なぜ前に聞かなかったのか?
平野真咲
なぜ前に聞かなかったのか? 1
朝日を眺めながら
「遅い」
前を歩く黄色いTシャツを着た女子生徒が自転車を押しながらつぶやく。自転車の鑑札の色から2年生だと分かる彼女は、確か卓球部だ。いつも結構な怒鳴り声をあげて厳しく指導しているのが聞こえてくる。
そんな彼女の声を聴いたかのように、1台の白い自動車が轟轟としたエンジン音をあげてこちらに向かってきた。久葉中付近の交差点で曲がるつもりだろう。ちらりと右手の方向を見ると、スピードを緩める気配はないまま自動車はウインカーを出すのが見えた。横を通り過ぎたくらいで自動車はギュインとタイヤが軋む音を立てて右折した。その数秒後に白い自動車がエンジンをふかして元来た方向へと戻っていく。自転車の行進はその間少しも動かなかった。やがて「危ない」という声とともに話し声と行進が起こる。
「何あの車」
「遅刻しそうとでも思ったのかね」
後ろの人たちのセリフが背中越しに聞こえる。しかし門を開けるのが遅いなんてことは無い。むしろ俺を含めて早すぎる登校なのだ。
俺の場合、間に合うように家を出ると、通学路の途中にある学童保育所への送り迎えの車が多い時間に近くを通ることになってしまう。しかも母さんは一緒に家を出た方が都合がいいと言うのでさらに少し早い時間に叩きだされ、行くところもないから早く学校に着いく。家から歩いてくればピークとずれるのだろうけれど帰りが困る。何より研究部という部の性質上、自転車が必要になるときがあるのだ。
研究部は、普段は生徒からの依頼を受けてそれを解決したり、先生から頼まれたこと、主に雑用が多いのだけれど、を引き受けるという活動を行っている。今は夏休みなので研究部新聞の作成と総合体育大会やコンクールの時のコメントをもらいに行く以外の活動がほとんどない。その代わり大会やボランティアなどで校外に行くこともあるため自転車が必須なのだ。待ち時間は本を読んだり漢字や英単語の暗記に使える。そのおかげで夏休み中ではあるが、今日が提出日の読書感想文も既に提出してある。だが、早く着いてしまうことに1つだけ問題があった。その問題に今日は朝から直面することになる。
駐輪場に自転車を停め、昇降口前の階段を登ろうとしたところだった。
「おっす!」
なぜかまだヘルメットをかぶったままの
「おお! どうした?」
「いやー、今日遅刻すっかと思ったわ」
「ま、部長も厳しいからねえ。今日はバットで殴られるかもしれないから」
文典の後ろから
「ええー!」と声がする。堤の隣にいた
「そうそう。だからメットかぶっといた方がいいよ」
文典もはやし立てる。
「そんなー」と言いながら浅輪君はヘルメットをかぶった。
「んなわけないだろ、昭和のヤンキーじゃあるまいし!」
思わず叫んでしまった。いつもこの3人は卓球部ということもあって一緒にいることが多い。主に文典と堤が浅輪君をいじっているだけにも見えるけれど。
3人組を見送った直後、見覚えがあったために、反射的に前を通り過ぎた生徒に「おはよう!」と言ってしまった。
「おはよう、
そして話があるのだけれども」
相手を改めて見る。なよなよした体型、血の気の薄い顔。決して運動部の同級生ではない。
「すみません、おはようございます!」
俺はうっかり研究部の部長である
「そのくらい気にしなくていいよ。問題なのはなぜもう自転車を停め終わっているのかということ」
怒らせてしまったかと思ったが、そんなことで怒る人ではない。やはり登校時間の話だった。
「すみません」
「事情があるから強く言いたくはないけれどね。今日は柔道部が練習試合って言っていたから来るか分からないけれど、
そう言って冬樹先輩は自転車を引いて行った。
土日及び長期休暇中は7時半より早く登校してはならない。久葉中の校則の1つである。防犯だけでなく部活の過熱化も防げるこの校則は、いかなる例外も認める方向には行かないらしい。その理由としては誰よりも身に染みて分かっているつもりだった。3年前まではこの久葉中学校の先生だった父さんは、当時の部活動の在り方をたった一人で変えようとしていた。今でこそ父さんの指導方針は間違っていなかったと話す先生も多いものの、当の本人はその功績が認められたことを知らない。話したくても話せない。ある日突然、姿を消して行方をくらましてしまったのだから。
実は夏休み中に何回か注意されている。そのたびに部長である冬樹先輩と顧問の田村先生に事情を説明していた。冬樹先輩は自分のことではないのに一緒に掛け合ってくれるし、田村先生も校則に柔軟性を持たせることを校長先生に働きかけているとは聞いている。しかし、いくら田んぼ道だからとはいえ久葉中の生徒たちが学校付近の歩道を埋め尽くしていることをよしとするわけにはいかない、そういう意見もあるようだった。他にも紫外線の悪影響を受ける前に日焼け止めクリームの使用を許可してほしい、とか、生徒の登下校中の安全の確保のために部活のみの日はスマートフォンを持たせたい、とか、いろいろな要望があって、それもひとつづつ検討しているからだとも囁かれている。もっとも、普段のこの時間は久葉中の先生の車くらいしか見ないし、卓球部の部長のように早く来ることでやる気を見せるという悪しき伝統が受け継がれている部も少なくないので、この問題を解決しない限りは難しいだろう。
話し合いをするにも、まず田村先生の予定を確認しようと掲示板を見ることにした。
昇降口から入ってすぐ左手にある職員室の壁が黒板になっており、ここには全部活動の予定が書きこんである。柔道部の欄には「練習試合、タムラ不在」とあった。何となく目を動かしてみると、野球部「自主練」、バレーボール部「午後練習試合」バスケットボール部、卓球部「別紙参照」、剣道部「午後、川崎」、吹奏楽部「休み」、美術部「万田市立美術館見学、サイトウ」と書かれている。ちなみに研究部には「増田」と書かれている。今日は
「元気君、田村先生はどう?」
「今日は来ないみたいですね」
後から来た冬樹先輩と一緒に確認すると、講義室に向かった。
「そういえば体育館の部活の別紙って何でしょうね」
「体育館の割り当て表を別に作ってあるんだよ。バスケ部、バレー部、卓球部が一斉に使うことはできないからね」
「割り当て表ですか。そんなのなかったような気がしますけど」
「言われてみれば黒板には貼ってなかったかもしれない。月の変わり目だからかなあ」
冬樹先輩は緩やかに首をかしげた。
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