第2話 対価

 気の遠くなるような長い階段を、途中何度も躊躇いながらルーチェはおりた。

一歩下るごとに地上は遠ざかり、引き返すのはおりた分だけ困難になる。

ダンジョンからの脱出を願うルーチェにとって下りるという行為は矛盾した行動だけに、何度も足を止めて階段の上と下を見比べた。

もっとも見比べたところで現状は何も変わらない。

階段の下には不安が、階段の上には絶望があるだけだ。

そして不安はいつだって希望と表裏一体に存在している。

不確かな希望を求めてルーチェは奈落の底へと歩を進めた。


 せめてもの気晴らしにとルーチェは階段の数を数える。

数字は確かなものの象徴として安心感を与えてくれる気がしたし、他に出来ることも思いつかなかったからだ。

でも左右に蛇行しながら続くステップを2014段まで数えたところで足を滑らせて転んだ時、そんな数に意味などないと思えて涙が零れた。

子どものように声をあげて泣き、泣きながらそれでも足を動かした。

死を受け入れる程には精神も肉体もまだ疲れ切ってはいなかったから。

やがて、眼下に見える階段の先がほのかに明るくなっていることに気が付いて、ルーチェは走り出していた。

光はいつだって希望の象徴なのだ。



 階段最下部にある小さな扉をくぐると、そこは大きな森だった。

とても地下迷宮の中とは思えない。

空からは柔らかな光が降り注ぎ、鳥たちの鳴き声がしている。

振り返れば今出てきた扉だけがポツンと大地の上に立っていた。

迷宮の壁も階段もどこにも見当たらない。

地上のどこかに転移した? 

それともここはまだカバリア迷宮の中なのだろうか? 

悲しいことにルーチェの疑問に答えてくれる者はおろか、疑念を共有できる仲間すらここにはいない。

魔物への恐怖が過ぎ去ると、次にルーチェの心に重くのしかかってきたのは孤独だった。


大変気持ちのいい場所なのだが冒険者であるルーチェは油断しなかった。

斥候役であるルーチェは敵の気配を探るプロフェッショナルでもある。

空気の匂いを嗅ぎ、大地を観察する。

幾筋かの獣道が林の中に散見されたが大型獣が通ったような太い道もなく、魔物の足跡も周囲にはなかった。

木の幹や倒木の下などを調べたが、引っかかっているのは鹿やヤギのものと思しき体毛だけだ。

広範囲を調べていないので断定はできないが半径1キロ以内に魔物がいる様子はなかった。

それでも慎重に辺りを窺いながら進むとルーチェは人の気配を感じた。

喜びと安堵の気持ちが沸いてすぐに声をかけようと思ったが、すんでのところで思いとどまる。

迷宮にはいろいろな人間がいるのだ。

気のいい冒険者もいれば強盗まがいの犯罪者も少なくない。

迂闊うかつに声をかけようものなら、いいように身体を弄ばれてから装備をはぎ取られることも考えられる。

最悪の場合は殺されることだってあるだろう。


……たとえそうだとしても。


この階層は滅多に人の来ない迷宮の深部だ。

人に出会える確率は非常に低い。

このチャンスを逃せば次に人に会えるのはいつになるかはわからない。

荷物の大部分を遺棄して逃げたので食料も水も全く残っていなかった。


 木陰に身を隠しながら様子を窺うと一人の男が歩き回っていた。

それはルーチェが見たこともないような人物だった。

人種は明らかにルーチェの住むポルトック王国の民とは違う。

以前に港町でみた東方諸国の人たちによく似ている。

だが、顔つきは穏やかで優しそうな人間に見える。

たいそう清潔にしているようで、髪も顔も貴族以上に汚れがない。

カバリア迷宮に入って一カ月、碌に水浴びもしていない自分が恥ずかしくなるほどだ。

年齢は二十歳になる自分と同じくらいか、それよりも少し若く見える。

解せないのは少年の服装だった。

ジーンズとTシャツという格好をルーチェは知らない。

だいたい迷宮の内部でそのような軽装をしている者など見たことがない。

武器も携帯していないことからもこの少年がこちらに害意を持つとは考えにくかった。

もしかすると私は助かるかもしれない。

そう考えるとルーチェの目に再び涙が溢れた。



 涙ながらに助けを求めてくるルーチェの姿を見つけて与一は声を失っていた。

彼女が発している言葉は明らかに日本語ではないが理解できる。

その不思議な感覚に与一はおののいていた。


「私は冒険者パーティー『七剣しちけん』の斥候役でルーチェ・イリスといいます。パーティーはこの上の階層でおそらく全滅しました……。お願いです。なんでもやりますのであなた方のパーティーに加えてはいただけませんか」


