第22話 朝

三回目の行為が終わると、与一は糸の切れた操り人形のようにそのまま眠ってしまった。

気怠い余韻を楽しみながらもルーチェは起き上がった。

やることが終わったらすぐに寝てしまったのはいただけないが、今日は許してやろう。

与一の寝顔を見ながらルーチェはやけに優しい気持になっていた。

最後の最後でエクスタシーに達したので内容自体も合格点だ。

初めてらしくガツガツしたところはあったが、与一らしい気遣いをもって、自分を大事に扱ってくれたのがルーチェには快感だった。

 濡れたタオルで与一の身体をぬぐいながら、たまにはこんな風に尽くすのも悪くないなどと考えてしまう。

だが、ルーチェはすぐに自分を戒めた。

もう情が移っているようだ。

やっぱり体の関係にはなるべきではなかったのかもしれない。

与一のことは好きだけど、迷宮に留まる気はないのだから。

後始末を終えると、裸で眠りこける与一の横にルーチェは自分の身体を滑り込ませた。

今夜はもう難しいことは考えられそうもない。

ルーチェだってクタクタだったのだ。

肌と肌を密着させるのはどうしてこんなに心地がいいのだろう? 

別に答えなんて求めていない疑問が湧いてくる。

バカみたい……、そんなふうに考えながら意識を手放していった。

その晩、ルーチェは久しぶりの安心感と充足感に包まれながら眠りについた。


□□□□


 与一が出て行った後、由梨は瑞穂に声をかけた。


「それじゃあ、ロウソクの火を消しますね」


これからはロウソクも貴重品になるかもしれないし、火事だけは起こしてはならなかった。

炎が吹き消されると部屋の中は真っ暗になった。

テレビの待機ランプさえない世界だ。

二人は闇の中で眠れないまま、お互いに布団の中でもぞもぞと動く相手の気配を感じていた。


「塚本さん」


遠慮がちに瑞穂が声をかける。


「どうしましたか?」

「ごめんなさい。なんだか眠れなくて」

「実は私もなんです」


共通項を見出して二人は小さく笑った。


「じゃあ改めて自己紹介しますね。佐伯瑞穂さえきみずほ、三十歳です。主婦をやってました」

「私は塚本由梨、十九歳です。浪人生です」

「塚本さんは芹沢さんの恋人なの?」


由梨は慌てて否定した。


「そうじゃないです。芹沢君は高校の時の同級生でして、ゾンビが出た日はたまたま大学を案内してもらっていて、そのまま一緒に避難してきたんです」

「そうだったのね。ご家族は?」

「家は目白なんですけど、最後に電話がつながったときは警察にいました。もしかしたら、ううん、きっと保護されていると信じています」


由梨は零れ落ちた涙をそっとふいた。


「佐伯さんのご家族は?」

「わからないわ……。本当のこと言うとね、私たちはもう半年以上別居状態だったの。子どもはいないし、夫は不倫相手のところに行ってしまったの」

「そうですか……」

「離婚に向けて調停中だったけど、こんな世の中になってしまったら意味はなくなってしまったわね。ごめんなさい、変な話ばっかりして」

「いえ。ただ……私は恋愛経験もないから……その……なんて言っていいかわからなくて」


由梨と瑞穂は非常にのんびりとした会話のラリーを続けた。

二時間という時間があっという間に流れ、互いの理解が多少深まった頃、瑞穂が聞いた。


「明日はどうするの? ゾンビを相手に私が何かできるなんて想像もつかないわ……」

「私は芹沢君と一緒に行きます。彼一人に甘えることはできません」


決意のこもった由梨の口調に瑞穂は小さく微笑んだ。


(やっぱり芹沢さんのことが好きなのね)


こんな状況下にあっても好きな人と一緒にいられるのが瑞穂には羨ましかった。

人間の感情はその人の置かれる環境に大きく作用される。

こんな状況下だからこそ思いは強くなるのかもしれない。

もし今、別居中の夫が家にいたとしたら、私たちもやり直せたのだろうか? 

