった。

 入国審査は無い。EU加盟国の国籍を持っている怜子は、域内の移動だけならパスポートすら持たない。そして今はまだイギリスはEU加盟国のままである。

 深夜の高速道路は空いていて、ほとんど1時間かからないで怜子はパラッツォの正門にたどり着き、すぐに自宅に帰りついた。


 狭い自宅の中はこの時期、特に暖房も冷房も入れる必要はない。

 怜子はすぐに着ているものを脱いで、風呂に入る。この風呂桶は日本から取り寄せたヒノキ造りのもので、疲れた時はこれに入らないとリラックス出来ない。

 こういうところは、自分も日本人の血が流れているのだと感じないではいられない。

 このバスルームには音楽を流せるようになっている。防水スピーカーが壁に隠れるように設置されている。

 曲はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を選んでいた。流しているのはその第三楽章である。


 この曲が好きだった。

 いつもベートーヴェンは力強く生命感に満ち溢れている。だがこの曲の中だけは、ベートーヴェンは少しだけ涙を見せる。力強さの間に一瞬だけ見せる深く静かな悲しみ。玲子はその部分が特に好きだった。

 怜子はゆっくり湯船に体を浸しながら、音楽に身をまかせて少しうとうとしていた。

 ふとバスルームの外に人の気配がした。

 ぎょっとした。眠気は一瞬で吹き飛んだ。


「誰?」


「怜子、帰ったの。」


外から呼びかけたのはフェアリーだった。


「ドア開けていい。」


「ダメよ。すぐ出るから待ってて。…いや、体を洗うからもう少し時間がかかるわよ。」


「うん、待ってる。」


 怜子は湯船を出て体を洗い始めた。

 フェアリーが来ているのは意外でもない。以前にも1.2回あった。

 マライカとフェアリーが住んでいた、怜子も元住んでいた自宅は、実はここから50メートルも離れていない。相互の家に行くことは普通にやっていることなのだ。


「それよりフェアリー、もう12時過ぎてるのに。寝ないと駄目じゃない。」


「怜子が帰って来たのが解ったから、起きてきたの。」


「そんなの理由にならないわよ。早く寝なさい。」


「あたしと話をしたくないの。」


「そうじゃないけど。」


 フェアリーはバスルームの外に座っているようだった。


「昨日、遅刻しちゃった。」


「先生に怒られたでしょ。」


 フェアリーと話しながら、玲子はサン・フランチェスコ女学院のことを思い出していた。

 フェアリーと同じ歳の頃、玲子は日本からやってきた。そしてリド家の養女となり、同じサン・フランチェスコ女学院に入学した。小学校6年次ということになる。

 そしてそのまま高校卒業まで通っていたのである。

 母校は良い思い出しかない。遠いアジアからやってきた自分を、分け隔てなく扱ってくれた。優しくあるいは厳しく。

 サン・フランチェスコ女学院に入学して驚いたのが、自分と同じ養子の生徒がかなりいたことである。クラスには常に2.3人の黒人、アジア人や他のヨーロッパ地域から来た子たちがいたものだ。

 怜子が驚いたことには、その子たちはすべて親の人種が違っていた。ほとんどは人種が同じ実の両親から生まれた子供ではなく、養子だったのだ。

そして同じく養子だった玲子も、何という事も無く学校に溶け込むことが出来た。


 養子社会。

 その言葉が広がったのは、他のヨーロッパ地域よりもロンバルドは遅かったが、それでも都会の私立学校ではもはや養子の生徒は珍しいものでは無かったのである。

 フェアリーは続けた。


「ちょっとね。それより先生もそれどころじゃなかったみたいだし。」


「何かあったの。」


「学校の外に変な人たちが来てたの。」


 怜子は手を止めた。


「変な人って…」


「だから変な人。」


 フェアリーはそう答えた。


「何か、事件みたいなことがあったの?」


「何もなかったみたい。」


 相変わらずだがフェアリーの話は要領をえない。いつものことだ。

 怜子は質問を変えた。


「変な人ってどんな人。」


「気持ち悪い人。」


「どんなふうに。」


「学校の周りをうろうろして、中を覗こうとしていたの。」


 いわゆる変質者まがいの連中だろうか。

 もっとも、これは怜子がサン・フラチェスコ女子学院に在学していた頃から、結構あったことで、教師たちも慣れっこになっているはずのことだった。今頃になって教師たちが騒ぐことでもない。


「中を覗いてたの。その変な人たち。」


「うん。覗こうとしたって。」


「すぐに警備員の人が追い払ったでしょ。」


「そうなんだけど、言葉が通じなくて大変だったって。」


「言葉が通じないって?」


「ロンバルドの人じゃなかったみたい。」


 外国人なのか。その変質者とは。


「先生の話だと、その変な人たちが校舎の中に入ってきそうになって、警備員の人とケンカになったらしいの。でも、言葉も通じないし、学校の中に入ってきちゃだめってことがわからなかったみたい。先生が警察を呼んだら、パトカーを見たらすぐにいなくなったらしいけど。」


「それだけ。他に何かなかった。」


「それで終わり。

 あたしのほうは、おかげで怒られないですんだからよかったけど。」


 怜子は手を止めたままだった。

 サン・フラチェスコ女子学院のあるあたりは、高級住宅地でもありまた歴史保存地区に指定されている。観光客が来ることはあるし、その観光客が間違って学校の敷地には入り込みそうなことになることはあるかもしれない。

 だが警備員とトラブルとは…


「その変な人たち、見かけはロンバルド人と変わらないけど、言葉も通じないし、先生も警備員の人も大変だったみたい。

 先生は、今はロンバルド人でない人も増えてるし、言葉も通じないからこんなことが増えてくるんじゃないかって心配してたよ。」


 怜子はまた手を動かしはじめていた。

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