3-8. 黒竜大公の恋わずらい

 王太子デイミオンは、窓に片側の頭を当て、長い腕と足を組み、湖の上をわたっていく灰色の雲を見るともなしに眺めていた。エンガス卿のタウンハウスは王都タマリス、湖の近くにある。


 やはり、雨が降りだした。重い雨粒が窓ガラスを打ち、線状にしたたって落ちていく。悪天候が好きな黒竜アーダルは今ごろ、西の海辺で遊んでいるだろう。豪速で海の中まで突っこんでいっては、沖の漁船を死ぬほど驚かしたりして。


 普段なら考えもしないような、子どもじみたささいな空想をしているのは、時間を持てあましているせいだった。屋敷の応接間は、持ち主の資産を考えればそれほど贅沢なものではないが、希少な美術書や医学書が並び、家具の選びにも趣味の良さがうかがえる。ここに通されてもう一刻になるのでいい加減イライラしていたが、たとえ夕方まで待たされるとしても、デイミオンはそれを甘受するつもりだった。予想以上に客を待たせて焦らしたり、逆に自分から親しげに出向いて喜ばせたり――と、エンガス卿が若い貴族を翻弄しつつ、自分の思うとおりに動かすさまを何度も目にしてきたからだ。


――少なくとも、まあ、若造だと舐められていることを逆手に取る戦略くらいは思いつくかもしれん。


 そう思って二、三の会話を組み立てては、またやめてため息をついた。最近、あまり考えごとに集中できない。


 ぼんやりしていると、ついリアナのことを考えてしまう。彼女と、自分の弟のことを。正確には、彼らふたりが床を共にしたという事実をだ。

 最初のうちこそ、繁殖期シーズンのルールを破ったふたりへの猛烈な怒りに襲われていたが、こうやって彼らがいなくなってみると、だんだんと自分の正しさに自信がなくなってくるのを感じる。


 子どもを持つことが竜族の男の義務と信じ、リアナもそれを理解するべきだと、自分の繁殖期シーズンの務めをやめることなく彼女にはただ待つことを強いてきた。けれど、あの嵐の夜に〈呼ばい〉のつながりから彼女の満ち足りた心と交合のよろこびがはっきりと伝わってきたときには、文字どおり火で焼くような嫉妬と苦痛に襲われた。自分がほかの女性と夜の営みをはたしている幾夜ものあいだ、彼女はひとりでその苦しみに耐えていたのだ。その重さと苦しみを知ったいまとなっては、ついに耐えられなくなった彼女が自分を見限ったとしても文句は言えないような気がした。結局のところ、彼女が欲しがっていたものを最初に与えた男は、自分ではなくフィルバート・スターバウなのだから。


 弟に対する怒りをどうおさめればいいのかもわからない。〈ハートレス〉として竜族の男の生活から除外されてきたフィルバートが、もしかしたらはじめて愛して結ばれた女性がリアナかもしれないのだ。もし出奔したのが兄である自分への罪悪感からだとしたら、家族として彼を理解して許してやるべきではないか、と思うのだが、気持ちがついていかない。

 デイミオンは〈摂政王子〉で〈黒竜大公〉であり、これまでの人生を軍人、指揮官、庇護者としてふるまってきた。彼はアーダル同様、オンブリアの雄のなかの雄アルファメイルだった。そして、忍耐と寛容さは、エクハリトス家の男の美徳ではない。

 問題はだ。彼と絆をつなぐ黒竜アーダルは、オンブリアすべての雄竜を統率しており、主人ライダーであるデイミオンの怒りは、そのアーダルの制御を危うくさせる。アーダルの暴走は、そのままオンブリアの滅亡につながりかねない凶事となる。……堪えねば。だが……


 あれこれと思いわずらっているうち、エンガス卿にとって都合の良いタイミングが来たらしい。扉が開いて、従僕が案内を申し出た。

 てっきりエンガスの私室に案内されるものだと思っていたが、従僕はデイミオンを屋敷に隣接した温室へと連れていった。社交上の知識としていちおう蘭だとはわかるが、それ以外には見当もつかないほど多様な形をした花が鉢に並んでいる。よく見るピンク色の大きなもの、シラサギが翼を広げているような形のもの、奇妙な小人の群れのようなもの。


 リアナに花くらい贈るべきだっただろうか、などと益体もつかないことをまた考える。ただ関心を引くためにだけそんなことをしても、おそらく笑顔を見せてはくれるまい。そういえば、しばらく彼女の笑顔を見ていない。謁見室で見せる仮面のようなほほえみではなく、ちょっとした冗談を言うときのいたずらっぽい顔や、自分の前を歩いていた彼女がふとふり返って見せてくれる照れくさそうな笑みや――……


「考えごとをしておられるのかな。美丈夫が花を見ているさまは絵になるものだ」


 背後から声をかけられ、デイミオンはゆったりとふり返った。恋わずらいの真っ最中だろうが、腐っても竜騎手。かすかな足音を聞き逃すようなことはない。


 五公の最年長、ダブレイン=エンガス卿が立っていた。小柄で細身で、銀縁の眼鏡をかけている老人だ。


「竜族にとっては恋の繁殖期シーズンだ。考え事は美しい女性のことかな。……卿が心変わりしたのではと、セラベスの兄がいたく心配していたが。……私はセラベスを鱗の取れない頃から知っていてね、良い娘だが、いささか本の虫すぎる」

 デイミオンはそれには答えず、意味ありげにほほえんだ。この話題を続けるつもりはないという意思表示だ。エンガスはそれに乗り、ほほえみをかえした。一歩、譲歩してやったつもりかもしれない。


「温室に退屈なさっていないといいのだが。蘭の栽培は老人の数少ない趣味でね」


 温室に入る前に一刻も待たされたがな、とは返さない。

「花には詳しくありませんが、実に美しいですね。……これはなんという種類ですか?」

 デイミオンが指さしたのは、白いゆりかごのようなふっくらした花だった。かすかにシナモンの香りがする。

「『み使いの籠』という種類だ。東の山の岩肌にしか生えていないので、採取が難しい。入手するのに苦労した一本だよ」

「興味深い花弁だ」

 二人は注意深く社交上の会話を続けたのち、本題に入った。

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