第9話 オペラ それをパラッツォで

 怜子がロンドンに来た目的は、もう一つあった。

 だがその前にホテルにチェックインしないといけない。怜子はそのまま市内のホテルに向かった。

 ウォータールー駅近くにある、いつも使っているホテルに入りフロントにカードを提示した。


「マライカ、マライカ・リドは来てる?」


「おいでになっています。スィートルーム801号室にお入りです。」


 フロントの男性は少しディスプレイをのぞき込んでから、そう答えた。

 怜子はうなずいて部屋のカードを受け取って、ボーイがそれをやると言ったのを断り、キャリーケースを自ら引っ張って801号室に向かった。

 エレベーターで8階に上がり、スィートルームに向かう。いつも使っているホテルなので、部屋の位置はだいたいわかる。

 カードでドアを開くと、少し大きな声を出した。


「マライカ、いる?」


 返事の代わりに聞こえてきたのは、かすかなイビキの音だった。

 ケースを引っ張ってリビングに入る。イビキが聞こえるのはベットルームからだが、怜子はかまわずそのままキャリーケースを開いて荷ほどきをはじめた。

 しばらくするとイビキの音がやんで、ベットルームからマライカが姿を現した。


「音がしたから目がさめたわ。怜子。」


「自分のイビキで目が覚めたんじゃないの。」


 マライカは何も言わず、テーブルの上のペットボトルから水を少し飲んだ。


「そんな音してた。」


「サイレンみたいな音だったわよ。」


「そう、そんなに静かだった。」


 マライカは寝ぼけた表情でそう答えた。


「チケット、持ってきてくれた。」


「大丈夫、忘れっぽいマライカも映画やパーティのチケットを忘れたことはないの。オペラだって同じよ。」


 マライカはパックから裸のままのチケット2枚を取り出した。少し折れて傷んでいる。

 それをとがめることはせず怜子は受け取った。


「すぐここを出ましょう。開場は18時よ。」


「今何時?」


「17時半ってとこ。ここからロイヤル・オペラ・ハウスまで行くなら、結構ぎりぎりよ。」


「じゃ、すぐ出ないと。」


 時間があまりないことがわかるとマライカは慌て始めた。

 ホテルのフロントにタクシーを頼み、怜子は着ていたビジネススーツを着替えもしないで部屋を出た。


 タクシーでロイヤル・オペラ・ハウスに着いた頃は、18時をかなり過ぎていたが、開演には間に合った。

 2人は左翼にある升席に陣取った。

 マライカと怜子が見ることになっていたオペラは、かなり前衛的なもので、ヨーロッパで評判になっていたものだった。

 怜子からマライカを誘って今日の鑑賞となったのだが、怜子もそれほどオペラが好きなわけではない。それでも今日見たかったのは、別に理由があった。


 ほどなくして幕が上がった。

 前衛的という評判に似合って、舞台の上には大小の液晶ディスプレイが5つほど並べられている。舞台の近くや升席の上にまでテレビカメラが設置されている。

 前奏がはじまると、カメラがオーケストラに向けられ、その画像がディスプレイに表示される。さながらオペラのドキュメンタリーを見ているように感じられる。

 さらに劇が進むにつれ、舞台上にもハンディカメラが現れ、俳優たちの演技や表情をアップで映し出す。そのうち、楽屋裏の様子までディスプレイで映し出されるようになった。

 それでいてストーリーはしっかりしていた。

 現代のロンドンを舞台にした人間ドラマを描いたものだったが、ディスプレイの画像に邪魔されることなく、ストーリーにのめり込むことができる。

 このロイヤル・オペラ・ハウスはあまり前衛的な演出を好まない、オーソドックスなオペラを演じることで知られるが、そのロイヤル・オペラ・ハウスがあえて上演決めただけはあると、怜子も感じていた。

 幕が下がり、俳優たちの舞台挨拶がはじまった。

 怜子とマライカも他の観客たちと同様に、スタンディングオベーションで迎えた。

 やがて舞台監督が姿を現した。


「クリストフ・ハイダー。」


「ドイツ人なの? かなり若いわね。怜子知ってたの?」


「名前くらいはね。今ヨーロッパのオペラ界で一番注目されている人よ。」


「さすが怜子。詳しいわね。」


 マライカはオペラなどには全く興味が無いのである。今日の鑑賞も怜子が一緒に来てほしいと強く言ったから、同行しただけのことなのだ。

 劇場内の明かりがついた。怜子とマライカは立ち上がったままバックを手にした。


「このオペラ、どう思った。」


「あたしは初めて観たオペラだし、どう思うと言われても。でももっとオペラってクラッシックなものかと思ってた。すごく前衛的でいい感じだったと思う。」


「また見たい。」


「…ううん、どうかな。

 でもどうして?」


「ロンバルドで上演してもらおうと思うのよ。」


「ロンバルドでやるの? なるほど、それであたしを誘って感想を聞こうと思った、ってわけね。」


「まあね。」


「怜子が企画してるってことは、うちの会社がスポンサーになって上演するわけだよね。」


「そう、パラッツォ・ホールディングスが冠スポンサーになってね。」


 マライカと怜子はそのまま話しながら、正面階段を下りて行った。


「ロンバタックスにオペラ劇場ってあったかな。」


「あったわよ。立派なのが。立派すぎて骨董品みたいな劇場だけど。」


 怜子のジョークに、マライカは少し笑った。


「でも、ロンバルドで上演してもらうのは、オペラ劇場にはしないつもり。」

「どこ?」


「パラッツォで。」


「え、つまりうちの家で。」


「そう。」


 マライカは顔を輝かせた。


「それすごい。すごいアイデアね。」


「そう思う。」


「思うわよ。でもパラッツォのどこでするの。本館のあの広間で。」


「ううん。あそこではオペラは出来ないわ。 

 外にステージを作って、野外劇場でやってもうつもり。場所は遺跡を考えてるわ。」


 2人はそのまま迎えのリムジンに乗り込んだ。


「遺跡はもう発掘が終わって、跡地を整備しているでしょ。そこに野外ステージを組んで、オペラをやるつもり。

 外のお客さんもパラッツォに迎え入れることになるわ。」


「リド家の関係者以外で、外部の人がパラッツォに入ってくるのは初めてじゃない。」


「たぶんそうだと思う。パラッツォがリド家のものになって以来ね。」


 怜子はロンドンの街の灯りを見ながらそう言った。

 マライカはまだ興奮していた。


「すごい、すごいアイデアよ。怜子。

 きっとロンバルド中の話題になる。いいえ、世界的な話題になるかもよ。」


 そして、それは怜子も望んでいたことでもあった。

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