与一はどう答えればいいのかわからなかった。

自分はここがどこであるかも知らないし、パーティーではなく一人きりなのだ。

しかも目の前の女性は武器を所持している。

抜き身の剣を下げている人間に救助を求められること自体、あまりに日常とかけ離れていた。


「え、と……。教えて欲しいのですが、ここはどこなのでしょう?」


与一の言葉にルーチェは愕然とした。

目の前の少年はここがどこであるかも知らないというのだ。


「貴方は冒険者ではないの?」

「違います。おそらくですが自分は貴女がたの世界とは別の世界から来たのだと思います」


 与一と名乗る少年に連れてこられた大岩の斜面には人の背丈ほどもある木枠がはまっており、向こう側は室内になっているようだ。


「自分はここを通り抜けてきたんです」


そう言って与一が枠の中央をつつくと、水が張ってあるように波紋が広がり景色が揺れた。

ルーチェも同じようにつついてみたが木枠には硬質ガラスが張られているかのように指は奥に進むことはなかった。


「あれ、向こう側に手が入りませんか」

「うん。無理みたい」


どんなに強く押しても身体は木枠の向こう側へ入らない。

この枠を通して行き来できるのは与一だけのようだと二人は悟った。


 与一はいつになく饒舌だった。

自分の部屋のクローゼットが異世界へと通じていることに興奮していたし、ルーチェが話しやすい人懐っこいタイプだったからだ。

好奇心の強そうな大きな瞳は見つめていると吸い込まれそうだったし、少し肉厚で大きなめな口にはコケティッシュな魅力があった。

長い迷宮探索のためにルーチェの髪も肌もいたんではいたけれど与一にはまったく気にならなかった。


「つまりここはカバリア迷宮と呼ばれる迷宮なんだね」

「うん。でも自信はないわ。だって、ねえ……」


ルーチェは辺りを見回す。風景はどう見ても普通の森だ。


「ひょっとすると転送魔法で地上に出てきた可能性も捨てきれないわ」

「確かに屋内とは思えないよね。ところでルーチェたちはどうして迷宮を探索していたの?」

「目的は複数あるけど、一番はネクタリアの探索よ」


ネクタリアというのは伝説の果実だ。

この果実を食すとよわい120年が保証され、その寿命の間は病気も一切せず、刺されても焼かれても決して死ぬことがないという不思議な果実ということだった。

しかもネクタリアは胡散臭い言い伝えなどではなくポルトック王国の歴史上何度か発見されていて、効能も確認されている。

ゆえに王侯貴族はこぞってネクタリアの探索に力を入れており、数々の冒険者パーティーのパトロンとなっていた。


「私たちはアベニウスって伯爵のお抱えパーティーだったんだけどね、まあ、さっき話した通り一つ上の階層で全滅してしまったわ……」


吐き出すように言ってからルーチェはきゅっと口を結んだ。


「それで、ルーチェはこれからどうするつもりなの」

「そうね……とりあえず助けてくれそうな人たちが来るまでここで生活するしかないと思う。でも、付近に水場さえ見つけられればしばらくは何とかなるかな。食料になりそうな動物の痕跡もみつけたし」


ここで暮らすというのは半ば投げやりな気持ちであったが、ルーチェの言葉に与一は異様な反応を示した。


「水場と狩りか……。とりあえずこの周囲の探索もしなきゃならないんだよね」

「ええ。そうね」


与一はやおら立ち上がった。

やることをリストアップし買い物リストを作成するための紙とペンを取りに行こうとしたのだ。


「ちょっと失礼するね」


そう言って自分の部屋に帰ろうとした与一の腰にルーチェはしがみついた。


「待って!! お願いだから見捨てないで。お金は少ないけど全部あげるわ。なんだって協力する。だから……」


ルーチェは与一が自分を見捨てて元の世界へ帰ってしまうと思ったのだ。

今やルーチェにとって与一はささやかな希望の光だった。


 与一は腰に巻かれた手に軽く触れた。

「本当に何でもしてくれる? じゃあ、お願いしてもいいのかな……」


与一の言葉がルーチェの胸に突き刺さる。

予想はしていたことだった。

男の欲しがるものなど世界は変われど大した違いはないのだろう。

人の弱みに付け込んで身体を要求するなど恥ずべき行為だとは思うが、今のルーチェはそれを責め立てる立場にない。

生殺与奪は与一が握っているのだ。


「秘密基地を作るのを手伝って欲しいんだ!」


あまりに意外な言葉に与一の腰に回していたルーチェの手がぽとりと落ちた。


「俺、ずっとこういうのに憧れていたんだ!」


さわやかな笑顔でペットボトルのお茶を手渡され、ルーチェはあっけにとられたままそれを受け取った。


「蓋をひねれば開くからね。飲みながら待っててよ」


木枠の向こうに消えていく与一の姿を見送ってから、呆けたようにペットボトルのお茶を見つめる。

透明な容器の素材はわからないが中身はお茶らしい。


「喉、乾いたな……」


ルーチェは与一が自分の身体を要求していると勝手に勘違いしたことに顔から火が出る思いだった。

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