第11話 与太話
暗い森の中を抜けて与一とルーチェはシェルターまで帰りついた。
ヘンゼルとグレーテルの気持ちがようやく与一にも理解できた気がする。
道なき夜の森を歩くなど、普通に暮らしていたら現代日本人に経験できるものではない。
月の光に輝く白い石は道標としてはあまりに頼りなさすぎる。
そこかしこで響く動物の鳴き声、まとわりつく木の根、じっと動かない闇。
そんな恐怖を乗り越えてソーラーパネルで蓄電するLEDランタンが見えたときに体から抜けていく緊張感はこれまで味わったことのないものだった。
普段ならとっくに夕飯が終わっている時刻だ。
安心感が空腹を思い出させる。
「すぐに食事の用意をするよルーチェもお腹がすいただろう」
「うん。手伝えなくてごめんね」
ルーチェはゲートをくぐれないのだから仕方がない。
焚き火の支度をルーチェに任せて与一は部屋へと戻った。
今日は獲物が何もない。
カジンザに会いに行く途中に、あわよくば狩りをして採集活動をなどと考えていたが甘かったようだ。
ナウリマが冒険者の罠にかかって時間をとられたせいもあるが、そんなに簡単に狩猟はできないようだ。
せめて迷宮蛙が獲れればよかったのにと考えている自分に気が付いて与一は苦笑した。
我ながら適応力が高すぎると思ったのだ。
一度食べてしまったせいかカエルに対する忌避感はほとんどない。
それどころか与一の財布に潤いをもたらすありがたい存在となりつつある。
カエルを殺し、解体する経験はまだないが、慣れるのは時間の問題だという気もしている。
懐事情は逼迫しているのだ。
先日カエルが獲れた時に使わなかった鶏肉で晩御飯を作ることにした。
今夜は遅くなってしまったからと言い訳して、与一は手抜き料理に取り掛かった。
肉に塩とハーブをふってフライパンの上に皮を下にして並べる。
その上にアルミホイルを敷き、ぬるま湯をはった鍋を置いてフライパンに押し付けるように肉を焼いた。
こうすれば皮がパリパリに仕上がるのだ。
肉を焼きながらキュウリ揉みを作るためにキュウリを切っていく。
だが、急いでいたためか指を切ってしまった。
指先に痛みが走り、血が滴り落ちる。
慌ててティッシュで指をくるんだが、そこでようやく異変に気が付いた。
傷が治らない!?
カジンザにナイフで指を切断された時だって、指はすぐに再生した。
ところが今はわずかに指先を切っただけなのに血が止まらないのだ。
与一は落ち着こうと、いったんフライパンの火を切った。
ひょっとすると迷宮の中なら傷は治るのではないか。
そんな考えが頭に浮かび、与一はジンジンする傷口を押えながらゲートをくぐった。
「どうしたの?」
思っていたよりずっと早く与一が戻ってきたので、ルーチェは身構えた。
何かトラブルだろうか。
焚き火に映る与一の顔色は悪い。
「たいしたことじゃないんだ……」
呟くように言いながら与一は自分の指先を見つめている。
つられてルーチェも見たがどこにも異変はなかった。
「どうしたのよ、本当に」
「うん。包丁で指を切っちゃってね」
既に傷口は跡形もない。
「与一の身体なら関係ないでしょう?」
「うん。傷口は治った。だけどネクタリアの力はゲートの向こう側では及ばないみたいだ」
「どういうこと」
与一の説明を聞いてもルーチェには原因などわからなかった。
そもそもどうしてネクタリアを食べると120年の健康寿命が得られるのかさえ分からないのだ。
「とにかく、与一の世界ではネクタリアの効力はないということだけはわかったわ」
「まあね……」
与一はしょんぼりとしている。
ルーチェにしてみれば贅沢な悩みだ。
「いいじゃないの。怪我や病気になったらこちら側に来ればいいだけでしょう。それだけで治っちゃうんだから」
即死の場合や動けなくなった時はどうするんだよと思ったが与一は口には出さなかった。
それくらいのデリカシーは心得ている。
「もうご飯が出来るよ。すぐに持ってくるね」
血の付いたティッシュペーパーを焚き火に放り込んで与一は再びゲートをくぐった。
本日の夕飯
鶏肉のパリパリ焼き
モヤシ炒め
インスタント味噌汁
キュウリ揉み
ベッドで横になりながら、与一はネクタリアについて考えていた。
もしも与一が向こうの世界で暮らせば120年の寿命が得られ、その間は病気や怪我に悩むこともない。
一方でこれまで通り日本で暮らせばその恩恵は受けられないようだ。
与一にとってカバリア迷宮は趣味の場であり、生活の拠点を置くということは考えていなかった。
だが自分の健康や寿命が大きくかかわってくるとなるとちょっと考えてしまう。
ルーチェの言う通り、怪我や病気になった時にカバリア迷宮へ入れば元通りの身体になって日本へ帰ってくることができるのだろうか。
それだったらたまに迷宮へ遊びに行けばいい話なのだが……。
月曜日になった。
与一は大学へ行くので夕方まで帰って来ない。
ルーチェは与一に塩と菓子パンを三つ貰った。
昼食はこれで過ごしてくれということだった。
甘いパンというものをルーチェは初めて見た。
中にはクリームやジャムが入っているそうだ。
これがうわさで聞いたケーキというものかしらとルーチェはワクワクしている。
メロンパンの中にはメロンが入っているに違いない!
