2-8. 生まれたときの名前
痛いところを突かれて、リアナは口ごもった。「それは……」
『……成人して次の歳からしか
そう、グウィナにぶつけた夜会から、まだそれほどの日数は過ぎていない。心変わりをしたのかと問われれば、違う、と思う。だが――
「いまは……よく、わからなくなりました」
赤ん坊の泣き声と、軍靴の大きな音が近づいてきた。
「叔母上、すまんが俺ではどうにもならない――」
入ってきたデイミオンが、口にしかけた言葉を止めて固まった。リアナがいるとは思っていなかったらしい。腕に抱いた赤ん坊が、この世の終わりのように泣きわめいている。
「まあ、ごめんなさいね、デイ」
グウィナが赤ん坊を抱きとった。推測するに、デイミオンはフィルの出奔で虚脱していた叔母のために子守り役を買って出たのだろう。
その男は、リアナが壁の染みででもあるかのように無視して話し続ける。
「だいたい、叔母上が赤ん坊の面倒まで見る必要はないんだ。ヴィクやナイムもいるのに……こいつは、母上の産んだ子どもだろう? あの人はなぜいつもいつも、自分の産んだ子を叔母上に押しつけるんだ? 古竜の仔でもあるまいに」
そういえば、グウィナとハダルクのあいだの子どもはヴィクトリオンとナイメリオンの二人だと言っていたっけ。そのときは、赤ちゃんのほうは別の男性との子どもなのかとしか思わなかった。
しかし、デイミオンは「母上」と言ったのだから、彼ら、つまりデイミオンとフィルの母、そしてエリサの前の王でもあったレヘリーン王の産んだ子どもということになる。
要するに――あまり似ていない兄弟の、年の離れた新しい弟、ということだ。
「わたくしがやりたいからやっていることよ、デイミオン」
グウィナは手慣れたようすで赤ん坊に鼻を近づけて嗅ぎ、おしめをチェックしてから、抱いてあやしはじめた。
「おお、よしよし、どうしたの?……お兄ちゃまが抱いてくだすったのよ。あんなに泣くなんて、いけない子ねぇ、マル……」
「マル?」デイミオンが鋭く聞きとがめた。「この子の名前は、マルなのか?」
グウィナがぎくりと動きを止めた。どうやら、これまで秘密にしていたのを、うっかり口を滑らせたとでもいう感じだ。「……ええ」
「マルミオンか?」
「……そうよ」
「なんていう女だ!」デイミオンが声を荒げた。
「マルミオンはあいつの名前じゃないか!! 自分で養育できずに投げ出すだけならともかく――あいつの名前をつけるなんて! 母親としての情はないのか?!」
「デイミオン」グウィナが慌ててとどめた。「そんな大きな声を出したら、この子がびっくりしてよ」
デイミオンは歯痛の熊のようにうろうろと歩きまわった。彼の、怒ったときの癖なのだ。
リアナはなにか声をかけたかったが、言葉を考えあぐねているうちに、タイミングをのがしてしまった。
「……執務に戻ります」
ばたん、と音を立てて扉が閉まった。
彼女のほうを見ることなく去っていくデイミオンに、ため息しかでない。
あの夜から、彼とほとんど会話をしていない――いずれは、話し合わなければならないだろう。もっとも、黒竜大公のほうにその気があればの話だが。
それでも、今はほかに気になることがあった。
「マルミオンがあいつの名前、って……どういうことなんですか?」
赤ん坊の背をゆっくりと叩きながら、グウィナはしばらくためらっていたが、結局は話してくれた。
「フィルバートの、生まれたときの名前なのです」
リアナは目を見開いた。「フィルの?」
「マルミオン・エクハリトス。……立派な名前でしょう? 小さな頃は、マルと呼ばれていたわ。活発で、利発で、いつもデイミオンのあとをついてまわって。わたくしたち夫婦は子どもがいない時期が長かったから、どちらも本当にかわいかった」
グウィナは、ガラス窓のほうへアイスブルーの目を向けた。
「それがわかったのは、とても幼い頃でした……だから、〈
訪問していた〈
――いいえ、お母さま。僕には竜の声は聞こえません。
「レヘリーンは邪悪な人じゃないわ。むしろ善良すぎるくらい。……でも、母親には向いていないとしか言いようがない。
――そういう人もいるのですよ、陛下。誰もが太陽のような愛をもって母親に生まれるわけではないのです。デイミオンも、それはもうわかっているのですけれど、……フィルのために怒ってくれたのね」
代々
どんな思いで育ったのだろう?
数々の差別と偏見を受け、竜族としての忠誠を証明するために軍隊に入り、勝ち目の薄い厳しい戦いに駆りだされ、祖国のために死ぬのが名誉とみずからを鼓舞し、そこまでして国に尽くして戦ったのに、レヘリーンは息子を愛さなかったのだろうか?
一度はフィルにつけた名前を、新しい子どもに与えるなんて、それではまるで、フィルが最初からいなかったみたいだ。
それは本当に無自覚であるならいっそう残酷で、フィルが出奔したのもしかたないと思えて、リアナは胃に砂が詰まったような無力感をおぼえた。
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