たとえそれが憎しみながらの相互依存であっても一緒に暮らしはしたかもしれない。

だけど瑞穂は自分を裏切った夫をどうしても許せそうになかった。

由梨には言わなかったが、不倫女がゾンビ化して夫を食い殺してしまえばいいのにとさえ考えていた。


□□□□


 肩に寒気を感じて与一は目覚めた。

そのまま裸で眠ってしまったのだが、いつの間にか毛布のほとんどはルーチェに奪われていた。

まだ夜明け前なので辺りは暗い。

せめて下着だけでも履こうと思ったが、星明りの元ではどこにあるのかわからなかった。

そもそもパンツはルーチェが脱がしていた。

どこに投げ捨てたかは与一のあずかり知らぬことでもあった。


「起きたの?」


可愛いパンツ窃盗犯が目覚める。


「ごめん、起こしちゃったね」

「ん、私も起きる」


ルーチェは名残を惜しむかのようにゆっくりと与一から離れた。

ルーチェの肌が離れたところに夜気が染み込んでくる。


「服はどこにいったんだろう? 与一、私のシャツは?」


掌の上に火球が作り出され、周囲が明るく照らされた。

ルーチェが照らしてくれている間に与一は二人分の服を拾い集める。

それから再び暗くなった部屋の中で二人は服を着た。


「与一……。昨日のあれは……思い出だよ」


言葉の意味を与一は即座に理解した。

そう遠くない未来、ルーチェはここを去るのだ。


「ありがとう。俺、初めてだったんだ」

「その割には上手だったよ。私もすごく気持ちよくなれた」

「そっか……」


最後にもう一度だけキスをしようとしてやめたのは、与一とルーチェの両方だった。

これ以上、思い出のかけらを増やせば、それだけ悲しみも大きくなる気がしたのだ。



 身繕いをすますと与一は部屋に戻ることにした。

今日という一日を考えればどんよりとした気分になるが、昨日ほどの恐怖はない。

キスをする代わりに与一はルーチェの手を固く握った。


「行ってくるよ。大丈夫、もう怖くないから」

「うん」


ルーチェは大岩のゲートまで与一を見送った。


「生きていたらまた後で来るから」

「うん。待ってる」


待っているとは言ったが、ルーチェは最後の最後まで与一がゲートをくぐらない選択をしてくれることを心の底で望んでいた。

日本にあるすべての未練を断ち切り、自分とポルトック王国で暮らしてくれれば、この瞬間から本当の恋人同士になれるのだ。

だが、与一は振り返らなかった。

由梨や瑞穂を切り捨てる選択など出来なかったし、父の春彦は出張先で生きているとも信じていた。

ルーチェに地上の生活があったように、与一にも日本というものが存在した。

二人はかりそめの楽園で番う、かりそめの恋人でしかなかった。


 目の前で与一の部屋のクローゼットが閉められた。

このゲートを通り抜けられれば、与一を助けに行けるのに。

ルーチェは悔しい思いでいっぱいになる。


「こんなもの!」


…………。

ルーチェは腹立ちまぎれにゲートの表面を殴りつけたのだが、感触がなかった。

驚きながら自分の腕を凝視する。

ルーチェの腕はゲートの向こう側にあった。

 通り抜けられた? 

思わず腕を引こうとしたが思いとどまった。

そして一歩前へと足を踏み出した。



「与一」


僅かに開かれた扉からルーチェが顔を出している。


「ルーチェ! どうやってここに?」


「わかんない。わかんないけどゲートを通り抜けられたの。与一と三回もしちゃったから?」


それは可能性の一つでしかない。

他にもルーチェはずっと地球産の食べ物を食べていたり、地球産の服を身につけてもいる。

ゲート近くに長くいたせいかもしれなかった。


「とにかく君が来てくれて嬉しいよ。ずっと俺の世界を紹介したかったんだ」


 二人は寝ている人を起こさないようにそっと表へ出た。

非常口の封鎖を解除しているうちに夜が明けていく。

屋上の扉は吉田と行ったときに開錠してあったので問題はなかった。


「ようこそ、俺の世界へ。ここが日本。今は無数の亡者が暮らす死の街になってしまったけど……」


ルーチェは声も上げられなかった。

空へと延びるいくつもの高層ビル。

地平線の彼方まで建物が続く巨大都市。

このようなものが存在することがとても信じられない。

人工物の圧倒的質量がルーチェを打ちのめしていた。

 声を失ったルーチェの横で、与一は全く別のことに感動していた。


「うわあ! もしかしてあれ富士山か!?」


工場は稼働を停止し自動車も走っていない世界では、空気は澄み渡り遥か彼方まで視界が開けていた。

西南西の方角に日本一の山が鎮座する姿が認められる。

亡者に支配された世界は悲しいほどに美しかった。

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