第8話 パラッツォ イギリス支社では

 ロンドン、ヒースロー空港はいつものように混んでいた。とにかくロンバルドのどこの空港よりも人が多いと、怜子には感じられる。

 ただしこの空港はあまり好きではない。内部の雰囲気がである。やたらと増築を繰り返してさながら大混雑の日本の駅のようだ。新築されたばかりのロンバタックス国際空港のほうが、その点きれいだと思う。

 怜子は苦労して迎えの車を探しだしてそれに乗り込んだ。


 ロンドン市街に入ると、やはりここも道が混んでいる。道路はロンバタックスの旧市街のほうが広いほどで、19世紀末の大火の後、区画整理されて実は比較的新しいロンバタックスのほうが自動車社会には適応出来ているようである。


 初めて日本からヨーロッパに来たのも、ここロンドン経由だった。

 小学校の6年生くらいの歳だったと思う。

 日本時代のことは実はあまり覚えていない。自分は児童福祉施設に入っていた。だかあまりその当時のことは記憶に残っていないのである。

 両親も当然いた。その記憶だけはおぼろげにあるが、やはりはっきりした思い出はない。

 おそらくいい記憶では無かったのだろう。だから無意識に記憶がかき消されている。怜子はそう理解していた。

 そこからリド家に引き取られた。


「新しいお父さんよ。ヨーロッパの人なの。ロンバルド王国って国。知ってる? よかったわね、怜子ちゃん。」


 養護の優しい先生は、そう言って色の黒い異国人に自分を引き合わせたのだった。

もっとも自分を引き取りに来たその色黒のヨーロッパ人は、使いのリド家のバトラーの一人だったのだが、

 そこから飛行機にのり、果てしもないと感じられる空の旅の末、たどり着いたのがここロンドンだった。

 怜子の乗った車は、目的の場所についた。


「荷物はどうしますか。」


「そのまま載せておいて。ミーティングが終わったらホテルに向かうから。」


 運転手は怜子の言葉にうなづいて、そのまま車を移動させるために走り去った。

 怜子の目の前にある建物は、レンガ造りの古風な外観をしている。しかしその煉瓦は外側だけで、中はモダンに改装されていることを怜子は知っている。ロンドンの再開発のやり方で、外壁だけ残して、内部を建て替えたのである。

 そしてこの建物はすべて、パラッツォ・ホールディングスのロンドン支社になっていた。


 受付で名乗ると怜子はすぐに6階のフロアに案内された。エレベーターを降りるとそこはふかふかのカーペットが敷き詰められていて、そのことで重役室フロアになっていることがわかる。そのさらに奥のオフィスまでは案内を断って自分で向かった。