でも、パンとメロンのコラボレーションの味は想像もつかなかった。
与一が持って来るもので不味いものはこれまで一度もなかったからメロンパンもきっと美味しいのだろう。
昼食までは待ち遠しいが今日もしなければならないことはたくさんある。
今までのシェルターを改め、自分が住むための小屋を作る予定だった。
それにしても昨日の冒険者たちは惜しいことをしたとルーチェは考えていた。
あんな奴らでも地上へ帰るための手段と考えれば使えないことはなかったからだ。
カジンザに瞬殺されてしまったものは仕方がないが……。
冒険者たちの持ち物はカジンザたちがすべて持ち去ってしまった。
ナウリマに傷をつけた迷惑料だそうだ。
もっとも、与一のための装備一式と弓矢だけはこちらに譲ってくれた。
ウィスキーのお礼ということだった。
次に冒険者が来るのはいつのことだろうかと考えるとルーチェは頭を抱えたくなる。
自分が借りている部屋の荷物は無事だろうか。
へそくりだってアパートの壁の穴に密かに隠してあるのだ。
そのうち自分は死んだということになって大家は違う人に部屋を貸してしまうだろう。
虎の子の三万レクスのことを考えると泣きたくなるほどだった。
いっそ階段を上ってメッセージを書こうかとルーチェは考え付く。
ただひたすら待つというのはルーチェの性格には会わない。
だが救援要請の伝言を残したところでわざわざこちらにやって来る冒険者はいないだろう。
だったら少しでも冒険者がこちらに来る確率を上げるために迷宮内に看板を出してはどうだろうか。
「補給物資あります 迷宮の休憩所」こんな看板を二、三枚出すだけでも冒険者はやってくるかもしれない。
いや、むしろ喜んでこちらに来る可能性だってある。
もちろん設置時に魔物に襲われるリスクは覚悟しなくてはならないがやる価値はありそうだ。
ルーチェはカマドの中の炭を拾い上げた。
指にべったりと黒い煤がついてしまう。
迷宮の石壁に書くための筆記用具としては充分そうだった。
夕方になってルーチェは小川の方へと定例の見回りに出かけた。
川岸の泥にいつも鹿の足跡が残されている場所がある。
うまくすれば日暮れ前に水を飲みに来る群に出会えるかもしれなかった。
木々の葉の間からそっと覗くと鹿の白いお尻の毛が見えた。
今日の私はついている。
ルーチェはカジンザから譲り受けた弓を引き絞った。
対魔物用の強弓だったが身体強化魔法をかければ問題なく引くことができた。
直線の軌道で矢は鹿の心臓付近を貫いて反対側から飛び出す。
鹿は一声鳴いて走り出そうとしたが三歩も歩かないうちにその場に倒れた。
残りの鹿は散り散りに逃げ出していく。
改めて見るとかなり大きな牡鹿だった。
当分は食料に困らないだろう。
小川に下りて血抜きをし、内臓を外そうとルーチェはナイフを取り出した。
与一が
驚くような話だが日本というところでは、対価さえ払えば大抵の物は自宅にいながら購入が可能らしい。
与一の国に魔法がないなんて嘘ばかりだと思う。
そういえばメロンパンにもメロンは入っていなかった。
与一はたまにくだらない嘘をつくと思った。
だけど、そんな与太話は嫌いではない。
問題は解体した後にどうやって保存するかだ。
氷冷魔法が使える魔法使いがいればよかったのだが、ルーチェが使えるのは身体強化とごく初歩的な火炎魔法だけだ。
大至急燻製機を作る必要があるだろう。
さもなければ大部分の肉を無駄にしてしまいかねない。
今晩は与一の尻を叩いて無理にでも手伝わせなければならないとルーチェは考えていた。
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