ひとつしかない心臓の、その最後の息まで ③

 その言葉はフィルバートにてきめんに効いたらしく、露骨に顔をそらした。「……リアナは無分別すぎる」

「あんたほどじゃねぇよ! 本人がいない前で、これ見よがしに名前呼びしてんじゃねぇよ気持ち悪い」

「……」

「だいたいが、〈ヴァデックの悪魔〉がかわいい女王のお茶くみだのドレス選びだの、侍女も真っ青の世話焼きっぷりで下心まるだしというか」

「テオ」

「言っとくけどあんたものの見事に陛下にフラれてるからな、フラれ酒はつきあうけど、あんたのおごりだぞ」

「テオ、あれを見ろ」

「あんたもそろそろ現実を見て……ん?」

 立て板に水式にまくしたてていたテオが振り向くと、竜車がそろそろと動きだし、その場から逃げようとしているところだった。御者台にさきほどとは別の兵士がいるのが見える。竜車のなかにいた護衛だろう。


 フィルバートはそれ以上なにも言わずに、親指と人差し指を使ったなじみのサインで竜車のほうを指し、テオに作戦を伝えた。作戦内容は、「いまから俺とおまえとで、あの竜車をぶっ壊す」だ。

「クッソ!」テオが天を仰ぎ、また悪態をついた。「特別手当はリアナ陛下に請求すっからな!」


 そして、二人で竜車のほうへ駆けていく。


 

 フィルバートはほとんど予備動作もなく跳びあがって、箱竜車の扉にぴたりと張りついた。がたがたと走る竜車の揺れにいくらか苦労しながら扉の掛け金をそっとはずし、同じように逆側の扉に張りついたテオに合図を送った。


 車のなかからは、ふいに片側の扉の窓に、ぬっと兵士の手と頭が見えたはずだ。窓わくを掴んで、がちゃっと大きな音を立てて掛け金をはずすテオの動きに車内が騒然としている音を確認してから、フィルはおもむろに逆側から侵入した。


「なっ、何だ?――」

 不測の事態のときに、うかつに声を上げてはいけない。そのことを声の持ち主、キャンピオンは人生の最後に学んだ。フィルの右手にもう一本のナイフが現れ、至近距離で投げられたそれが狂った科学者の胸に刺さった。キャンピオンの向かいに座っていた従者がふりむいて、あわてて剣を抜いたが、そのときにはすでにキャンピオンの腰から抜かれた剣が彼の喉を掻き切っていた。


 従者が剣士でなくて助かったな、と一瞬だけフィルは思った。抜刀とフィルへの攻撃を一動作で行えば、事態はもう少し面倒になっていただろう。どのみち、これほど狭い場所で剣をふるう術を剣士が身につけていることは少なく、結果は変わらなかっただろうが。


 悲鳴とともに竜車が止まった。御者台の兵士はテオが片づけているだろう。

 混乱のなか、手綱の切れた走り竜ストライダーがどすどすと走り去っていく音が聞こえた。フィルは気にすることなくキャンピオンの荷物を探り、雑多な書きつけをあさって、目当てのものを見つけ出した。

 

 

「そんで、今からどうするのよ?」剣を布でぬぐいながら、テオが尋ねた。

 動きの止まった箱竜車のなかは、生きたものの気配もなく静まりかえっている。

 フィルは、手にした手帳なようなものを、ぱらぱらと用心深くめくった。そして目を下に向けたまま、おもむろに言った。


「オンブリア軍に投降する」


「ハァ?」テオは首をひねった。「あんた、ほぼ国のお尋ね者だぞ。それが帳消しになるくらいのシロモノなのかよ、それは?」

「いいや。この手稿は取引には使わない。デイミオンに渡す。ほかの者に存在を知られないようにな」


「なにを無茶言ってんだ。タマリスでは〈竜殺しスレイヤー〉を訴追しようって、あのエンガス卿が手ぐすね引いて待ってんだぞ」

「むしろ好都合だ。おまえにも一芝居頼む」

 テオが肩をつかんだ。「あんたな――」

 だが、フィルはその手をはずす。


「黒竜大公の命で俺を探索し、捕縛したと言え。おまえに累は及ばない。後のことは心配するな」

「そういうことを言ってんじゃないだろうが!!」テオが怒鳴った。

「なんだってそう、自分一人で突っ走ろうとするんだよ!? 俺もケブも、国家機密だろうがなんだろうが盗みだしてやったよ。あんたがひとこと言いさえすれば! 俺たちはあの連隊で、同じ地獄を生き延びたんじゃなかったのかよ!?」


「それはいま関係ない」

「ああそうかよ。じゃ、陛下があんたを守るために俺をよこしたことだって、関係ないんだろうな! たいした隊長さまだぜ」

 フィルは万感の思いを込めて首を振り、嘆息した。「知られるわけにいかなかったんだ。手稿のことも、リアナのことも。……一人の兵士にしかできない戦いもある。おまえなら、わかるだろう?」

 説得させられる雰囲気を感じて、テオは露骨に顔をしかめた。「あんたのそういうところが、ほんと嫌いだよ」


 なおも言いつのろうとするテオを説き伏せ、手稿を持たせ、念のため侍女のミヤミを通じてデイミオンに渡すようにと指示した。テオは思春期の息子を持つ母親のようにぶつぶつと小言を並べたが、結局はやってくれるだろうということが、長いつきあいのフィルにはもうわかっていた。



 一人だけ始末しそびれた御者はおそらく、竜車を捨てて逃げ出したのだろう。この状況でできる最善の策だ。一瞬、あとを追いかけて御者も殺すべきかと迷ったが、やめておいた。雇い主が襲撃された責任を追及されるより、行方をくらますほうがましだと思うだろう。どのみち、もはやアエディクラでの立場を気にする必要はない。あちらに戻ることもない。……求めていたものが手に入ったのだ。

 手稿は、かつてオンブリアで〈黄金賢者〉と呼ばれていた高名な研究者の記したものだった。エリサ王へのクーデターを企てたために、男はのちに〈反逆者マリウス〉と呼ばれるようになった。いずれにせよ、その手稿は戦後の混乱にあって長い間失われていたものだ。


 マリウス手稿ノート。仕えるべき主君を裏切り、故郷を出奔し、敵国の軍門に下って、フィルバートはようやく、目的を達成したのだった。それは、今まさにデーグルモールと化しつつあるリアナを救う重要な手がかりとなるはずだ。


 襲撃のをはじめたテオを眺めながら、フィルはもう一度、手に入れたものを点検し、自分の目的と道中に起こりうる障害、すべての手順を確認した。それが終わると、そっと呟いた。


「ひとつしかない心臓の、その最後の息まで――リアナ、あなたのために、俺はすべてをけられる」



【第三部へ続く】

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