2-3. ほかの誰よりも、この世の何よりも

 ランタンを二人の顔のあいだにかかげて、リアナはじっとかれの顔を見た。ハシバミ色の瞳に映るもの。かれも、なにかを怖がっている?


「嵐が怖いんです」彼女の疑問に気がついたかのように、フィルがそっと言った。「雷雨と泥とぬかるみが」


「……戦争のせい?」

 フィルは彼女の手からランタンを取ってベンチに置いた。横顔が一瞬照らされ、またかげった。「俺は指揮官だったのに、自分の部隊を守れなかった。それを思い出さずにいられない。いつも、自分だけが生き延びてしまう」


「あなたは生き延びるべきだったのよ」

 フィルは力なく首を振る。

「死は怖くない、炎も爆撃も、えた補給線すらもう怖いとは思わない。でも、こんな天候は自分が無防備になったようで、嫌なんです。……竜族のどんな力も持たず、手は血にまみれて、そのくせ今でも戦場を懐かしんでいる。あんなに悲惨な場所なのに、そこでなら、自分を偽らなくてすむから――リアナ、俺は怪物だ」


 絞りだすような声に、リアナは絶句した。はじめて聞く、悲鳴のようなフィルの本音に、胸の真ん中を射抜かれたような気がした。


「いいえ、あなたは竜族の男よ」浮かびあがる頬を手にはさむ。髭の剃りあとがかすかにざらついた。

「怪物なんかじゃない。この手でほかの命を何度も救ったわ。わたしの命も」

 息がかかるほど近くに、熱の塊のような男性の体温を感じる。フィルはためらいがちに彼女の腰に手をまわしたが、それはつま先立っている彼女を支えるための、触れるか触れないかの接触だった。


「あなたがなにを怖がっているのか、分かったわ。……あなたは自分が怖いのね」

 リアナは彼の目をしっかりと見つめて、ついに言った。


「フィル、わたしが欲しい?」


 その言葉を聞いたフィルバートは、ほとんど殴られたといっていいほど衝撃を受けた顔をした。それから彼女の腰を抱く腕がぐっと強まって、緑まじりのハシバミの瞳が燃えた。


「ほかの誰よりも――この世の何よりも」


 低く切実な声でそう言うと、リアナの耳の上の髪に指を通し、てのひらを首筋にあてがって、深くふかく口づけた。その動きでふたりの髪から水滴がまた流れ落ちる。

 口のなかのやわらかい粘膜を舌でつつかれ、さらに舌どうしが絡まる。幼竜が水を飲むような、湿った水音が響く。強く抱き寄せられ、濡れた服を挟んでふたりの身体がぴたりと密着して、リアナはもうほかのことはなにも考えられなくなった。


 キスなら今までにもしたことがある。デイミオンのキスは、唇が優しく押しあてられるだけのものだった。だがこのキスはそんなものとはまったく違っていた。導火線に火がついて、全身が一気に目ざめたかのようだ。自分の心臓が激しく打つのを聞き、濡れた布ごしに身体が押しつけられるのを感じた。フィルは片手で彼女の首筋を固定しながら、もう一方の手を背に当てて自分のほうへと引き寄せていた。


 大きな手のひらが鎖骨のうえを撫で、そのまま、濡れたドレスのボタンをはずしていく。リアナはほとんどそれを意識もできず、ただ夢中で口づけを受けていた。繁殖期シーズンの長い夜、デイミオンがなにをしているのかがはじめてわかった。そして、こんなことを好きでもないひととなんてできるはずがない、と怒りにも似た気持ちで思う。


 たとえ領主貴族の、竜族の男の義務だとしても、この興奮とキスと手の熱さを感じられる女性だけが恋人なのだ。そんな単純なことが、いまはっきりとわかる。唇が触れあった瞬間、デイミオンとの〈ばい〉が開かれたことを感じた。けれど、もう迷いはなかった。いまのリアナが欲しいのはフィルの指と唇だけだ。


「覚えていて。……たとえあなたが何者でも、俺はあなたのそばを離れない。ひとつしかない心臓も、俺の最期の息まですべて、あなたの持ち物だ。リアナ……リアナ」

「フィル」

「リアナ」


 お互いの名を交わし、何度も口づけては、見つめる。それはリアナの知らない神聖な行為のようだった。けれど、キスも声もしだいに熱を帯びてくると、まるでよくない薬でもしみわたっていくかのように、快感を呼び覚ましはじめた。彼の声はペストリーよりも甘い、と女官たちが噂していたことがあったっけ。ぼんやりと思い出す。耳の中から身体中に注ぎこまれる甘さだ。


 フィルは彼女の手に右手を重ね、口もとへ持っていくと、手のひらにキスをした。それから手首の血管をたどるように舌を這わせ、そこにも噛みつくようなキスをした。手に持った骨付き肉を、これから食べようとでもしているように見える。

 おいしそうだな。どこから食べようか。そんな、肉食獣の欲望と好奇心とを同時に感じる目つきだ。


 唇をあてたままその目をあげると、

「ここからは、もう、あなたの意志でも止められない。……泣いてもやめてあげませんから」とささやいた。


「望む……ところよ」

 フィルの色気にあてられたのか、恥ずかしさが勝ったのか、なんだかおかしな応答をしてしまう。フィルは笑って彼女を抱きあげ、ほんの数歩しか離れていない寝台におろした。そして自分も服を脱ぎ、無造作に放ると、彼女の上に覆いかぶさる。裸の身体が動くと、しなやかな筋肉に目を奪われて、リアナはそのすべてを目で追っていた。自分のものとはまったく違う身体。緊張してなんと言えばいいのか、どうしていいのかわからない。激しい雨の音、フィルの重みで大きくきしむ寝台の音。消さずに残してある燭台の灯りが、琥珀色にあたりを照らしている。


 粗末な寝台の上の本や上かけをフィルが足で払い落し、ばさばさっと音を立てて落ちたのが聞こえた。


 それが、長い夜のはじまりだった。

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