 秘書が開けてくれた重厚なオーク製のドアの向こうは広大なオフィスになっていて、男が一人デスクから立ち上がった。

 男のことはお互いによく知っている。だから握手すら求めてこない。

 ロジャー・シェリダン。イギリス生まれのイギリス人だが、その色黒の容貌はインドの血が混ざっているのかもしれない。

ロジャーはパラッツォ・ホールディングス・ロンドン支社長である。


「レイコ、…いや、お嬢様と言うべきかな。今は私よりポジションが高くなってしまった。」


「いままでどおり怜子でいいですよ。」


 怜子は丁寧に英語で答えた。

 ロジャーは怜子のアメリカ訛りの英語に微笑んだ。怜子はアメリカの大学院に通っていた。なので英語がイギリスのそれと少し違う。


「エルベルト様は元気かい。」


「ええ、相変わらずの傲慢な態度で。」


 ロジャーは怜子のきついジョークに微笑んだ。


「返事に困る言い方をするなよ。怜子。

 それより今日の仕事は何なんだ。いよいよロンドン支社も閉鎖かな。」


「まだ決まってないわ。…ただ。」


「ただ、何なんだ。

 もうこっちでは、パラッツォはロンドンを閉鎖する。とにかく英国のEU離脱決定から、すでに本社の既定事項だと、社員たちがウワサしてるよ。」


「社員たちの動揺を収めてください。お願い。」


「私一人でそれをやるのは無理だよ。」


 ロジャーはデスクチェアーにどかりと座りなおした。


「まだこっちのヨーロッパ企業で大きな動きはない。イギリス撤退を決めたという噂も知らない。

 だが皆浮足立ってるのも事実だ。次の仕事を探している連中がたくさんいる。景気がいいのはジョブサイトの会社だな。」


 怜子は口に出さなかったが、目の前のロジャーもジョブサイトの会社を賑わせている一人なのだろう。


「イギリスのEU離脱は、そりゃ大きな問題だが、次はどこだ。ロンバルドじゃないか。」


「どうして。」


「おいおい、パラッツォ・ホールディングスの広報担当重役らしくない反応だ。こっちじゃやたらとニュースでやってるぞ。ロンバルド政界では極右政党が躍進しているとね。」


 怜子は首をすくめた。


「でも、それをパラッツォ・ホールディングスがどう出来るというものじゃないもの。取締役会はとりあえず様子見よ。」


「ニュースでは、極右の連中はパラッツォを攻撃の対象にしていると言っている。パラッツォが人道を口実に、移民や難民の労働者を大量に受け入れて、ロンバルド国民の仕事を奪っている。

 彼らはそう主張していると。」


「パラッツォが人道的見地から、移民と難民を受け入れているのは、それ自体は事実よ。」


「わかってるさ、怜子。君たち姉妹を見ればわかる。

 だがそれで通るのかな。」


「だから兄も私を広報担当重役にしたのよ。今まで取締役会には広報担当がいなかったの。

 私の仕事の主なものは、パラッツォ・ホールディングスの経営方針とポリシーを、会社の外に対して広報すること。」


「エルベルト陛下もようやく動き出した、ってところか。」


 ロジャーは怜子の前では、エルベルトに対してもくだけた表現をする。

「で、今回のロンドン訪問の目的は。」


「もちろん、ロンドンが動揺していると聞いて、状況の確認と対策をね。」


「今のところ、社員が多少浮足立っている程度だ。政府からもEU企業に対する大きな働きかけは無い。

 こちらも知りたい。パラッツォ・ホールディングス本社はパラッツォモータースのイギリス工場をどうするつもりなのか。撤退なんてことになったら大騒動だぞ。」


「まだ、取締役会には具体的にどうという動きはないの。それぞれの重役たちが、いろいろ言っているみたいだけど、すべて個人的意見よ。」


 ロジャーは首をすくめて、解ったという意思を表した。


「エルベルトに伝えてくれ。まだロンドンは心配されるような状況ではないと。何か動きがあればすぐに報告するよ。」


「お願いします。」


 怜子は他の重役たちにも会うからと告げて、ロジャーのオフィスを出た。

 こちらの広報担当重役の2人と打ち合わせをしてから、怜子はパラッツォ・ホールディングス・ロンドン支社を出た。

 パラッツォ・ホールディングス傘下のパラッツォモータースは、ヨーロッパ全土に工場を展開している。ここイギリスをはじめ、フランス、ドイツ、スペイン、イタリア。主だった国にはすべて工場が存在し、最近は東欧にしきりに新設している。無いのは労働コストの高い北欧くらいのものだ。

 そしてそこで生産した自動車をEU域内に対して出荷する。EUの外にも輸出している。

 パラッツォモータースはヨーロッパで最も成功した企業の一つであり、全世界でパラッツォと対抗できる自動車会社は日本のトヨタとドイツのフォルクスワーゲンしかない。

 この成功をもたらしたのが、積極的な工場新設と販売網の拡充だった。

 そしてその工場では、大勢の移民たちが働いている。難民としてヨーロッパにやってきた人たちも、これも積極的に雇用していた。

 パラッツォは、人道的雇用だとしてこれを積極的に宣伝した。「人道的」というのは宣伝文句だけではない。亡き養父、マッシミリアーノ・リドの理想主義がそうさせたのだ。

 だが、この人道主義が攻撃の対象となっている。

 ロンバルドだけではない、ヨーロッパのいくつかの極右団体は、パラッツォモータースは自国民を雇用せず、移民と難民を安く使って利益を上げていると非難していた。

 時代が変わったのだ。

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