ひとつしかない心臓の、その最後の息まで ②

 フィルバートは返事をしなかった。驚きもしなかった。ほぼ、予想通りの人間だったからでもあるし、女性が剣を抜いて自分に向かってきたからだ。ガキッと固い音ともに剣がぶつかり合う。二度、三度と剣を合わせると、サーレンがなかなかの剣の使い手であることがわかった――後退してフィルから離れ、反撃に転じるための距離を取ろうとする冷静さもある。複数人を同時に相手にしているフィルは、そうさせるわけにはいかなかったので、さらに激しく剣をふるい続けた。長年の鍛錬がわかる剣さばきで、しかもフィルほどの剣豪に対しても臆することなく剣をまじえられるだけの経験を積んでいると見えた。両者の実力差も熟知していて、ほかの兵士からの攻撃にまぎれてうまくミスを誘うような方策を取っている。


 フィルは作戦を変え、彼女のほうに一歩踏み込んで、残り二名の兵士にわざと小さな隙を見せた。兵士として正規の訓練を受けると、あらゆる攻撃に対してそなえられる一方で、敵のこうした隙を見逃せなくなる。彼の作った隙は左側にあったが、そこに誘われた兵士を一度見逃してから、もう一人の右側の兵士が、同僚の攻撃を邪魔しないよう、一歩身を引いたのを確認した。次の動きはひとつの流れるような完成されたものだった――左側の兵士が振り下ろした刃を間一髪でかわし、右側の兵士の体重をかけた後ろ足を払ってよろめかせ、その頭から肩を大きく切り裂き、もう一度左側の兵士に向かって弾みをつけて一気に剣を突き上げた。〈大喰らいグラトニー〉がうなり、その先端が男の胸を深々と貫いた。

 

 左足で相手を押しやって剣を引き抜き、同時に身体をくるりと向けて、フィルは女に向かった。


「わたくしとの手合わせを残してくださったのを、光栄だと思わなければいけませんわね」

 一般兵の軍服姿でも寵姫は優雅だったが、その声は抑えきれない恐怖に震えていた。それでも、逃げだしたり命乞いをしたりしないのだから、大したものだと言えただろう。

「最後に、聞いてもようございますか? なぜ、戦うわたくしを見て驚かなかったのかを」


「以前、王の近くにいるあなたから、香水にまぎれてかすかに緑狂笛グリーンフルートの匂いがしたことがある」フィルは言った。「死地に追いやられる、使い捨ての兵士だけが知る薬の匂いだ。それで、あなたが手練てだれの兵士でもあると知った。それから、あなたの動向には注意していた」


 銃撃を避けられたのも、彼女の手の内をすでに想像していたおかげでもある。鍛錬を積んだとはいえ、あるいは積んだからこそ、女性であるサーレンが男性の剣士を倒すことはかなり困難なことと知っているはずだ。そういった前提があり、しかも色香で相手の油断を誘うこともできない場合、彼女はおそらく毒か飛び道具を使うだろうと考えた。


 サーレンはさらに二挺の短銃を構えた。狙いをさだめるように一、二拍の間があり、灰色の目がちらりとフィルの背後に向けられた。そこに、もう一人の兵がいる。彼女がしかけた会話は、時間稼ぎのためだった。


 兵の手が動き、フィルがよろめいた。

 そして、サーレンの構えた銃は火を吹くことなく地面に落ち、彼女はぐらりと前に傾いで、倒れた。

 フィルの背後にいた兵が、体勢を崩したフィルを無視して、サーレンに向かってナイフを投げたのだ。ナイフは喉と心臓と腹部をあやまたず貫いた。


「……どうして?」寵姫は血を吐いたあと、うつぶせのまま問いかけた。だが、フィルの解を待つことなく、自分で答えを見いだしたようだった。「も、あなたの仲間」

 そして、その解に満足したように事切れた。



「隊長!」ナイフを投げた男の声が、背後から叫んだ。「あんた、この豚のケツの、最悪の大馬鹿者が!」


 フィルはよろめいたふりをやめ、すっくと立って男に向きなおった。


「相変わらず、の国の軍服が似合ってるじゃないか、テオ、この浮浪者が」フィルもやり返した。「ご自慢の金髪は十日は洗ってないんじゃないか?」

 かつての部下が、変装して兵士のなかに混ざっていると気づいたのは、サーレンと剣を合わせているときだ。彼女が短銃を構えたまましかけた会話に乗ったのも、背後からフィルを狙うように近づく兵士がテオだと気がついたからだった。


「あんたのために、どんだけ危ない目に遭ったと思ってんだ!」テオは重たげな兜を頭から抜いて、地面に投げ捨てた。「どういうことだよ、アエディクラの軍に入りこむなんて。しかも、動くのが早すぎるだろ!」

「俺は頼んでない」

「あの嬢ちゃんが俺に頼んだんだよ! 『フィルを助けて。こんなところで、スパイのまま死なせないで』ってな。泣かせるだろうが」

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